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カラフの色彩  作者: 緒明トキ
カラフの色彩
21/22

旅立ちの春

 春になったといっても、今年の三月はまだ寒い。

 イチは、紺色のダッフルコートに突っ込んでいた両手を出して、温かな缶を包み込んだ。

 暖をとるには熱すぎるそれを両手で転がしながら、冷えた空気の中を歩く。




 イチは、引っ越しのトラックが去ってから空っぽになった部屋を出て、アパートの前の公園に来ていた。

 風は肌寒いが、日差しが温かい。ベンチに腰かけて、自動販売機で買ったばかりのコーンポタージュの缶を開けた。

 ぼんやりと空を見上げると、植えられている桜の木々の先に、淡く色づいた蕾が見えた。来週には咲くだろう。イチは目を細める。

 茜沢美術館の二枚の絵。舞台はどちらもこの公園だった。


 あの夏のことはまだしっかり覚えている。あの鮮烈な季節を忘れることは、きっと一生ないだろう。

 志村は院への進学を決め、今年もあの大学にいるらしい。留学を考えているとも言っていた。

 六浦は教員採用試験に合格して、茜沢中央高校の美術の先生となる。今も時折、紹介した大先生のもとで美術教室のボランティアもしているという。


――そして、イチは。


 空になって冷えていくコーンポタージュの缶を公園のゴミ箱に捨てて、イチはアルカンシエル茜沢へと足を向けた。

 よく使う私物と少しばかりの服を詰めたトランクをとりに行くのだ。一階のおばさんにも挨拶はしてある。もうここを出て電車に乗るだけだ。

 日暮坂を自転車で上ることももうないだろう。途端に物寂しい気持ちになって、一度目を伏せる。

 小さく息をついて、顔を上げる。吹っ切れたような顔で今度こそアパートへと向かった。


 迷いのない足取りで進んでいくと、アパートの入口のあたりに誰かが立っていることに気付いた。

 ファーの付いたコートを纏った背中とすらりと高い身長から、おそらく男性だろう。上の階をちらちらと窺っているように見える。

 ぱっと見では不審者だ。イチは眉間にしわを寄せる。

 なぜ自分は、この不審者に既視感を覚えるのだろう。

 近づくにつれ、くすんだ茶色の髪が冷たい風に揺れる様まではっきり見える位置まで来た。少々猫背気味の立ち方に、派手ではないが垢抜けた格好。覚えがある気がする。イチは眉間のしわを深くした。

――いや、色だって違う。けど、まさか。



「――ジロー?」

「ん?」



 思わずつぶやいた声に、鷹揚に振り返った男。

――それは、まぎれもなく。

 

 脳が理解するより早く、イチは走り出していた。元々少ししかなかった距離があっという間に縮まる。

 男が驚きに目を見開くのも構わず、勢いのままにイチは手を伸ばして、迷わずに胸倉をひっつかんだ。

 男――ジローは勢いよく上体を前に引かれて、強制的に前かがみになりながら小さくうめいた。

「うおっ、な、何すんだよイチ!」

 視線を外せないような近距離に驚きながらもジローが抗議するが、イチは手を放さない。

 それどころか、猫のような目を大きく開けてじっとジローを見つめていた。

 いつにないイチの様子に、ジローは驚きで固まったまま何度か瞬きをした。が、沈黙に耐えられずおずおずと口を開く。

「……イチ? ど、どうした?」

「ジローですか?」

「おう」

 問いには答えず、固い声でイチは続ける。

「生きてたんですか」

「あ、ああ、まあ、この通りな」

 自主的にホールドアップしたままのジローが答えると、イチは眉間にぎゅっとしわを寄せて怒ったような顔で言った。

「心配したんですよ、死んじゃったのかと思って」

 胸倉を掴んでいる手が小さく震えている。


「ほんとに、心配したんです」


 泣きそうになって、イチはうつむいた。何か言ってしまえば涙がこぼれそうで、言葉を漏らさないように唇を噛む。

 ジローは少し迷うように手を彷徨わせてから、イチの背中に手をまわした。イチは小さく肩を震わせるが、大人しく腕の中におさまっている。

 元幽霊は、幼い子にするようにぽんぽんと背を叩きながら、なだめるように言った。

「ごめんなあ、イチ。怖かったよなあ。俺が一回死んでるなんてこと、知らなかったんだもんな」

 ジローは思い出すように目を細める。

「窓から落ちた時にな、これでほんとに終わりだと思ったんだ。実はあそこから落ちるのは二回目だったしな。でも、今度は目が覚めた。病院だったよ。俺は死んでなかったんだって、その時初めて知ったんだ」

 赦されたような気がした。生きろと言われたような気がした。

 だから、イチに会いに行こうと思ったのだと、ジローはぽつぽつと語る。

「でもな、随分長い間寝てたから全然歩けねえんだよな。ものも食えねえし。仕方ねえからしばらくリハビリしたり、ついでに仕事探したりしてたんだ。今日やっとめどがついたから来たわけなんだが」

 言葉を切って、ジローはイチに視線を合わせた。

 にやにやと怪しい笑みを浮かべている。

「お前、今日引っ越すんだって?」

 イチはなんとなく腹が立って、つんと澄ました口調で答える。

「そうですよ。仕事決まったんです。絵を描く仕事で――」

「おー、知ってるぞ。活動休止中だったそこそこ有名なバンドの復活アルバムのジャケット描いてんだろ」

「……え?」

 イチが目を丸くすると、予想以上の反応に気をよくしたのか、ジローはしたり顔で続けた。

「あんまりおおっぴらに話されてはねえけど、自宅の窓から転落して意識不明だったギタリストが復帰するって、ファンの間ではちょっとした騒ぎになってんだってなあ? 知ってたか?」

――まさか。

 はっとした顔をしたイチに、自称ギタリストはにやりと笑った。




 昨年の一月のことだ。

 茜沢美術館では毎年、新年特別展示ということで、前年に行われた近隣地域のコンクールでの入賞作品が展示される。その中には、秋季に行われた茜沢美術大学の絵画コンクールの作品も含まれていた。

 イチの絵もそこで展示されていたのだが、それを見たとある活動休止中だったバンドのボーカルが、ぜひ復活アルバムのジャケットに使いたいと、大学を通してイチに頼んできたのだった。

 新年早々の電話に驚いたものの、横で聞いていた叔父がそのバンドのファンだったこともあり、話は早々にまとまった。

イチの絵を使ったアルバムのデザインが決定してからしばらくして、ホームページで先にジャケットの画像が公開された。それがなにやら好評だったらしく、そのあたりから色々なところから声がかかるようになったのだ。

 就職活動を経て一応デザイン系の仕事も決まった辺りで、イチは芸術家としても活動していくことになった、のだが。



――きっかけとなったバンドというのが、もしかしてジローの。

 イチは信じられないものを見るような目でジローを見た。

「……本当にギタリストだったんですか、ジロー」

「おいこら、聞き捨てならねえぞ! ていうかなんでバンドのメンバー知らねえんだよ」

「てっきり全員外国の方かと思ってたんですよ。唯一お会いしたボーカルさんはイギリス人だったし、ホームページの紹介は名前しかないし、全部英語だし……大体なんであんなとこに紛れてるんですか?」

「ん? 俺は元々ボーカルの妻とバンド組んでて、そいつが国際結婚してバンド解散して、夫の方とまたバンド組んだんだよ」

「……複雑ですね。私の勉強不足は認めますが、ジローの説明不足もあるんじゃないですか」

 自分でも苦しいと思いながらも負け惜しみめいた返しをすると、ジローは意地悪く唇をつり上げた。

「相変わらず口が減らねえなあ、イチ? ほんとは俺のこと大好きな癖して」

「は? なんですかそれ」

「べっつにい?」

 ジローはにやにや笑ったままイチの顔を覗き込んだ。イチは眉間にしわを刻んだまま、強気な姿勢を崩さないジローを訝しげに見上げる。

 と、ジローはぱっと体を離して、明るい声色で言った。

「――ああそうだ、本題なんだけどな。イチ、お前市内で引っ越しだろ?」

「まあ、そうですけど……」

「退院したが家がない哀れなジローを泊める気、ねえ?」

「はあ?」

 隠すことなく思いっきり顔をしかめたイチに、ジローは晴れやかな笑顔で利点をあげていく。

「必要以上に生活に干渉しねえし、料理作るし、モデルにでもなんでもなるし、イチが嫌がることは絶対しねえし、家賃も半分負担する! ほら、理想的な同居相手だろ? な、お願いしますって」

「な、なんで住む場所も決めずに出てくるんですか!」

「バンドメンバーの誰かんちにしばらく泊めてもらおうと思ってたら、知らねえうちにみんな結婚とか同棲とかしてたんだよ。さすがにそんな家には泊まれねえだろ」

「私ももう泊めませんよ」

「つれないこと言うなって! 俺たちうまくやってたじゃねえか」

 なあ、と首を傾げて笑うジローに、イチはぐっと押し黙った。

 抵抗しないのをいいことに、いいように距離を詰められている気がする。

 イチは小さくため息をついて、もう一度力を込めて胸倉を掴み、視線を合わせるように引き寄せた。

 至近距離で、驚いたように目を見開いたジローを見つめる。イチは挑発的に微笑んだ。猫のような目を細めて、高圧的な調子で言う。

「いいんですか、そんなこと言って。私のあの絵、見たんじゃないんですか」

 引き留めたい、捕まえておきたい、欲しい。

 そんな幼稚とも言えるような欲望をさらけ出した、あの絵を。

 イチは自嘲まじりに続ける。

「残念ながら、あなたは私の特別なんです。あの日、幸せそうな顔で窓の外に落ちて行ったあなたを、なんとかして部屋に引きずり戻したいと思ったくらいには」

 他人との接触に関して特に気を遣っていたイチが、初めてなりふり構わず手を伸ばした相手だった。

 そしてその執着心をキャンバスに叩きつけたあの絵を、ジローは見たはずだ。

 きっと次に手に入れた時は逃がさないだろう。だから、ここで離れるべきだ。イチは冷やかに続ける。

「だから、私みたいな危険思想の芸術家のところはやめて、大人しく頭を下げてお友達のお家に泊めてもらったらいいと思いますよ」

 これ以上話す気はなかったイチが体を離そうと手を放すと、ぱっとその手を取られてもう一度引き寄せられた。

 驚いて見上げると、ジローは困ったような顔で笑っていた。

「馬鹿だなあ、イチ。俺のことをあんなに欲しがる奴なんて、イチ以外にはいねえよ」

 そのままぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、イチは目を見開いた。

 泣きそうにかすれた声で、ジローはぽつりと言う。

「俺のこと特別だって言うのは、イチしかいねえよ。だから、なあ、イチ、連れてってくれるよな?」

 ジローの瞳はどこか不安そうに揺らいでいる。

 唯一確かな存在であるイチを放したくないかのように、背に回された手に力が込められた。

 イチは驚きに丸くしていた目をため息とともに伏せて、小さく「なんですか、それ」と呟いた。そして、ぐっと力を入れてジローの腕から逃れる。

 二、三歩前に進んでから振り返って、驚いた顔のジローに強気に微笑んで見せた。


「――気位が高くて潔癖な新進気鋭の芸術家と一緒に暮らしたいなんて、物好きな人ですね」


 呆れたような、小馬鹿にしたような調子で言うと、意味を理解したのかジローがわずかに背を正した。

「イチ、それって……」

「私、手がかかると思いますから、それ相応の覚悟はしておいてくださいね、ジロー」

 言うだけ言って、返事を待たずにアパートの階段を上り始める。なんとなく照れくさくて、イチは軽く頬を押さえた。

 と、後ろから我に返ったジローの声が追ってくる。

「いっ、イチ! お前、それ、オッケーってことだよな!?」

「近所迷惑です、静かにしてください」

「はああ!? 重大な問題だろこれ、イチ! 待てって!」

 咎めるような言い方だが、その割にはどこか弾んでいる。

 階段を上り切ったところで振り向くと、まだ本調子ではないのか、少し息を切らしながら追ってくるジローが見えた。

 まだ少し冷たい風が、ゆるくうねる髪を揺らした。

 日差しにきらめく、少しくすんだ茶色が目に入る。そこに、追い求めたあの色はどこにもない。だが、ジローがいる。

 イチは、眩しさに目を細めた。



 



 きっとこれからの日々は、見たこともないような色をしている。







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