007:兇人
前話から引き続きのバトルパートになります。
そろそろキャラ達に多面性を持たせていく感じです。
遠く、背後から剣戟の音が聞こえる。闘争の音だ。人が殺し合う音の無数の連なり。
多分、近衛小隊は機先を制する事が出来たのだと思う。護衛隊隊長の殺害を失敗した上に取り逃がしたイレギュラーはそうそう取り返しがつくまい。元から迅速なる奇襲を以って目的を果たす予定だったのだろう襲撃者達は恐らく数で近衛兵に大きく劣る筈で、そうであればもうその戦闘は掃討に近い。
だから、殆ど気負いは感じなかった。この兇人の発する鬼気に真っ向から相対しながら、常の心理状態を保っていられたのはそこに依る処が大きい。化け物熊と毛色が違うとはいえ比べるまでもなくより凶悪な威圧に晒されながらそうあれるのは、ちょっと面白くさえある事柄だった。
なんとも形容しがたい熱さを含む空気が、うなじを伝って這い上がるように頬を流れていく。戦場の空気は思ったより肌に馴染んだ。そも、柔術が端を発したその時代、日本は今のような大平の世ではなかった。投げ技にした所で、甲冑ごと相手をひっくり返し、脇差や打根で喉を掻き切る為の技術であったと聞く。
じさまの妙に手広いコネクションを活用して行う他流試合では、剣術の使い手を相手にした事もある。その過程で、刃の潰された野太刀で殴り飛ばされた経験だってある。勿論、それを制する為の技術だって陽炎式には山の様にある。
ただしかし、いざこの場でそれを使うとなれば躊躇いがあった。陽炎式柔術は打突系柔術、それも急所打ちである砕きを根幹に据える武術だ。倒れた相手に蹴りを入れて気絶させる程度ならまだいい。しかし、それだけではない技を隠したまま、この男を制する事が果たして可能か?
「殺し合いの初手から余所見たぁ余裕のある事だ」
刺突。右上段の構えから突き落とす、速い上に切っ先の視認しづらい良い平刺突だ。感心しつつ、左半身を軸に身体を回転、右を後ろに引いて半身になって躱す。懐を、獲物を仕留め損ねたフランベルジェの刃が抜ける。アサコの剣を持つ手は右。外を取った。それを見るや否や切っ先を引き戻しつつ横に薙ぎ払おうとフランベルジェが動く。
ここで崩す。しゃがみ込み切り払いを回避しつつ更に右を引き、剣を持つ手を担ぎ込む。肘を外回しに捻り極めて剣を落とさせ、一本背負いを仕掛けに行く。その視界に、アサコの左手が映った。
気付いた時には取り落とされたフランベルジェが綺麗にそこに収まっていた。この一本背負いは一本背負いであってただの一本背負いではない。投げ始めから投げ終わりまでの動作が刹那で完了する、陽炎式柔術の投げ技だ。例えこのまま投げたとして、投げられながらフランベルジェを振っての反撃等不可能な筈。筈なのだが。
気付けば担ぐ手を外して転がり出ていた。距離を稼いで立ち上がる。その間に、悠々とアサコは剣を右で構え直していた。
「慎重だな?」
「慎重にもなるさ」
右肘を極めた時、情けをかけず即座に破壊するべきであったか。いや、この男を相手にするなら加えて手首も極めて破壊するべきだったかも知れぬ。容赦していればこちらが――。
「だから余所見するなっての」
大上段から大きく踏み込んでの唐竹を飛びすさって躱し、間合いを取り直す。どうする? どうすればいい?
アサコは剣を肩に担ぐようにして思案げ。しかし隙が見つからない。
「解せんな。ヒョウといい今といい、見てから余裕で躱してくれやがるその非常識な運動能力もそうなんだが」
言いながら、左の袖を振って手の内に棒状の鉄片を落す。先程までと同じヒョウだ。しかし、この近い間合いで?
アサコは少し遠い、詰まらなそうな目。その目が不意に横に泳いだ。その意味を悟る前に、アサコはやおらその腕を振るう。煙草でも捨てるような無造作さで投げられたヒョウは、意識を失い倒れ伏している男の後頭部に突き立った。頭蓋を打ち抜く妙に生暖かく肌でぬめる音を聞いた時には、フランベルジェの兇刃が別の男の首を切り飛ばしている。
こいつは、この男は、一体何をして。何の為に。
目の前の男は肩を竦める。
「今の所、クライアントはコクヨウ王国と表立って事を構えたくないそうだ。なら、始末は必要だろう?」
不思議と、思考が澄み渡る心持がした。寒さに似た無感覚が肌を覆う。兵達が血潮とそれだけではない何かを使って作り上げる熱気が、すとんとどこかに消えてしまった。修練で精神統一や無心の類を試みた時ですらこうもまっさらになってしまった覚えがない。雑念も何も全部すっ飛んでどこかへ行ってしまった。
空虚な目は、それでやっと得心行ったとでも言うように、つうと細められる。
「ああ、やっぱ殺しも知らねえのか。なんつーか……、勿体ねえな」
視界も思考も音さえも赤く染まった。滑るように間合いを詰める。左半身を軸として右半身を旋回、下段回し蹴りと顎への平手打ちを掛けに行く。平手打ちに対してアサコの応じようとする動きは、膝を後ろから砕く下段回し蹴りで全て粉砕。手刀紛いの平手打ちで顎をカチ上げる。容易に意識を刈り取る一撃だが、この目の前の男は耐えきった。ならばまだ止まらない。下段回し蹴りに使った足を踵から地面に突き立て、更に右手の拳形を平手から変えて握り込む。手首を反らし、重心を後ろ足から踏み込む足より前へと弾き飛ばす。浮いた顎に全体重を以って突き込む掌底打。仰け反らせるほどにまで打ち抜く。まだ笑うか。腕を捻り手の甲を下へ、拳を引き込むように腕を巻く。巻きながら、両足を後方に蹴り上げる。下にあるアサコの身体に、飛ぶ。
「ぜいッ」
もつれ合うように倒れこみながら、身体ごと肘打を鳩尾に落とし、地面に叩き付けた。肘がそのまま地に抜けるかという程に突き刺さるのを感じながら、そこを支点に前転、立ち上がる。アサコは仰向けになって転がっている。捨て身技で体重のかかった肩が少々痛い。それがどうした。止まらない。柔術は戦乱を生き抜く為の技だ。一本を取った所で油断等しないし、止まらない。歩み寄って膝を上げる。喉笛に踵を落と。
左肩が後ろに突き飛ばされた。腕が身体に張る筋繊維、そこから根こそぎにするような重い衝撃。ヒョウの一撃。そして意識がほんの少しそちらに向いた瞬間に、波打つ刃がばっさりと左肩口から右脇腹にかけてを撫で切っていった。咄嗟に身体を反らしていなければ無様に竹槍のような断面図を晒していただろう手練の一閃。
そうか、内臓を爆ぜさせようとする程度では死なないか!
「良い目をするじゃねーか、殺人処女の癖しやがって! 自傷自慰だけで一体幾つの血反吐の川を越えた? 幾夜の寝床を未だ見ぬ殺し合いの夢で濡らした?」
噴き出した血を浴びて、見事に血濡れとなったアサコが見事な位に厭らしい笑みを浮かべて愚にもつかぬ言葉を撒き散らす。鼻で笑う。セクハラにしては、まあ洒落っ気のある台詞ではないだろうか。
それにしても痛い。死よりも苦痛を与える剣の異名は伊達ではない。身体がこのまま割けるのではないかという痛みに脳が酔いそうだ。
そしてその痛みも酩酊も赤い。全てが赤へと指向する。
アサコが先手を取って地を蹴る。身体にフランベルジェの刀身を引き寄せる構えは、剣を短く持って小さく振る為の隙の少ない構え。格闘家相手に武器を持ちながら短い間合いでの勝負を挑もうというのか、物好きめ。
応じて動く。振りかぶった剣に速度が乗る前に間合いを侵略、交点を奥へと押し込む。飛んでくる蹴りと頭突きには近い部位を用いて真っ向から砕き受け。左腕を伸ばしアサコの身体の向こう側にある剣持つ右手を抑える。そして、右で肋下部への打ち下ろし正拳。それを払おうとする左手を絡め取るように軌道を変えながら、突き込む。確実に二本、貰った感触。
続けざまにラッシュをかけようとして、ぐりんとアサコの身体が反転した。ヒップタックル。骨盤をもろに押されてよろめいた所に、身体を一回転させてのバットスイングのような斬り上げ。先の一撃をなぞる様に、より深く。波打つ刃が血と肉と骨の欠片を掘るように抉って飛ばす。
振り切ったアサコが、その勢いのまま距離を取るべく飛ぶ。それを許さず吸いつくように走って追った。その着地と同時に、鳩尾に右のアッパーカット。両足で踏ん張って、再び宙へと押し上げる。打った拳を引き戻し、両手掌底基部を重ねて腰溜め、弓を引くように身体全てを用いて後ろまで。ベクトルを一つに束ね、引き絞った張力を以って、放つ。
陽炎式柔術、砕きの十番、鉄槌。
肋骨中心部を正確に打突。滴を落とされた水面の様に、肋が全方位に撓む感触が肩にまで伝わる。今度こそ、アサコとの間合いが大きく開いた。打ち上げられた人体が河原に叩きつけられゴムまりのように弾む様は見ていてまるで現実味がない。
打撃の手応えに違和感を感じ、集中が一瞬途切れる。苦みにも似た、残心の中の混じりもの。全霊で打ち抜ければこのように乱れた心にはなるまい。外したのだ。本来、鉄槌とは心臓を潰し、同時に大動脈の幾つかを押さえ込み莫大な血流量を頭部に集中、血圧負荷によって脳を裂くという二重の必殺技。だが、肩関節にヒョウを打ち込まれた左腕の動きは鈍く、必要な威力は得られなかった。
誤算だ。陽炎式を叩き込んだ身体がこの程度の損傷で本来の動きを失うとは。こうまで実戦経験のなさというのが大きいとは思わなんだ。それでも十二分に殺せる一撃だったという自負は拭い去りがたかったが、目の前の光景は容易くそんな矮小な傲慢を粉砕してくれた。口端が引き攣るように吊りあがる感触。
やはりアサコは立ち上がる。不発に終わった鉄槌にはそれでも大半の肋を折られ、他にも即死級の損傷を無数に与えられてなお、当然のようにフランベルジュを手に立ち上がる。負傷等まるで感じさせず、ようやく今から戦いを始められるとでも嘯きそうだ。
どういう頑丈さをしているのか。こちらは呼吸法で多少無茶なくらい内分泌器系に干渉し痛みと出血を抑えていなければ既に動けなくなっていただろうし、その時間稼ぎだっていつまでかそろそろ怪しいものだというのに。小細工の効かない生来の打たれ強さという才能はこうまで面倒なものに成り得るか。
「益々惜しいな。何故ここまで揃えておいて殺しを知らない。酷い怠慢だぞ」
「お前が大人しくくたばってくれていれば今ので一つ知れたのだがな。どうにも機会に恵まれないようだ」
どうやら、似たような事を互いに考えていたようだ。叩き合う軽口を意識の端に、間合いを測る。足は肩幅に開き、拳は握らずだらりと下ろして自然体。構えとも言えぬ構えだがその実臨機応変で間口が広い、陽炎式の基本の構え。対峙するアサコはまた構えを変えている。剣を両手で持ち直し、正眼を思わす構え。正眼からは崩れているものの、それと似て隙が少なく手堅い構えだ。
故に硬直する。まるでふと話題を失った喋り場のように。そうやって会話に降りる沈黙をそこに天使が通ったのだとフランスでは表現するそうだが、そんな雑学を悠長にも思い出した。それも、あながち間違いではないか。ただ、やりとりするのが言葉でなくて命だというだけで。
馬鹿馬鹿しい思いつきが、無性に可笑しくてならなかった。かつてないほど気分が高揚しているのを自覚する。血を流しすぎた所為か。無理な呼吸法が過負荷となったか。それとも、この、死線をゆるゆると渡る赤黒い空気に中てられたか。
混乱している。どうにも先刻生まれ、脳を支配しつつある凶悪な感情は得体が知れない。かつてない憤怒を物ともせず蹴散らしてしまったある破壊的で自滅的で衝動的な感情には戸惑わずにはいられない。
だって、こんなのは、可笑しいだろう。どうしようもなく間違っているだろう。陽炎の技を食らってすら、平然と立ち上がる兇人の姿を見た時に胸の奥底から湧き上がってきたのが、凄絶なまでの、純然たる歓喜だというのだから。
「未熟」
思わず、口の端から一つ言葉が零れ落ちた。この手は放ちたがっているのだ陽炎の技を。遠慮だとか手加減だとかそういう煩わしさを全て置き捨てて、全身と全霊を闘争に傾けてそのまま、奈落まで真っ逆様に堕ちてしまうのを望んでいる。それ故に喜んでいる眼前の同類の存在を。
自らが打ち倒した大熊の姿が脳裏に映る。その血と肉と骨の感触がまざまざと右腕に蘇る。巨大な心の臓の感触を知る右手の五指が、その残り火の灼熱に炙られて震えた。
「嗚呼、なんという未熟か!」
動く。足首に捻りを加えて大きく踏み込み軸足として、次の一歩はその捻りを解きつつ行い、その踏み出した次歩にもまた同様に捻りを加える。紙の上をコンパスで遊びまわるような出鱈目な軌跡を描いて、アサコを幻惑しつつ急速に間合いを侵略する。切っ先の正面、アサコの間合いの拳一つ分外に後ろから足を置いてそこから旋回。身体全てで回り込み、一動作で側面を取る。
アサコは退きながらの斬撃で応じる。踏み込めば前に出る足に的確に剣先端を合わせて浅く斬り、そして深手を与えることなく距離を取り直す。それを追えば、同じように逆の足を斬られた。相手だけに確かな負傷を与えつつ仕切り直しに持ち込み続ける、全く見事な一撃離脱。無理をして押そうとしてもただ手傷を増やし、下手をすればそのまま交差法で取られかねない。
悪くはない。が、少々詰まらないなこれでは。
左半身に構える。左の肘から指先までを伸ばし、地面と垂直に立てる。右は拳にして肘を引き、腰の横に置く。重心は後ろ足の右に。左足は浮かせて爪先立ちに。
それを待っていたとばかりにアサコもまた構えを変える。刃を下に向けた切っ先を地面まで下ろし、刀身を自身の背後に隠すように身体を引き絞る。ゴルフやバットのスイングの中途段階を連想させる下段構え。
アサコが笑う。それを受けて笑い返す。どちらからともなく動く。間合いが消える。ぐんと時間が引き伸ばされて身体が重くなる感覚。まるで鏡を見るかのように狂笑がある。自分は今狂っているという安堵のままに突き進む。刃先が疾走してくる。拳を打ち込む。目が眩む程。
陽炎式柔術、奥許しの二番、豪鬼。
交錯する直前、乾いた火薬の音がした。突如割り込んできたその音は、まるで頬を平手で叩かれた様に頭蓋骨に響く。
「天音っ! 大丈夫!?」
狭まっていた視界が急に開けた。明るさに幻惑され、思考に空白が流れる。アサコは仰向けでひっくり返っている。何が起こった? 思う間にも状況は進む。火の玉としか形容しえない何かが続けざまに十数発、仰臥するアサコに叩き込まれる。いや、その時には既にアサコは立ち上がって飛びのいていた。見渡し、舌打ちすると川を跳び越えて森の中に走ろうとする。
「逃がさないよ!」
この声は、ランセリィ? そしてガスバーナーを最大出力にしたような音が複数。それらが聞こえたと思った時には拳大の炎弾が無数、山なりの軌道を描いてアサコに襲いかかっていた。アサコは更に跳んで回避、それでも追いすがるものは剣で打ち払い凌ぎ切って、木々の合間に飛び込む。ランセリィの驚愕と悔恨の声。
ふと、アサコの足が止まる。目尻から顎先に刀創の走るその凶顔が再びこちらを向いて、笑う。
「時間切れのようだが。まあ、悪くなかったぞ、妖拳法の使い手」
冷たい痺れを伴う、落雷のような怖気。膝から力が抜ける。腰から上がすとんと真下に落ちる。森に消えるアサコを追おうとしたランセリィがぎょっとしたようにこちらを振り返った。何かを言っているようだが聞こえない。性質の悪い熱に浮かされたように頭がくらくらしてがんがんする。息をするのも忘れるという、まさにその通りに呼吸法を忘れていたのに傷の痛みが来ない。投げだした両腕がぴりぴりと痺れている。砕きを打った衝撃を骨が覚えている。殺そうとした意思の残滓がそこに確かに、まとわりつくように。
「あ」
恐ろしかった。心の底から恐ろしいと思った。訳が解らなくなるくらい恐ろしくて、凍てつく様に冷たかった。
息が抜ける。ぐるんと視界が流れる。最後にただ広い空を見て、そのまま。
捻り切られるようにして、意識が途絶えた。
という訳で天音に少々ぶっ壊れていただきました。
次回の更新も来週か再来週の土曜日を予定しております。参考までに、現在の書き溜めは凡そ三千五百字程度です。大体中盤まではすらりと書けるのですが。
誤字脱字等、気が向いたら御指摘下さいな。