新春の候
「幽霊って……それはどういうのだった? 足は? 日本人? あっ、もしかしてタンザニアで買った人形に憑いてきたんじゃ――」
「日本人だったよ、多分」
「うーん、じゃあわかんないなあ」
だろうな、と小さく頷いて、イチは小ぶりのみかんを手に取った。
一月某日。
世間ではまだ正月ムードが続いているというのに、イチは早々にアルカンシエル茜沢へと戻ってきていた。
再婚した母と新しい父がいる実家には、どうも居づらかったのだ。家の中に他人がいる何とも言えない気まずさを久々に味わって、尻尾を巻いて逃げ出した形だ。
正月ということで、この部屋の本来の持ち主であるイチの叔父が珍しく短期で帰省している。
幼いころによく遊んでもらったイチは、神経質な母といるよりよっぽど叔父に懐いている。というか、叔父の方が「家族」という感じがして、実家に居るよりよっぽどリラックスしているのだった。
下がり気味の眉やまなじりのせいか、大柄な割に気が弱そうに見える叔父は、大みそかに帰ってきてからずっと厚着のまま炬燵に張り付いていた。最近は基本的に海外で研究をしているが、今回も資料と荷物を整理してまたすぐに発つらしい。
ジロー――もとい、この部屋の幽霊について聞いてみるも、物置同然の扱いをしていたらしい叔父はやはり知らなかった。
アフリカ現地の幽霊なら興味深かったのに、と残念そうにため息をついた姿に、イチは叔父の趣向を忘れていた自分を呪った。
大き目の炬燵に入って、駅伝とバラエティを交互に見ながら、スーパーで買ってきたおせちをつつく。アフリカの幽霊についておっとりと語りだした叔父の話に適当に相槌をうちながら、イチはぼんやりとポケットの中のものに思いを馳せた。
少し古い型の、黒い携帯電話。
イチの右ポケットに入っているそれは、あの日、窓から落ちる直前まで、ジローが持っていたものだった。
コンクールに作品を提出した数日後、イチは修理に出していた自転車をとりに行こうと家を出た。
打ち上げ後に、酔った志村がイチの自転車を巻き込んで電柱に衝突したのだ。志村本人は打撲程度で済んだが、イチの自転車のハンドルは少し曲がってしまった。
近所の自転車屋に持って行ったところ無料で直してくれるということで、「お詫びにもう一軒おごるよ!」とろれつが回っていない口で言う志村を無理やり帰らせ、自転車を預けてきたのだった。
「あっ、朝倉さん! ちょっとちょっと……」
階段を降りたところで、噂話が好きな一階のおばさんに手招きされた。大人しく近づくと、エプロンのポケットから黒い携帯電話を取り出してイチに見せた。
「これ、もしかしてあなたの? 今朝洗濯物をベランダから落としちゃって拾いに行ったんだけどね、植え込みの陰に落ちてたのよ。旦那は違うって言うし、二階の子は違うのを持ってるの見たし……じゃあ三階の朝倉さんかしらって思って」
「えっと……ちょっと見せていただいてもいいですか?」
「もちろんよ! 私、機械駄目だから、どうしたらいいかわからなくて」
手渡されたそれを受け取ると、見覚えのあるものだと気づいた。
角が取れた、古い型の黒い携帯電話。
イチはすぐに思い出した。これはジローが持っていたものだ。
気付けば、おばさんに礼を言って頭を下げていた。
「……ありがとうございます、これ、探してたんです」
「あらほんと? よかったわあ、持ち主が見つかって! 最近は個人情報とか大変なんでしょう? 気を付けてね」
「はい。あの、本当にありがとうございました」
「あら、いいのよお、そんな」
上機嫌でほほほと笑うおばさんにもう一度軽く頭を下げて、イチは自転車屋へと歩き出した。
ポケットに突っ込んだ携帯電話を強く握って、早鐘をうつ心臓を落ちつけようと大きく息をついた。
誰に言えることではない。
けれど、ジローがいたという証拠を一つ手に入れたのだと思った。
家に帰ってから、イチは買ってきた充電器につないで、携帯電話の電源を入れた。
見覚えのあるぼんやりとした青い画面が広がる。『憧憬』の、完成前の姿だろうか。
かこかこと独特の音を立てながらボタンを押してメニューを見ていくと、鍵がかけられた日記があった。
決定ボタンを押すと、パスワード入力画面が出る。その数字はもうわかっていた。
それは、ミキと出会ったころのイチの名前――ゴトウイチ。5101だ。
迷いなく入力すると、カレンダーが表示された。一日ごとにメモが残されている。
ページを辿るが、曜日がおかしい。そういえばこの日記は、十年前のものだったか。
イチは膝を抱えたまま、目についた適当な日付を開いていく。
たいていはその日の出来事を一行でまとめてあるだけなので、流し読みすればさほど時間はかからない。
と、急に画面いっぱいに文字が現れた。
八月のある日、友達ができた、から始まったものだった。
それ以降は長文が続く。公園で出会った女の子との日々。描いたもの、話したこと。
日記の内容に、イチには覚えがあった。青いワンピースにも、スケッチブックにも。
イチの記憶の中の「お兄さん」はやはり、ジローの弟のミキだった。
膝を抱えたまま、日記を読み進める。
そこにあったのはスランプによる苦悩と、幼いイチと過ごした夏の日々が綴られていた。
同じ芸術家として、父親へのコンプレックスもあったのだと思う。
急に冷たくされた日のことをイチは覚えているが、その日書いたらしい日記には滔々と後悔が綴られていた。彼はきっと、心の拠り所だったイチに父親の絵を褒められ、裏切られたような気になったのだろう。
確かにミキにも大人気ないところはあったかもしれないが、イチは少し申し訳なく思った。もっと彼の話を聞いておくべきだったかもしれない。そうしていたら、何かが変わったかもしれない。
だが、絶対に謝ると誓うように締めくくられていた文面を見て、イチは、ジローが確かに救われたことを知った。
ミキは、あの「お兄さん」は、死ぬ気なんてなかった。不運な事故だったのだ。それに、日記には兄への感謝の言葉もあった。
――何年もこの部屋で彷徨い続けた幽霊は、これできっと成仏したはずだ。
イチは、素直に喜べないような、どこか複雑な気持ちで携帯を閉じた。
『絵を描いているだろういちが、いつかこの絵に出合いますように。』
ミキの日記にあったその一行が忘れられず、翌日、イチは美術館を訪れた。
迷いなく通路を進んで辿り着いた眩しいほどの青を前に、イチは目を細める。
これは確かにイチの絵だった。
あの夏の日々、乾いた日差しの中に揺れる青。降りしきる蝉しぐれの中で、泡のようにちりばめられた白い小花柄。
懐かしいと思ったわけだ、とイチは小さく微笑んだ。
張り巡らされた幾何学模様で気づかなかったが、この絵は、幼いころ気に入っていた青いワンピースにそっくりだ。
「やっぱりちょっと、素直じゃないんですね」
ミキはきっと、「あの子」のことが大切だったのだろう。だからこそ、その姿をありのまま描かなかった。彼女への憧れをこんなに大きなキャンバスに残したくせに、肝心の「あの子」を隠しておいたのだ。
黙って絵の前に立っていたイチは、静かに出口へと向かう。
本人に会ったら、きっと言いたいことはたくさんあった。まだ絵を描いていること、コンクールのこと、ジローのこと。だが、あの絵を前にしたら何も出てこない。
ただ、見惚れた。
それがあの絵の力で、画家としてのミキ――渡井幹人の残した全てだ。
目の覚めるような色を思い返して、イチは目を伏せる。
――あの夏の日に出会った相手に憧れていたのは、彼ばかりではない。
そのことを、痛いくらいに思い出したのだった。
「そういえばいっちゃんは結局どうするの? 大学院とか行く?」
芸能人の格付け番組をぼんやり眺めていると、突然叔父が口を開いた。眠たげだった目がいつの間にかしっかりと開かれている。
不意を突かれたイチは、珍しく視線を彷徨わせた。
「……いや、それはちょっと、無いかな……」
十二月に発表された学内コンクールの結果、イチの絵は学長賞をもらった。
学長賞とは最優秀賞の次点の賞で、奨励金は出るものの、奨学金はもらえない。つまりイチには進学に必要な資金が入らなかったことになる。
最優秀賞は志村の絵だった。
いつもの感情を爆発させたような画風ながら、計算されたような繊細な濁りも共存していた。色合いも落ち着いたもので、静かな情熱を感じさせるような不思議な魅力があった。鳥肌が立つほど彼女の絵は素晴らしかった。
惜しくも賞を逃したイチだが、不思議とそれほど悔しくは思わなかった。
表彰式の後で先生には「一皮むけたなあ」と軽快に笑われ、賞状を持ったままむず痒そうな顔をしている志村に「おめでとう」と言うと涙目で何度も頷かれた。感極まっているらしい。
苦笑交じりに「祝賀会は一次会までしかしないからね」と言うと、半泣きの美女はにっと歯を見せて笑った。
難しい顔をした六浦には、おめでとうの言葉よりも先に「誰だこいつは」と問われた。イチが笑って「アフリカオタクの叔父さんの友達の、自称ギタリスト」と返すと、六浦は怪訝そうな顔のまま「とりあえず、おめでとう」と小さく言った。
賞はもらったものの、ともかく先立つものがないイチは、就職活動をするほかない。
奨励金は画材などの購入に充ててしまったのだ。そもそも学費にするには足りない。イチは苦笑する。
「お正月が明けたら、仕事探すかな」
「そうかあ、大変だね」
しみじみと言いながら、叔父は甘酒の缶を開ける。
どうも日本食が時たま食べたくなるらしい。スーパーで買いこんできたおせちや甘酒は、することのない寝正月にわずかな彩りを添えていた。
イチがかまぼこをとろうと箸を動かしたとき、大人しく甘酒を口に運んでいた叔父が突然口を開いた。
「いっちゃん、俺結婚するかも」
「…………は? な、なんて?」
「結婚」
「ケッコン?」
「うん」
突然の告白に驚いて顔を上げると、叔父はテレビをじっと見つめていた。かまぼこを箸で掴んだまま、イチもテレビに目をやる。格付け番組が続いているが、ワインの良し悪しなど、画面からではちっともわからない。
イチは叔父に視線を戻した。
「だ、誰と?」
「アフリカで会ったフランス人の文化人類学者と。すげえ美女」
「フランス!? え、ちょ、ど、どこで結婚するの?」
「わかんない。けど」
きっとアフリカのどっかに住む。
ぽつりと言った叔父さんに、イチは絶句した。
「お、叔父さんが美女と結婚って……うん、別にいいんだけど、いいんだけどね? おめでたい話だし」
「ありがとう、いっちゃん」
「いや、でも、確かに叔父さんはいい人かもしれないけど、なんていうか……その美女に騙されてるんじゃないよね?」
無礼を承知で歯切れ悪く言うと、叔父はちらりとイチを見た。
「いっちゃん、俺だって信じらんないよ。年も年だし。でも、俺もあの子のこと好きだし、好きあってるのにどうしてプロポーズしないんだこのへたれ! って本人に怒られてさ」
そこまで言うと、叔父は顔を緩ませて困ったように笑った。
イチはわずかに目を見張る。なんだか、ひどく幸せそうに見えたのだ。
母の再婚も、こんな顔で押し切られた気がする。一人で突然再婚を決めた母は、新しい父の隣で実に幸せそうに微笑み、イチの言葉を封じたのだ。文句をつける気はなかったが、何も言えないと思った。
今の状況もまさにそれだ。イチは苦笑して、宙に浮いていたかまぼこを自分の皿にのせた。
「まあそういうことなら、おめでとう。結婚式には呼べたら呼んでね」
「はは、ありがとう。これで第一関門突破だなあ」
「第一関門?」
「実は、まだ姉さんには言ってないんだ」
苦笑交じりに頭をかいた叔父に、ああ、とイチは頷いた。
彼の姉、つまりイチの母は、身内のことに関しては超が付くほど保守的な部分がある。母本人に関してはその限りではないのだが。
だが、今なら別だ。イチは自信たっぷりに笑みを浮かべた。
「叔父さん、ラッキーかもしれないよ。今のお母さんならいつもよりも簡単に賛成すると思うな」
「だといいんだけどなあ」
「大丈夫だと思うけど」
年下の彼と再婚して幸せいっぱいの母は、おそらく弟の幸せも祝福するはずだ。今ならハードルはだいぶ下がっている。ため息をつく叔父を尻目にかまぼこをかじっていると、ふと叔父が体を起こした。
「ああそうだ、だからいっちゃんにも言っておかないとと思ったんだった。……でも、就職するなら大丈夫かな」
「ん? なに?」
「来年にはあっちに家を決めちゃおうと思ってるから、その時にはここ、解約しようと思っててさ。俺もいっちゃんもいなくなるなら、契約更新することもないかなって」
確かにそうだ。
なんとなく気が進まない気がしなくもないが、イチはそうだねと頷こうとした。
――その時、けたたましい電子音が部屋に響いた。滅多に鳴らないイチの携帯がわめき立てている。
二人で顔を見合わせてから、叔父が並べて充電していた携帯電話を覗き込む。
「あ、俺のじゃないや。いっちゃんのだ。はい」
「え、私?」
携帯が派手に光っている。
着信だ。こんな状態になるなんて初めて知ったかもしれない。
イチは慣れない手つきで慌てて通話ボタンを押した。
「――っはい、朝倉です」




