45.翡翠の瞳は、明日を見る(終)
ファルネーゼ領に来てからの時間は、あっという間に過ぎていった。
この町に来てから数年近くの時が経ち、私も領主夫人としての立場には慣れた。
すっかりこの国境の町にも馴染み、私は静かであたたかい毎日を過ごしている。
――少しだけ賑やかすぎるけれど。
国境の町・ファルネーゼ領は今日も変わらず、町は人々が波のように寄せては返し、風に乗って洋琵琶の音が届く。
屋敷のバルコニーに、アウレリオ様が海を見て立っている。
「今日も……穏やかで、そして、賑やかですね」
私が声をかけると、彼がやわらかく頷き、微笑む。
バルコニーからは今日も光を浴びて、穏やかに煌めいている海が見え、港には多くの大小さまざまな船が出ては入ってきて、止まることはない。
彼と私は、ふたりでそんな景色を静かに並んで見ていた。
――しかし、後ろから血相を変えた声がする。
「ご主人様! アリーチェ様! ウィレミナお嬢様が、町に――!」
息を切らせて叫ぶエルミラに、飛び上がるように私たちは振り向く。
娘のウィレミナは、三歳になる。
「……またか、ウィレミナ……誰に似たんだか」
頭を抱えながらアウレリオ様が声を落とす。
ゆっくりと、エルミラの後ろから影が近づく。
「――あなたのお小さい頃にそっくりですよ。ウィレミナお嬢様は」
微笑みながら少し年を取ったビセンテさんがゆっくりと口を開く。
「それは手がかかるな」とアウレリオ様は頭をかく。
「――早く行って差し上げるのです。また噴水の方でしょう。お嬢様は最近、噴水が気に入ったご様子ですよ」
ウィレミナの行動を悟ったかのようなビセンテさんの声に、私たちは足を早める。
町の噴水の方に降りていくと、ウィレミナが町の子供たちに混じり、洋琵琶の音に耳を傾けていた。
私たちに気がついたのか、彼に似た淡い茶色の髪がふわりと揺れ、満面の笑みで振り向く。
そして、翡翠色の瞳を輝かせ、走り寄る。
「あ、おとうさま、おかあさま! みて! きれいなおとなの!」
「りょうしゅさまだ! みて、このおと、きれいだよ!」
ウィレミナと子供たちが口々に話しだす。
アウレリオ様が腰をかがめ、子供たちの目線に合わせて、口を開く。
「ウィレミナ、勝手に屋敷を飛び出したら、皆が困るだろう? 皆も、収穫祭が近づいて楽しいのはわかるが、程々にな」
ペコリと頭を下げ子供たちが口を合わせて「ごめんなさーい!」とたどたどしく喋る姿が、微笑ましい。
「しゅうかくさい、たのしみ! おじいさまと、ファビオおじさまもくるんでしょ?」
ウィレミナがキラキラした笑顔で跳ねるように話す。
また、収穫祭の季節がやってくる。学校を卒業し、王都に戻ったファビオは、王都でお父様の補佐を勤めている。
そんなファビオとお父様が、この町に来るのは久しぶりだ。
「ファビオに会うのも、久しぶりだわ。――お父様も」
お父様は宰相になられてお忙しいのか、なかなか王都を離れられないでいる。
サラから時折来る手紙で、皆の様子を聞き、たまに女王陛下に呼ばれ、時々王都には行く。
色づいた世界は、今日も続いている。
「義父上とファビオは、明日到着されるとのことだ」
「久しぶりに、話ができそうで嬉しいです」
私たちも明るく声を交わし、微笑み合う。
そして、ウィレミナは翡翠の瞳をもって生まれても――誰もおぞましいものを見る顔をせず、まっすぐに前を見て育っている。
もう、翡翠の瞳は隠さないで生きていられる。そして、翡翠の瞳は、未来を見るのだ。
そして、お父様が王城でエレノア様とルチアーナ様の肖像画を見つけ、現在はファルネーゼ家に飾られている。
広間に飾られた、かつて追放されたふたりの王女は今日もこの屋敷を今も見守り続け、こころなしか安堵の表情をされている気がしてならない。
未来の翡翠の瞳――ウィレミナの成長とともに。
彼女は両王女の面影を継いでおり、どちらにも似ている。
まるで、新しい歴史の始まりを告げるように。
時とともにかつて『忌まわしきもの』とされた翡翠の瞳の意味は変わってきた。
それは、今はもう何の意味も持たない。
ただ、今を生きる。これからも、それは変わらず続いていくだろう。
翡翠の瞳は隠さない。ただ、前を見て生きていく。
ウィレミナの満面の笑みは、私たちに明日を見せてくれる。
何者でもない瞳の色として――生きていってほしい。
「アリーチェも、すっかり俯かなくなったな」
「翡翠の瞳は隠す必要ないですから。それを教えてくれたのは、あなたです――アウレリオ様」
「明日を照らす色……なのかもしれないな」
彼はそう言って、視線を上に上げる。
あの日、彼に出会わなければ――知らなかった世界。それは翡翠の瞳を隠さないで生きていられるところ。
それは、とてもあたたかく、今日も私たちを包んでいる。
これからも、時を刻んでいくだろう。
『翡翠の瞳は、誇るべき色』と教えてくれた彼の隣で、私は生きていく。
そして、季節はめぐっていくのだろう。
私は、食堂へ歩いていく彼とウィレミナの姿を見て、頷き、歩き出した。
翡翠の瞳は――隠さずに、前を見て。
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