8.ファルネーゼ侯爵家
馬車が進むにつれ、周囲の空気がふっと変わった。
エルミラが私の方を向いて囁く。
「ここから、ファルネーゼ侯爵領ですよ」
私は窓から周囲を見渡すと、王都とは色合いの違う建物に驚いた。
そして、王都では見たことのない店――飲み物を売っているのだろうか?
目を丸くしている私にエルミラが説明をしてくれた。
「あの飲み物を売っている建物は喫茶です。珈琲というものが飲めますよ」
道端には肉を串で刺したものが売られていて、香ばしい匂いが漂ってくる。
歩いている人々も、王都とは違い、どこか明るい雰囲気だ。王都では見ない姿の人々も、ここでは隠さず歩いている。
本当に同じウィンドミル国内の町なのだろうか――そう思うくらいには、国境の町・ファルネーゼ侯爵領は、違っていた。
小高い丘の上には王城と見紛うほど大きな屋敷が建っていた。
(あれが――ファルネーゼ侯爵の屋敷?)
カタン、と屋敷の前で止まると、侯爵様が柔らかい笑顔でこちらに向かってきた。
そして、開かれた扉から私の手を取り、降ろしてくださった。
「アリーチェ、ようこそファルネーゼへ」
触れた彼の手に、私の鼓動が跳ね上がる。
出迎えてくれた屋敷の使用人たちが次々に声を上げる。
「お待ちしておりました、アリーチェ様!」
「長旅お疲れ様でございました!」
人々は、私の目を見ても笑顔だ。誰も目をそらさない。
ふっと私の心がほどけ、あたたかなものに包まれた感覚がした。
生まれて初めて感じたものに私は戸惑う。
「アリーチェ、疲れただろう? 君の部屋へ案内する」
侯爵様はそう言って、私の手を取ったまま進みだした。
二階の奥に、私の部屋だという部屋の扉を開けると――そこは翡翠があしらわれた調度品で揃えられていた。
「君のために用意させた。瞳と同じように……美しい色だ」
私の頬が熱くなる。
「侯爵様、なぜ私のために?」
彼はふっと笑って、囁いた。
「――これからは、私のことはアウレリオ、と呼んでくれ。夫となるのだから」
「アウレリオ……様……」
私がそう呟くと、彼は「それでいい」と笑って答えた。
「今度、屋敷の外も一緒に行こう。アリーチェ、君にこの町の空気を感じてほしい」
突然の提案に、私は驚きを隠せない。
「でも……私……瞳が」
アウレリオ様は静かに首を振って答える。
「それから。もう瞳も隠さなくていい」
彼の言葉に、私の胸が熱くなり、視界がわずかに滲む。
「もう、君を傷つけるものは、何もない――ここでは誰も君の瞳を恐れない」
私は、ただ頷くことしかできなかった。
ここまで暖かい空気に包まれることが初めてで、体がこわばる。
慣れない雰囲気に、私は、どうしていいのかわからない。
「今日はゆっくり休むといい……君も疲れただろう」
「ありがとう……ございます」
アウレリオ様が去った後、部屋を改めて見回す。翡翠が施された調度品で揃えられた部屋は私を待っていたかのような空気で包み込む。
私は生まれて初めて、自分の部屋で心がほどけるのを感じた。
(本当に綺麗……あの家と空気も、装飾も何もかもが違う)
私が心の中で呟くと、部屋の扉を軽く叩く音がする。
入ってきたエルミラが新しいドレスを運んでくる。
「アリーチェ様! 湯浴みして、着替えてしまいましょう。お食事も、楽しみにしていてくださいね」
「あ、ありがとう……」
湯浴みの湯は今までにないほど温かかった。しかも、新しい服なんて――。
ここに来てから、驚くことばかりだった。
新しい衣装なんて、何年ぶりだろう。父が倒れてから比較的新しいドレスは全部売ってしまった。
そして――。
温かい食事を食べたのは、初めてだった。
素材の味も、温かさも、全てが全身にしみわたる。
「おいしい……」
思わず口に出す私を、アウレリオ様と、周囲の使用人たちは微笑んで見ていた。
私は、恥ずかしさで少し俯く。それでも、ファルネーゼ侯爵家で過ごす時間は、私に暖かさを教えてくれた。
それは、生まれて初めて「ここにいる」ことを確かめる時間。
目を見て話してくれる人々がどんなにありがたいことだろう。翡翠の目を持っていても誰も忌み嫌わない。
それだけで、私は地に立っている感覚がした。
エルミラが、横に来て私に声をかける。
「アリーチェ様、明日は侯爵領の町をご案内しますね」
「町へ……?」
私の心臓が一瞬どきりとする。
「ご主人様も『隠れる必要はない』と。そうですよね、ご主人様?」
その声にアウレリオ様が微笑んで頷く。
「明日は、領民に『お披露目』ですよ」
エルミラが、太陽のようにニコッと笑った。
(私が……人前に?)
少し震える私に、アウレリオ様が穏やかな声で話す。
「心配するな。この町では、君は隠れる必要がない」




