Ⅲ約束の子 1. アリスのクロス1
騎士は白く霧がかる名なしの森で、初めて出会った少女の瞳に、凛として、そして懐かしく感じる影をみとめた。森は鳥も鳴かず、他の動物の気配もせず、ただ時間が止まってしまったようにしんとしていた。 少女は魔術でできた森の中で美しい小鹿を抱いていた。そして新たな訪問者に気付くと、一瞬、頼れる朋友に出会えて心から喜ぶ若い騎士のような、凛々しく気品のある笑顔を見せた。
騎士は愛馬から降りると、自然と少女の前に片膝付いて名を問うた。その森に入った者はみな森を抜けるまで自分の名を忘れるという名なしの森の中で名を問うのも愚行であり、騎士自身自分の名を覚えていなかった。
だが少女は、威厳に満ちた青い瞳で騎士を見つめながら、少年のような声で答えた。
「プロミー」
少女はしかし、その他のことは何も覚えていなかった。
ただ少女が持つ唯一の身証しは、胸に提げてある、ポーンのマークに小さなとさかのような飾りを頭に載せたすかし模様の、白の駒のクロスだけであった。
名なしの森とは、教会からクロスを貰った直後に、プレイヤーの前に突然ランダムに現れる、魔術で作られた異空間の狭い森である。
プレイヤーは歩いていると、忽然と森の前に突き当たる。森の中では、自分の名前を忘れてしまう。だが、森は五分とかからずに通り抜けられる。通過してしまうと名前は思い出し、その後この森は消える。結局プレイヤーは、元いた場所に戻るのだった。名前を一時忘れるのは不安だが、森の中で迷うこともなく、何の害もない。
この手の異空間出現の魔術は、王城守護魔術師などが得意とする。が、この不思議な森は、チェスの創始者が作ったものらしい。
異空間を出現させるには、一定の条件が必要である。例えば、チェスの中では、王城守護魔術師であるルークが、相手のプレイヤーが王城に近付くと、強制的にそのプレイヤーを、自分の魔術で編んだ異空間に引き込む。その場合の条件とは、“相手プレイヤーが王城に近付くこと”である。だが名なしの森に関しては、その条件が何かは解明されていない。
ロッドは、教会から白石に馬のすかし模様の見られるナイトのクロスを渡された後、山道できれいな小鹿を見つけた。その鹿の後を少し追ううちに、霧深い名なしの森に行き当たった。名なしの森のような異空間魔術は、魔術解除に長けたシーフか魔術を編んだ者より上級の魔術師以外、避けて通ることができない。ロッドは魔術とは無縁である。この不可思議な森に危険はないことを知っていたので、ロッドはためらわずに森に入っていった。そして今、そこで出会った少女とともに森を抜け山道に戻ったところだった。
少女は森を抜けた後も、名前以外何も覚えていなかった。森を抜けた後は、あの少年のような凛とした感じは消えて、ただ不安そうに小鹿に寄り添う頼りなげな少女の姿があるだけだった。名なしの森に害はないと言われてはいるが、一時的に記憶を失うこともあるのだろうか?
ロッドにとって少し意外だったのは、彼に追われて森に逃げ込んだ小鹿が、プロミーになついたまま、森を出た後も逃げないでいることであった。ものの本には、名なしの森で人と行き会った小動物は、森の中で自分が小動物であり、相手が人間であるということを忘れて人になつくが、森を抜けると、小動物と人間の関係を思い出して、獣は逃げてしまうと書かれていた。だが、今の場合はそれどころか、森を出ると小鹿とプロミーの絆は、もっと強くなったようであった。小鹿は、まるで心細げな少女を励ますのが自分の仕事だとでもいうように、黒い瞳を元気に輝かせて、プロミーのそばにぴったりとくっついていた。
ロッドは、ひとまずプロミーを安全な所まで送ることにした。なぜ記憶喪失なのかは分からないが、道すがら何か思い出すかもしれないし、駒のクロスを持っている以上、何かとトラブルに巻き込まれるかも知れない。
ロッドは安心させるように、プロミーに自己紹介をした。
「私の名はロッド・インガルス。今年正式にスターチス王家に仕える騎士に叙任されたが、まだまだ私の性分から、大陸を放浪中の身だ。プロミーの駒のクロスを教会で調べれば、戸籍が証されて身元がわかるだろう。ひとまず山を下った先にある町の教会まで送ろうと思う」
プロミーは自信なさげに頷いた。ロッドはプロミーに合わせて歩いて行こうと思ったが、小鹿は人間たちの出立を感じるとプロミーに自分の背に乗るよう促した。
「ありがとう。あなたはわたしのことを知っているのですか?」
小鹿は肯定とも否定とも受け取れる表情を黒く輝く瞳に浮かべた。プロミーはそっと小鹿に乗った。
プロミーはあまり喋らない。年は十代半ばに見える。謎めいた駒のクロスを持っているが、たぶんポーンとして選ばれたのだろう。ナイト・ビショップ・ルークの者は、ロッドが王城で会ったことがある旧知の者である。クイーンは女王陛下自らが出場するという話だから、違う。だから、どこの国の者でもなれるポーンだろう。しかし、プロミーがどんな職業だったのか、手がかりになりそうなものは何もなかった。
ロッドは町の教会へ行くまでの間、プロミーに自分の知ることを語った。
「今回チェスに参加しているもう一人の白のナイトは、私のいとこで、名はラベル・ボーストと言って、騎士見習い時代は同じ騎士の下で修行をしていた。
ラベルは私より強い。ラベルとは一度だけ戦ったことがある。私はよく無地の盾を持って団体馬上試合に参加し、仲間に知られないように味方と手合わせをする。我が王家の騎士団には西大陸でも屈指の強者が揃っている。ラベルは味方とは決して戦わないので、自分の正体を教えずに一騎打ちを申し込んだ。そこで運悪くラベルの槍が私に致命傷を与えてしまい、私は急いで愛馬を駆ってその場を離れ、谷間にある隠者の庵で手当てを受けた。そして国の者たちに知られないよう身を隠しながら療養した。
ラベルは私を傷付けたのだと知ると隠れていた私を探し出した。そして私を見つけると『どうしてそう困ったことをするんですか、ロッド、これは度が過ぎます、もし間違って本当にあなたの命を奪っていたら、私は騎士をやめて隠者となって一生苦しむことになったのです、私があなたを殺してしまったかと思った時は目の前が暗澹として一睡もできずに方々を探し回ったのです、どうかもう絶対にこんな思慮のないいたずらはやめて下さい、誰よりもあなたとは戦いたくないんですから、これからは何があっても私と戦うことを仕向けないで下さい、もうあなたを手に掛けるのも嫌だし手に掛けられるのも御免です、どうか分かって下さい、ロッド、あなたはいつも自由にしていますが、あなたが思っている以上に、あなたの周りの者たちは、あなたを失うことを恐れているのです』
これを息継ぎ一つせずに訴えた。その時ラベルは安堵していたし、怒ってもいたし、血の気がひいていた。ラベルとはいつか会えるだろう」




