音色の残像を追って…君を思い出す 2026/10/19 15:40
放課後の校舎に響くリコーダーの音を、あなたは覚えているだろうか。
教室のざわめきが消え、夕焼けが廊下を染める時間にだけ聞こえてくる、あの細くて澄んだ音色。
本作は、そんな音を毎日聞いていた「僕」と、
その音を奏でていた女の子、はずきちゃんの物語です。
特別な出来事があるわけではありません。
ただ、放課後に流れる音を聞いて帰るだけの日々。
それでも、その時間は確かに心を満たしてくれるものでした。
音が途切れたとき、初めて気づくことがあります。
当たり前だと思っていたものが、どれほど大切だったのかということに。
静かな放課後の空気と、胸の奥に残る音色の余韻を、
少しでも感じてもらえたら嬉しいです。
放課後の校舎に、細くて澄んだリコーダーの音が流れていた。
その音を聞くのが、僕の日課だった。
音楽室の前の廊下に座り、扉の隙間から漏れる音色を聞きながら、
夕焼けが校庭を染めていくのをぼんやり眺める。
その音を吹いているのは、同じクラスの はずきちゃん。
仲が良くて、よく一緒に帰る。
でも、彼女が放課後に音楽室へ向かう理由は知らない。
聞こうと思えば聞けたはずなのに、僕はいつも聞けなかった。
ただ、音を聞いているだけでよかった。
はずきちゃんのリコーダーは、他の誰とも違った。
高い音は風みたいに軽くて、
低い音は胸の奥に落ちてくるように深い。
ときどき音が揺れるのは、きっと彼女が笑っているからだ。
「今日も聞いてるの?」
ある日、音楽室から出てきたはずきちゃんが言った。
僕は慌てて立ち上がる。
「べ、別に……」
「ふふ。いいよ、聞いてて。なんか、嬉しいし」
その言葉が胸の奥でずっと響いていた。
それから数日、僕はいつも通り廊下で音を聞いた。
はずきちゃんは僕がいることを知っているのに、
扉を開けて話しかけてくることはなかった。
でも、音色は前より少しだけ優しくなった気がした。
まるで僕に向けて吹いてくれているみたいに。
──そして、ある日。
放課後になっても、音楽室から音が聞こえなかった。
廊下に座って待ってみても、静かなまま。
扉を開けてみても、誰もいない。
「今日は休みだから」
背後から声がして振り返ると、
はずきちゃんがランドセルを背負って立っていた。
「えっと……具合悪いとか?」
「違うよ。今日はね、家に早く帰らなきゃいけないの。
お母さんの手伝いがあるから」
そう言って、少し寂しそうに笑った。
「そっか……」
僕はそれ以上言えなかった。
胸の奥がぽっかり空いたみたいで、
夕焼けがいつもより冷たく見えた。
「そんな顔しないで。明日は吹くから」
はずきちゃんはそう言って手を振り、帰っていった。
──でも、翌日も音は聞こえなかった。
その次の日も。
さらにその次の日も。
音楽室の前の廊下は、ただ静かだった。
僕は毎日座って待った。
誰も来ない扉を見つめながら、
昨日までそこにあったはずの音を探した。
ある日、担任の先生が言った。
「はずきさん、今日から別の学校に行くことになりました。
お家の都合でね。急だったから、みんなに言えなかったみたい」
頭が真っ白になった。
放課後、音楽室の前に座る。
扉の隙間からは、何も聞こえない。
夕焼けが校庭を赤く染めていく。
風が吹いて、落ち葉が転がる。
僕は目を閉じた。
すると、あの日の音が蘇る。
風みたいに軽い高い音。
胸の奥に落ちてくる低い音。
ときどき揺れる、笑っているみたいな音。
はずきちゃんの音色。
僕はゆっくり目を開けた。
音楽室の扉は静かに閉じられたまま。
でも、その向こうに彼女の残像が見える気がした。
リコーダーを持って、少し照れくさそうに笑う横顔。
夕陽に照らされて揺れる髪。
僕に向けて吹いてくれた、あの優しい音。
もう聞こえないはずなのに、
耳の奥でずっと響いている。
僕は立ち上がり、校庭へ出た。
風が頬を撫でる。
はずきちゃんの音色は、もうここにはない。
でも、僕の中には残っている。
――僕はきっと、これからもずっと、
リコーダーを吹く君の残像を追い続けるんだろう。
夕焼けの空を見上げると、
風の音が少しだけ、リコーダーの音に似ていた。




