36.エノテラの門
秋だというのに、その日は真冬のように冷えていた。
私は目が覚めると身体がぶるっと震え、そして起き上がり、外を見ると、雲がぐにゃりと歪んで見える。
動かないはずだった心が、じわりと締め付けられ軋む。
『その目でこっちを見ないで! あっちに行きなさい!』
――おかあさまは、わたしが、きらいなの? どうして?
『災いを呼ぶ子は、せめて役に立ってちょうだい!』
――私は、どうすれば、あなたに娘として見てもらえますか?
凍りついたように動かなかった心が、なぜ今になって思い出してしまうのだろう。
私は首を振り鏡の前に立つ。目にじわりと何かが浮かんでいる。
「……アリーチェ様、本当に、行かれるのですね? エノテラの門へ」
「ええ……。これは、私にとっての決別の日ですから」
「無理、しなくてもいいんですよ。まだ時間はありますから。私しかいません。泣いても――いいんですよ」
朝の支度をしに来たエルミラが沈痛な面持ちで呟く。
私は、じわりと浮かんだ涙を布で拭って、エルミラの方を向く。
「大丈夫……。化粧をすれば、隠れるから」
エルミラが訝しげに私を見て、支度を始める。
声だけは、いつもの明るい声で話す。
「今日は、新しいお召し物ですよ! 市場で買った布を使ったものが仕上がったんです!」
淡い紺色に金色と翡翠色の花の刺繍が施された布――アウレリオ様からの、最初の贈り物で作られたその衣装は、身につけた瞬間、ひらりと舞った。
「きっと、アリーチェに似合う」と彼が言ってくれた布で仕立てられた衣装は、優しく私を包み込む。
その優しさとやわらかさが、揺れた私の決心を固めてくれた。
「さあ、行きましょう――エルミラ」
彼女は揺れた瞳のまま静かに頷く。
私は、まっすぐ前を見た。瞳を隠さずに。
広間では、既にアウレリオ様とファビオが待っていた。
「アリーチェ、本当に……行くんだな?」
「姉様……、もう無理はしないで」
私はゆっくりと頷き、口を開く。
「――もう、大丈夫。行きましょう!」
馬車へ乗り込み、エノテラ街道へ向かう。途中のベドゥルナ農園からは香ばしい香りがし、収穫祭の近さを思わせる。
ここに来てから何ヶ月経ったのだろう。風が季節の移ろいを伝えてくる。
農園を抜け、殺風景な道――エノテラ街道。
前に護送用の格子の着いた馬車がある。あの中に、母はいるのだろう。
「アリーチェ、ファビオ。こちらへ――」
アウレリオ様に連れられ立った場所は、エノテラの門が見下ろせる小高い場所だった。
私たちは寒々としたエノテラ街道と、その先の門を見据える。
ガシャリ、と格子のついた馬車の扉が開かれる。
その中からは――何もかもを失ったひとりの女性。服はかつての豪勢なものではなく、むせ返る香りもしない。
ただの、青白い顔をした女性が出てきた。
彼女は何も持たず、よろよろと追い立てられるように門へ向かった。
途中で、はっとした表情をし――こちらを見て何かを伝えようと口をパクパクしている。
声は聞こえないが、私はただ、その光景を見下ろしていた。
私も、ファビオも母だった人を黙って見据える。
誰ひとり声を発さずに、街道から門に追い立てられる女性を、見送った。
ただ、アウレリオ様は私の手を握ってくれていた。握られた彼の手は震えている。
彼の手から、私に熱が伝わる。自分を見失わないように。
ファルネーゼ領に来てからの私を見たあの人は、この光景を見てどう思っただろうか。
最後だけは――娘として見てくれただろうか。いや、それはとうの昔に諦めたことで。
門の外にあの人が消えていった時、私の心はふっと溶ける感覚がした。
胸の奥にあったものが雪解けのように溶けていき、身体をあたたかいものが駆け巡る。
――やっと、終わった。
初めて私の中にその言葉が哀しい響きで浮かぶ。
帰り際、馬車の中で私たちを重い沈黙が包む。
ファビオは、全身が震えている。十五歳なのに、全てを抱えて立ち上がろうとしている。
私より、ファビオのほうが、ずいぶんと大人びて見えた。子供なのは私の方だ。
農園の香りが、私をファルネーゼ領の人間として戻してくれた。
土と作物の香りが『ここにいる』と改めて感じさせてくれる。
その風を感じながら、私は力が抜け、アウレリオ様に寄りかかっていた。
彼は私の髪に触れ、ぽつりと「頑張ったな」と声を落とし、髪を撫で続ける。
それが、私の胸の中をもう一度じわりと暖かくし、私の口角が少し緩んでいた。
屋敷に到着した時、私は深く何度も呼吸を繰り返す。こんな感覚は、初めてだった。
これが、私の決別であり、新しい始まり。そう思うと、少し心が跳ねた。
夜、ひとり部屋でぼうっとしていると、アウレリオ様が入ってきた。
彼は何も言わず、私の横に腰を下ろし、私を抱き寄せる。
そして、小さな箱を取り出した。
「本来なら、婚姻の際に渡すものなんだが――これを、受け取ってほしい」
私が頷くと、私の左手の薬指に翡翠のあしらわれた指輪がすっとはめられる。
左手の甲を彼の方へ向けて、私が微笑むと、彼も左手の甲を見せ、微笑む。そこには、琥珀のあしらわれた揃いの装飾の指輪があった。
「すべてが終わって……ようやく、始められる」
「そうですね。これからが、本当の始まり――」
終わりと始まりの小さな儀式のようなもの。
そして、彼と私の人生の本当の始まりを告げる、小さな口づけが落ちた。




