エピローグ
浮遊感と、落ちていると認識した瞬間に襲ってくる、心臓が締め付けられるような感覚。
思ったような痛みはなく、衝撃と共に真っ暗になったことは覚えている。
ああ、終わったな、と思った。これで本当に全部おしまいだと思った。
――ベッドの上で、呻きながら目を覚ますまでは。
眩しい。
目を開けようとするが、瞼の隙間から容赦なく差し込んでくる光が痛い。
何度も瞬きを繰り返してやっと、少しずつ瞼が上がっていく。
最後に見た光景にある伸ばされた手を取ろうとして、ぼんやりと左手を彷徨わせた。と、その手が誰かに握られた気がした。
なんだか思ったよりも、掴んでいる手が大きい気がする。痺れたように感覚が遠い右手で何度か目をこすって、ようやく景色が見えてきた。
――と、見慣れた顔が自分を覗き込んでいる。
気付くと同時に、音が一気に流れ込んできた。
「……ジロー?」
「――っマジかよ、こいつやっと起きやがった!! 医者だ、医者呼べ医者!」
「じゃあ俺ちょっと呼んでくる!!」
「おいあいつマジで呼びに行ったぞ! 何のためのナースコールなんだよ!」
「病院で騒ぐなよ、迷惑だろ。とりあえずだれかあいつ止めろ」
「ジローおおお!! おい、俺のことわかるか!? 富沢だけど!!」
「うるっせえ……」
「喋ったああああ!!」
「お帰りジロー!!」
「うるせえって! ここ病院だぞ!」
ベッドの周りで大騒ぎしているのは、記憶よりいくらか老けたバンドのメンバーだった。
久々に人の大声を耳にしたジローは、ぐっと顔をしかめる。
その間もぎゃあぎゃあと騒いだりジローの肩を叩いたりとメンバーたちはせわしない。顔を歪めたまま左手を見ると、ボーカルであるイギリス人――パトリックがしっかりと握っていた。ジローは顔を引きつらせる。
「おいリック、なんだこの手」
「は? お前がふらふらさせてたから握ってやってたんだよ、おかしな勘違いするな」
「気色わり、放せよ」
軽く振ると、流暢な日本語と共にぱっと放された。
その勢いのまま、左手はばたりとベッドに落ちる。
「お前六年寝てたんだぜ、六年!」
ジローの相方であるもう一人のギタリストが、いつものやかましさで言う。
同じくらいの年齢のはずだが、相変わらず髪の毛が赤い。こいつ毛根失うの怖くねえのかな、と失礼なことを考えながら、ぼんやりと頷いた。六年かは知らないが、長い間眠っていたことは覚えている。
夢の中は、なぜかいつも夏だった。
目覚めたら決まって、ミキと暮らした部屋にいた。
自分が幽霊のように透けていて、ミキの携帯の暗証番号を探して、夜な夜な知人宅から仕事場まで歩き回っていた気がする。
靄がかかった記憶を思い返しながら、ゆっくりと体を起こし、背中を凭れた。
と、先ほどまで気づかなかったが、右手に何か持っているようだ。
痺れたように固まっているそこには、紙のようなものが握られている。
力が入らないため上手く開けず、左手を使ってこじ開けようとしていると、そういえば、とリックが鞄をごそごそと探り出した。
「お前があんまりにも目覚めないもんだから、俺たちだけで復活アルバム出そうかと思ってたんだよ」
「は?」
「そうそう。リックの奥さんをギターで入れて、何曲か足して、みたいな感じでな」
「さやか? 何あいつ、子育てどうしたんだよ」
「バッカ、健斗くんもう小学生だぞ。さやか様はもうジローの代理できるくらいバリバリ現役だっつの」
「え、まじかよ」
「マジだぞジロー。もしなんなら見せてやろうか、健斗はさやか似でとってもカワイイぞ」
「それはいいからとっとと資料出せよリック!」
「ああ、そうだった」
折角取り出したファイルを置いて携帯を取り出そうとしたボーカルを、大柄なドラムがせっつく。
六年という月日の流れを痛感して愕然とするジローの前に、リックはファイルから出した資料を広げた。
「曲目はこんな感じだな。この辺は全部新曲だ、頑張ったぞ」
「……え、これ、俺解雇される感じ?」
それはそれで仕方がないと思うが、と視線を上げると、バンドメンバーはきょとんと顔を見合わせた。
「そういや、考えてなかったな。ジローが起きるとは思ってなかったし」
「すっかり永久欠番扱いだったからなあ。なんかある時は報告に来るって感じで」
「うーん、じゃあ健康体に戻ったら復帰していいぞ」
「なんかタイミング良くてむかつくけどな」
「お、お前ら……」
気の抜けたやり取りに呆れながら、懐かしさにジローは目を細めた。
生き返ってきたのだと、ひしひしと実感がわいてくる。
と、ふとギターが言う。
「そうだ、今回ジャケットすげえんだぞ。運命感じる系」
「運命?」
髪が赤いチンピラ風のおっさんから出るには夢のある言葉に顔をしかめると、リックがその後を引き継いだ。
「ああ。正月に健斗の絵画コンクールの展示を見に行ったんだがな、その時一緒にやってた大学のコンクールの絵でいいのを見つけたんだよ」
「それ聞いた時、アマチュアの絵でいいのかよーって俺らも思ったんだけどな。なあ」
「ああ。まあ見てみろよ」
差し出された紙には、一枚の絵が印刷されていた。
自分そっくりの男が、幸せそうに微笑みながら、窓から出て行こうとしている絵が。
「……これ……」
「ジローそっくりだろ? 活動するときはいっつもサングラスで顔隠してたのにさ、素顔にすげえ似てんの」
「しかも何がすごいって、これを描いた学生は、俺らのこと知らなかったんだよなあ。まあ、世代じゃないってのもあるけどな」
ジローは、潔癖症の美大生を思い出していた。
頭の奥がじんじんと痺れている。ジローは食い入るようにその絵を見た。
覚えている。
描かれている部屋のこと、ストレッチャーが緩んでいる窓。
幽霊だということを偽って、まるで人間みたいに共に過ごした日々。
――イチ。
ジローが信じられる、たった一人の確かな存在。
勝手に消えず、いなくならず、はきはきと物を言う、潔癖で天才肌の美大生。
ジローは目頭が熱くなった。
夢ではなかった。救われたと思ったのも、赦されたと思ったのも。
目元を押さえようと持ち上げた手から、握られていた紙がかさりと落ちた。
折り目がついて歪んだそれは、目が覚めるような青の絵のポストカード。あの夜、咄嗟に手を伸ばして掴んだそれを、ジローはずっと握っていたらしい。
今度こそ零れ落ちた涙を止めることなく、ジローはポストカードを拾い上げた。
「あー、やっぱこりゃ運命だな。これで一曲作ろうぜ」
「一体何があったのか後で事情聴取だな」
「あ、ちなみにこれ、題名は――」
『愛の色彩』。
イチが潔癖にはねつけてきた感情を、欲望を、様々な色で何度も塗り重ねた絵。
ジローは顔をしかめた。緩む頬を引き締めようと思った結果だ。
――これは、自惚れてもいいのか?
イチが自分のことを好きだと、いや、少なくとも引き留めたかったのだと。
ジローは一度鼻を啜り、眉を下げたまま笑った。
「これ、多分俺だわ」
イチに会いに行こうと思った。
伸ばされた手を掴めなかったこと、不安定だった自身のこと、そして、勝手に救われて、勝手に消えたこと。
きちんと謝らなくては。そして、今度はその手を掴むのだ。
ジローが静かに決意を固めていると、開けっ放しだった病室のドアから医者を呼びに行ったベースが帰ってきた。
「ただいま! 医者呼んできた! ……えっなにこの空気」
「お前ほんっと空気読めねえな! 珍しくジローがしくしく泣いてるところによ!」
「空気とか正直あんまり興味ないけど、そんな俺でもこれはないなと思った」
「そうだぞ、あんま騒がしくすんな!!」
「良いことしたのになんで怒られてんの!?」
「おい! 別にしくしく泣いてねえぞ!」
一気に騒がしくなった病室に、慌てて駆け付けたらしい医者が入ってくる。
検診を受けながら、ジローは一気に鮮やかになったような世界に目を細めた。
ベッドの脇のテーブルには、折り目の付いたポストカードとイチの絵のコピーが置かれている。
自分がこんなにもたくさんの色を持っていたとは、知らなかった。明るめの色合いは自分にはそぐわない気もするが、その中で笑う姿は随分と幸せそうだ。
だが、とジローは考える。
少なくともこんな表情は、一人ではもうできない。
いつもしゃんとしている彼女が、必死でこちらに手を伸ばしている姿がふと浮かんだ。イチにあんな顔をさせたまま、こんな風に笑うことなんてできない。
久々に起きたせいでぼんやりとする頭を軽く振って、ジローは窓の外を見た。
早く体調をなおしてイチに会いに行こう。一人でいたくないし、一人にしておきたくない。
ゆっくりと瞼が落ちていく。
医者の驚いた顔と、にぎやかな友人たちの呆れたような顔がちらりと見えた。
繰り返した夏の、最後の記憶。
脳裏に焼き付いて離れない彼女は、今まで見た何よりも鮮やかだった。
一年後の春の日。
リハビリも体調回復も順調に進んだジローは、ついにイチに会いに行くことにした。
仕事も抜かりない。再会における不安要素は一つもない。
――今のところ、住む家がないことを除いては。
前日に気づいて電話をかけ、全員に断られたジローは、押し切れるかどうかぎりぎりだな、とアパートを見上げていた。「馬鹿じゃないですか」と一蹴されるか、最悪「誰ですかあなた」、更には「汚い!」など言われかねない。
手土産でも持ってくればよかった、と最後の最後で気が急いた自分を責める。
アルカンシエル茜沢は、ジローが初めて来たときよりもだいぶくすんだ色をしていた。
春にしては冷たい風が吹く。
思わず首をすくめて、三○三号を確認しようと首をめぐらせた、その時。
「――ジロー?」
「ん?」
かけられた懐かしい声に振り返ると、変わらぬ鮮やかさのままで、彼女が立っていた。
長々お付き合いいただきありがとうございました!
〇主要登場人物まとめ
・朝倉衣智 イチ
旧姓後藤。隠れ肉食系の潔癖症クーデレ。繊細な絵柄と正確な描画に定評がある美大生。
・宮瀬次郎 ジロー
元幽霊のギタリスト。おっさん。いい年こいて世話焼きたがりで寂しがり。軽快なトークが得意だと自負している。
・渡井幹人 ミキ
ジローの弟でイチと仲が良かったお兄さん。人付き合いはちょっと苦手な芸術家。基本的に大人しく表情の変化に乏しいが、実は負けず嫌いで頑固。
・志村英子
感性の天才の華やか美人。突拍子もない行動に定評がある。大雑把で派手好きだが、対照的なイチとはウマが合う様子。仲のいい友人はそれほど多くない。
(・ごとういち 絵を描くのが好きな女の子。実は結構気が強い。)
・六浦敬孝
真面目で責任感が強い。意外と子供や動物が好き。もっぱらもふもふした生き物の絵を描く。自称、イチのファン。
・七海先生
おばあさま先生。イチは頭が上がらない。旦那さんが船乗りであまり家に帰って来ず暇で、お嬢様だった財力を生かして絵画を習い、現在は教室を開いている。
・矢代教授
イチの担当教員。一番仲良しの先生ともいう。専門は油絵だがいろいろやる。旅行好きで、行く先々の手法を取り入れたりもする。