もう一度、家族と呼ぶために
エリシアがエドワードと結婚してから、穏やかな月日が流れていた。
朝は一緒に食事をし、仕事や勉強に向かう。
一日の終わりには、その日にあったことを話しながら笑う。
そんな当たり前の日々が、エリシアには何より幸せだった。
かつては、こんな未来が来るなんて想像もできなかった。
自分は必要とされていない。
そう思っていた少女が、今ではたくさんの人に愛されている。
そんなある日のことだった。
「エリィ」
エドワードが、少し険しい表情でエリシアを呼んだ。
「どうしたの?」
「……ローゼンベルク家から、知らせが来た」
その言葉を聞いた瞬間、エリシアの胸がざわついた。
「……お父様に、何かあったの?」
エドワードは静かに頷いた。
「病気になったそうだ」
エリシアの手が止まった。
長い間、考えないようにしていた人。
愛していたのに、傷つけられた人。
それでも、心のどこかではずっと気になっていた人。
「……お父様」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
---
その日の夜。
エリシアは母の形見を手に取り、窓辺に座っていた。
「お母様……」
何度も考えた。
会いたくない。
怖い。
また昔のことを思い出してしまうかもしれない。
けれど――。
もう一度だけ、会っておきたい。
「私……行ってみようと思う」
隣にいたエドワードが頷いた。
「俺も一緒に行く」
「ありがとう」
「一人で行かなくていい」
その言葉に、エリシアは微笑んだ。
昔とは違う。
今の自分には、支えてくれる人がいる。
だから、向き合える。
「行ってくるね、お母様」
そう呟いて、エリシアは立ち上がった。
---
ローゼンベルク家。
久しぶりに訪れた屋敷は、幼い頃の記憶とは少し違って見えた。
大きな廊下。
高い天井。
見覚えのある庭。
そして――。
かつて母とお茶を飲んだガゼボ。
エリシアは足を止めた。
胸の奥が少し痛む。
けれど、もう逃げなかった。
「エリィ」
エドワードがそっと声をかける。
「大丈夫」
エリシアは小さく笑った。
「今度は、大丈夫だから」
二人で屋敷の中へ入る。
案内された部屋には、ベッドに横たわるアーヴィンがいた。
以前よりもずっと痩せていた。
顔には疲れが浮かび、昔の威厳もほとんど残っていない。
「……エリシア」
かすれた声が聞こえた。
エリシアはしばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと近づいた。
「……お久しぶりです、お父様」
アーヴィンの目に涙が浮かんだ。
「来てくれたのか……」
「はい」
それだけ答えて、エリシアは椅子に座った。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
やがて、アーヴィンが口を開いた。
「……すまなかった」
その一言に、エリシアの胸が揺れた。
「私は……お前を幸せにしたかった」
アーヴィンは苦しそうに言葉を続ける。
「母親を失ったお前が、一人にならないようにと思った。だから、新しい家族を作れば、お前も前を向けると思っていた」
エリシアは黙って聞いていた。
「食事も、マナーも……すべてお前のためだと思っていた」
アーヴィンの目から、一筋の涙が落ちる。
「だが……私は、お前の気持ちを聞こうとしなかった」
声が震えていた。
「お前が嫌だと言っていたのに、私は『お前のためだ』と言い続けた」
エリシアの胸に、幼い頃の記憶が蘇る。
苦しかった。
寂しかった。
何度も助けてほしいと思った。
それなのに、言えなかった。
「……あの頃の私は」
エリシアが静かに口を開いた。
「お父様に、私のことを見てほしかった」
アーヴィンが顔を上げる。
「お母様がいなくなって、とても寂しかったんです」
「……ああ」
「新しいお母様が嫌だったわけではありません。ソフィアお母様も、カイルお兄様も、優しくしてくれました」
「……そうだったな」
「ただ……私は、お母様がいなくなったことを受け入れられなかった」
エリシアは自分の胸元にある母の形見に触れた。
「お父様に、『寂しい』って言いたかった」
その言葉を聞いた瞬間、アーヴィンは顔を覆った。
「……すまない」
「でも、言えなかった私も悪かったと思います」
「違う。お前は子どもだったんだ」
アーヴィンは首を横に振った。
「大人だった私が、お前の気持ちを分かろうとしなければいけなかった」
エリシアはしばらく父を見つめた。
昔なら、この人を見ただけで怖くなっていたかもしれない。
けれど、今は違う。
あの頃の自分とは違う。
自分の気持ちを、自分の言葉で伝えられる。
「……お父様」
「……なんだ?」
「私、お父様を許します」
アーヴィンの目が大きく見開かれた。
「本当に……?」
「はい」
エリシアは微笑んだ。
「ずっと恨み続けることは、もうしたくありません」
けれど――。
「だからといって、昔に戻ることもできません」
アーヴィンは静かに頷いた。
「分かっている」
「私はもう、一人ではありません」
エリシアは隣にいるエドワードを見る。
エドワードは優しく微笑んでいた。
「私には、お母様が残してくれた大切な家族がいます。辺境伯家のお祖父様やお祖母様、お父様、お兄様たち。そしてミリアも」
そして――。
「エドもいます」
「……そうか」
アーヴィンは寂しそうに笑った。
けれど、その顔にはどこか安心したような表情も浮かんでいた。
「お前が幸せなら……それでいい」
「ありがとうございます」
エリシアは立ち上がった。
「これからは、少しずつでいいから……また会いましょう」
「……エリシア」
「今すぐ昔のようにはできません。でも、少しずつなら……」
アーヴィンの目から、再び涙がこぼれた。
「……ありがとう」
エリシアは父の手をそっと握った。
幼い頃には握ることのできなかった手。
今は、もう怖くなかった。
「お父様」
「……うん」
「お元気でいてください」
「ああ」
その言葉を最後に、エリシアは部屋を出た。
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屋敷の外へ出ると、柔らかな風が吹いた。
エリシアは空を見上げる。
「……終わったのかな」
エドワードが隣に立つ。
「何が?」
「ずっと心の中にあったもの」
エリシアは母の形見に触れた。
「ううん。きっと、終わったんじゃなくて……前に進めたんだと思う」
「そうだな」
エドワードが微笑む。
エリシアも笑った。
「お母様が言ってくれたから」
――あなたには、まだ生きてほしい。
――幸せにならなくてはいけない。
――自分の気持ちに素直になって、生きていきなさい。
あの日の言葉を、エリシアはずっと忘れていなかった。
「お母様……」
空を見上げる。
「私、幸せになったよ」
幼い頃、母を失って。
家族を失ったと思って。
自分には居場所がないと思っていた。
けれど、違った。
新しい家族に出会い。
大切な人たちに愛され。
自分自身の手で、幸せを選ぶことができた。
そして今――。
「お母様のところへ行かなくてよかった」
エリシアは、涙を浮かべながら笑った。
「生きていて……本当によかった」
エドワードが、そっと手を差し出す。
エリシアはその手を握った。
「帰ろう、エリィ」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
もう、振り返らない。
過去を忘れるわけではない。
悲しかったことも、苦しかったことも、母との思い出も。
全部、大切な自分の人生の一部だから。
それでも、これからは前を向いて歩いていく。
いつかまた、父とも自然に笑い合える日が来るかもしれない。
その日を、焦らず待てばいい。
エリシアは隣にいるエドワードの手を握り直した。
「エド」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒にいてね」
「ああ。約束する」
二人は笑い合った。
その笑顔は、幼い頃のエリシアが失ってしまったと思っていたもの。
けれど今は――。
自分の大切な人たちと一緒に、確かな幸せとしてここにある。
エリシアは胸元の母の形見をそっと握った。
「お母様……ありがとう」
そして、心の中で最後にもう一度だけ伝える。
――私、ちゃんと幸せになったよ。
青い空の下。
エリシアは、大切な人の手を握りながら歩いていく。
もう、誰かのために自分を押し殺すことはしない。
自分の気持ちに素直に。
悲しいときは泣いて。
嬉しいときは笑って。
大切な人を、大切にしながら。
これからも、自分の人生を生きていく。
――それが、母との約束だった。
そして。
長い長い孤独の先で見つけた、エリシアの幸せな未来だった。
**完**




