ドブネズミのスワンソング8
その物々しい上層街を馬車は駆けていく。
決してスピードを上げることはなく、客人に振動を与えないように細心の注意を払っているが如く。
だが、周囲の厳戒態勢を見ると、ただの上流階級の心配りやカーブが多い道での安全のためではなく、必要以上に急ぐことで不要な警戒を抱かれるのを避けるためのようにさえ思えた。
馬車はやがて一軒の屋敷の前で停まり、使用人たちが開いた巨大な門をくぐると、その敷地だけで一つの城と言ってもいいような広大な敷地の中に入っていく。
広い庭を縦断して迎賓館のような屋敷の前の車回しへ。
まるでホテルマンのように白髪の老執事が俺たちを迎え入れてくれた。
「ようこそおいでくださいましたジェルメ様」
どうやらこちらには偽名ではなく本名を伝えていたようだ――よくよく考えればジェルメが本名かどうかは分からないのだが。
「お会いできて光栄ですヴィルヘルム様」
馬車を降りたジェルメのそれは、まさに淑女然とした、というべきだろう。
社交界の一幕を切り取ったような仕草で老執事に応じると、俺なんかは聞いたこともないような丁重な挨拶を交わす。
どうやらシラはこういうジェルメを見たことがあるようで、特に驚いた様子もなくいつも通りその横に静かに控えている。
「どうぞ皆様。ご案内いたします」
虫を売りに来たことを忘れてしまうような老執事の対応に、なんだか尻がかゆくなるような気がしてきて、否応にも緊張が高まってきた。
しかし、これほどの上流階級のお歴々でもナヅキ虫を、つまりは能力を欲するものなのか。
富と権力を得ると名誉が欲しくなるとは言うが、だとすれば人の名誉欲というのは限りがないものなのだろう。これ程の暮らしをしている人間が、何か凄そうな肩書を何一つ持っていないとは考えられない。
それを満たして尚も、己に特別な能力が欲しくなるものなのだろうか。
或いはその立場上、命や財産を狙われる可能性を考えているのだろうか。
そんな事を考えながら、大勢の使用人に囲まれて屋敷の中を進む。どうやら離れの一室に向かっているらしいという事は、エントランスから一直線に離れていくことでなんとなく理解した。窓の外の景色も、徐々に敷地の端に動いていることが、その仮説の正しさを証明している。
――もっとも、壁を一つ越えた隣の区画に入った時には流石に驚いたが。
離れと言っても普通の家より遥かに大きな建物と敷地を誇っている。もしかしたら、この上層街の数パーセントをこの屋敷の敷地だけで占めているかもしれない。
その屋敷の中を無数の使用人が駆けまわっているのは、日々の役目だけではなさそうだ。
まるで大掃除のような騒ぎで、大勢の人間が行きかっては細々とした指示と連絡が飛び交い、ゆっくりと歩いている俺たちが、同じ建物にいながら全くの別世界のようにさえ思えていた。
「どうぞこちらへ」
自らの手で鍵を開けてその離れの一部屋に俺たちを通すと、ヴィルヘルムさんは使用人たちの方に振り向いた。
「私が呼ぶまで誰も部屋に入ってはいかん。良いな」
「承知いたしました」
深々と一礼して使用人たちが引き上げていく。
スーパースィートとでも呼ぶべき部屋の中には、俺たちとヴィルヘルムさんだけ。恐らく顧客だろうこの家の者の姿は見えない。
彼は俺たちに席を勧めると、四隅の足全てに彫刻の入ったテーブルを挟んで腰を落とした。
「さて、早速ですが取引を始めさせて頂いてもよろしいですかな」
「ええ。勿論です。商品をご用意いたします」
初めて見るパターンだった。
これまで、ナヅキ虫を買う客は皆、自分で直接取引に応じていたが、今はヴィルヘルムさんだけでの対応だ。
余程主人から信頼されているのだろうが、もし俺が買うならそんな得体の知れないものを自分で確認しないのは躊躇するだろう。
そして意外なことをもう一つ。ジェルメはそれを良しとしているという事。
なんとなく、購入希望者と直接やり取りしてその場で虫を飲ませるのがルールのように思えていたが、そうとは限らないのかもしれない。
「商品はこちらになります」
そのジェルメが机の上に例の透明な円筒を差し出す。
最早見慣れた虫入りの液体で満たされたそれは、窓から差し込む光を受けて光っているようにも思える。
「ほう、これが……」
「用法は事前にお伝えいたしました通りです。この虫を噛まずに飲み込むだけ。一緒に入っている液体は人体には無害ですので、そのままお飲みになって頂いて構いません」
その説明に満足したのか、ヴィルヘルムさんは一度頷き、一言置いて席を立ち、すぐ後ろの金庫の前に屈みこむ。
「お待たせいたしました」
再び戻ってきた時に彼が抱いていたのは、ジェルメの取引では、そして一般的なこの世界の取引でお馴染みの革袋ではなく、アタッシュケースのようなしっかりとした鞄だった。
「どうぞお確かめください」
そう言って開いた鞄の中身は、大陸で流通している金貨と現金取り扱い証書=出入国の際に規定量以上の現金を持ち歩く場合に必要となる身分証明書だ。
アルスカの貨幣ではなく大陸側のそれで支払うのには訳がある。入国時に大量のシブ銅貨やより高いアルスカの銀貨や金貨を持ち込むのには色々説明しなければいけないことが多いのだ。
当然、色々細かく答えられない立場にあるジェルメにはそれが厄介な問題となる。
ところが、いくつかの場合において大陸に大陸の通貨を持ち込む場合は条件が緩くなる。
代金と一緒に収められている書類一式は、まさにそのための代物だった。
――流石に餅は餅屋蛇の道は蛇。金の事は金持ちに聞け。とは、思っても口にはしなかった。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません
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