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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
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はじめてこの気持ちを

 咲幸の問いに対する答えを、俺は知っている。高校三年生の冬に、咲幸が手本を示してくれたのだから。

 ずっと彼女の夢を応援すると誓った俺は、断るべきなのだろう。


 俺のためだけに千葉へ来るな。一歩でも目標に近づけるように、新しい就職先へ行け。距離はさらに遠く隔てられてしまうけれど、大丈夫だから、と。

 彼女のことを信じきれずに手軽な代替に手を出した野郎が、どの面を下げて大丈夫などと口にできるんだよ。呆れる。


 それでも俺は、咲幸の言葉に頷いてはいけない。

 職もなければ知り合いもいない、なんのアテもツテもない土地に来させるなんて現実的ではないだろう。咲幸は脳が単純だから、きっとあまり深くは考えられないのだ。


 彼女の夢がここで途絶えたらどうするつもりなんだ。

 どう責任を取るつもりなんだよ、俺は。


 駄目に決まっている。答えは用意されているはずなのに、言葉が出てこなかった。冷えた空気を吸い込むと、喉が凍り付いてしまったように余計固くなる。見えない壁が作られ、駄目だ、の一言を通さまいと行く手を阻んだ。


 時間だけが過ぎ、やがて咲幸が黙り込む俺の顔を覗く。


「健一くん?」


 大きなどんぐり眼に宿る純真な光。そこに不安の色はなく、期待一色に染まっていた。

 俺が受け入れてくれることを、信じ切っている顔だ。ああ、ずるい、ともう一度口の中で呟く。


 そんな目を向けるなよ。宝石を寄せ集めたみたいにいっとう輝く瞳で、未来を見据えるなよ。

 近くで暮らしたら絶対楽しいよねって、なに呑気に頭を千葉へ飛ばして新生活を始めてやがるんだよ。俺の心はなにふらふらと咲幸に付随して、夢見がちになりだしているんだ。馬鹿ばかりなのか。

 けれどそんな心を叱れず否定もできず、俺は項垂れた。


「……来て」


 敗北だ。自身の欲望との戦いに、俺は勝てない。

 生まれ落ちた声は頼りなく、隣の咲幸にすら届かず消えた。


「来てくれ。千葉に、来てくれ」


 結局どうしようもなくガキな俺は、遠くにいる彼女と関係を繋いでいく方法がわからないのだ。目先の幸福をぶら下げられたら、すぐに飛びついてしまう。躾のなっていない犬のように、脳内が飛び回っている。


 咲幸が側にいる生活は、情けなさを晒しても正しくないと批判されようとも、手に入れたかった。俺がこの半年、欲しくて欲しくて渇望し続けたものだ。それが与えられるかもしれない。期待と喜びを余るほど詰められた俺の心は、幸福な日々の可能性を手放そうとはしてくれなかった。


 絶対に後悔させないから側に居てくれ。

 懇願に近い俺の声に、咲幸は流星の軌跡のように目を細める。


「うん、行くからね。……健一くん、ありがとう」


 今の答えこそが正解だ。いつかそう言える未来を築けばいい。先を見据えない甘ったれたガキの決断は、大人たちから鼻で笑われてしまう。けれど幸せを隠しきれない声を響かせる咲幸が望むのなら、これでいいと信じよう。


 よかった。安堵を漏らす咲幸は安心しきったのか、それおいしいよ、と土産品を指差している。

 黙り込む俺を置いてきぼりにして、話題を矢継ぎ早に変えていく。咲幸は嬉しい時、お喋りになってしまう。


「母さんあたしの年を間違えてたみたいでね、成人式が今年だと勘違いしてたんだって。馬鹿だよねえ。そのせいで来年の五月なのに、もう今月振袖の前撮り行くことになったの。というかあたし、全然着物似合わんのよ」


 俺の力ない相槌にも、咲幸は言葉を続けていく。


「あ、そうそう服で思い出したんだけど、あのね。最近帰って服脱ぐ時間も面倒で、すっごい早着替えできるようになったんだよ。バッって全部脱ぐ感じでさ。パーカとかセータだと簡単なんだけど、一昨日うっかりブラウスでやったらボタン全部飛んでまってね、バラバラー! うあー! しまったあって。縫うの大変だったなあ」


 裁縫、得意じゃないんだよねえと刺創が残る指を出す。


「どんな勢いつけて脱いでんだよ」

「健一くんにも見せたるよ?」


 馬鹿だな、と思う。能天気な顔を浮かべる咲幸がではなく、俺がだ。いや、今の咲幸の話も相当馬鹿だが。

 あとその脱ぎ方はさすがに俺の前ではやらないでほしい。


 俺はこんなにも穏やかな季節に身を置いていた。どうしてもっと早くに気付けなかったのだろう。いや、気が付いていてそれを捨てようとしたのだろう。

 後悔の文字だけでは表しきれない感情が体を突き破る。忙しなく指先が震え、行き場のない想いが終着点を探していた。


 俺はこの、春の大気を纏う彼女が好きだ。やっぱり俺には咲幸しかいない。

 勝手な自己解決の末、俺は咲幸の肩を抱いた。よくコートが着られたな、と呆れてしまうほど着ぶくれていて、体温を感じたい俺は乱雑にコートを肌蹴させる。

 お蕎麦、零れてまうよ。間の抜けたセリフを吐く口を塞いだ。


「咲幸、ごめんな」


 ごめん。本当にごめん。離れた口からとめどなく溢れるこの言葉のどれほどが、咲幸に伝わるのだろう。どれだけ重ねれば、償いになるのだろう。


「健一くん、どうしたの? 急に」


 地面と向かい合い謝罪ばかりを繰り返す俺に、咲幸は困惑している。ためらいがちに、ふっくらとした指先が俺の手のひらに絡んだ。


「謝らんでよう。これはあたしが決めたことなんだから。それにあたし、諦めんよ? 後悔も絶対にせんから。健一くんが謝ったり、責任感じたりする必要、ないからねえ」


 苦しい。優しさで窒息してしまうことがあるらしい。呼吸が自然にできない。

 違う、違うんだよ、咲幸。口にしなくてはいけない言葉は、いつも心の中に閉じこもる。俺はこの謝罪の理由すらも打ち明けられない臆病者なのか。


 手足を震わせて声までも涙交じりの俺に、咲幸はなにを思ったのだろうか、おもむろに小さな手のひらを俺の頭に置いた。よしよしと、子供をあやすような手つき。

 無邪気さの中に一滴、大人びた色を垂らした笑顔。背伸びをしたお姉ちゃんのような顔つきで、咲幸はもう一度俺の頭を軽く叩く。彼女の瞳には、俺だけが映っていた。


 それがスイッチだったかのように、俺の中で張りつめていた糸が切れた。ここが外の公園でなく、俺が幼子であったならば、叫びだしていたかもしれない。

 言葉にならないわめきを散らしていたのかもしれない。

 けれど俺は無言のまま、心の中に蓄積され続けた想いを咲幸にぶつけた。


 しがみつくように咲幸の胸の中に顔を埋める。体重のすべてを預けてしまう。

 甘く温かで、春の日差しのような懐かしい匂いがした。


 あ、という呟きで咲幸の体が傾き、手からはカップ麺が離れ宙を舞う。咲幸の体がベンチに落ちるのと、カップ麺が地面で軽い水音を立てるのは同時だった。


 俺は一体どこまで身勝手なのだろう。心の内はなに一つ明かさないくせに、勝手に拗ねて不満ばかりを募らせている。勘違いして暴走するくらいなら、伝えればよかった。

 女々しくてガキで、痛い奴だと思われても、それで喧嘩になったとしても、俺は口にするべきだった。

 もっと会いたいだとか、どうして隠しごとをしているのだとか。不安に支配された心を、彼女に打ち明けるべきだった。


 遠く距離を隔てて顔も合わせずに声だけで、その声にすら乗せない気持ちなど、届くわけがないのに。

 そもそも俺は、自分の心をきちんと言葉にしたことがあっただろうか。

 咲幸はわかってくれるから、察してくれるから。都合よく慢心していなかっただろうか。あの始まりの日から俺は。


「咲幸。……好きだ」


 こんな簡単な想いさえ、伝えられていなかったというのに。


 ベンチに横たわる咲幸の心臓が、忙しなく脈打つ。幾枚も重ねた服越しでも伝わる、少し早い心音が懐かしかった。


「えへへ。健一くん、やっと言ってくれた」


 包み込むように頭が抱かれた。そっと髪を梳く手つきはガラス細工を扱う様に優しく、手のひらにはいつも通りの陽だまりがあった。

 顔の見えない咲幸の音吐は、一生分の喜びを詰め込んで、甘く蕩けている。


 咲幸はこのたった一言を、のんびり二年間も待っていたというのか。たとえ知っていたとしても、直接俺の口から想いを聞ける日を、信じていたのか。


 そんな咲幸の気持ちを、俺は疑ったのか?

 目指す場所と俺とを天秤にかけてくれた彼女を、遠回りを決めてでも俺の側を選んでくれた彼女を。

 あろうことか、俺は裏切ったというのか?


 さゆきぃ、と咲幸の胸元でくぐもる声が、俺史上最悪にみっともない。

 やり直そう。今ならまだ間に合うから、絶対に咲幸とやり直そう。彼女との幸福を、一点の曇りなく作り直そう。


「なあ、今夜ずっと一緒にいられないか」


 誓いを胸に顔を上げると、組み敷かれた咲幸が大袈裟に目を逸らした。頬と耳にかすかな赤が差す。

 吹いた夜風に咲幸の髪が撫でられると、癖が強い髪が広がってしまうことが気になるのだろう。頻繁に毛先を指で弄んでいた。変わらない栗色の髪は、夏に会った時よりだいぶ伸びている。


「それは、母さんに怒られてまうかもなあ」


 わずかな当惑を見せながらも咲幸は俺の瞳を一瞥し、また照れくさそうに瞳を伏せた。


「でも……いーよ」


 咲幸がふいに覗かせる大人びた色は、俺をどうしようもなく甘えた子供にならしめる。

 このまま深まる夜に身を委ねれば、すべてなかったことにできるのだろうか。

 去りゆく年はなにもかもを隠し、さらっていってはくれないだろうか。

 暗然とした罪悪感を隠し、俺は咲幸に静かな口づけをした。

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