29.溶けゆく境界
気がつくと、私は屋敷のどこでもない場所にいた。
私は、ビセンテさんの部屋にいたはずだ。ここは、どこだろう?
周囲を見渡しても、現実感のないヴェールを被ったような景色が広がるばかりだ。
(ここで、溶けていくのも――いいかもしれない)
ふと、見上げると夜空のような宵闇が広がっている。
本当に溶けていきそうな闇に、私は――願う。
(本当に、私が忌まわしき魔物のようなものならば――溶けて、消えてしまいたい)
その時、ふっと目の前に光が灯る。
「――アリーチェ」
懐かしい声がした。八年前に聞いた、あの声。
「おばあ……さま……?」
光の中で、在りし日のお祖母様が――凛とした声と姿で、微笑んでいる。
そして、お祖母様の隣には、私の姿によく似た水色の髪に、翡翠の瞳をもつひとりの女性が佇む。
「アリーチェ、取り込まれてはだめよ。あなたのその瞳は――魔物などではありません。言ったでしょう? 誇るべきものと」
お祖母様が微笑みながら、呟く。その目は少し――寂しそうだった。
そして、光の中から、お祖母様の手が伸び、私の肩を抱く。
「アリーチェ。顔を……よく見せてちょうだい」
私は、少し背の高いお祖母様の視線に合わせ、顔を上げると、お祖母様の顔がほころぶ。
そして、ふっと哀しそうに、声を落とす。
「わたくしが世を去る時……あなたと、ミレイアが心配だった。わたくしが……世間から守りきれなかったばかりに――ミレイアは、取り込まれてしまった。しかし、彼女のしたことは……許されない」
その言葉に、私の脳裏で母からの仕打ちが駆け巡り、胸が締め上げられる。
視線を落とす私に、お祖母様は続ける。
「アリーチェ、あなたの一番近くにいる人を、信じなさい。――大切な人が、できたのでしょう?」
私は、少しだけぼうっとして頷く。
お祖母様は、隣にいる女性へ視線を向け、静かに話す。
「――あまりに似ていて、驚いたでしょう? この方は、わたくしの祖母……エレノア」
静かに、――エレノア様が微笑む。
やっぱり。この方が……追放された王太女。私の――ご先祖様。
私を鏡に映したかのような姿のエレノア様。彼女が静かに話す。
「――アリーチェ。翡翠の瞳を継いだ子。私は――ずっとあなたを見守っていました。ここにいるエウフェミアと共に」
その時、ふっと淡い茶色の髪をした――僅かにアウレリオ様の面影を残した女性が、エレノア様の隣に姿を現す。
「エレノア……様? そして、あなたは……ルチアーナ……様?」
ふたりは頷く。そして、ルチアーナ様が、沈痛な面持ちで告げる。
「あの日――義母が話していたのを聞いた。私たちの亡くなった母より……後妻である義母を愛していたお父様は、義母の言う通りに――姉と私を王家から追い出し、妹の……デルフィーナが王位を継いだ。でも、お父様は知らなかった。デルフィーナは、お父様の子ではないと。あの子は――義母と、当時の宰相の間の子だったの……!」
ふっと闇の中に王城が映し出される。見えたのは、王妃らしき女性と――愛を囁く、男性。
それを見て、ルチアーナ様は震える声で続ける。
「お父様が身罷られて、デルフィーナが王位を継ぎ……しばらくして、『翡翠の瞳は、災いを呼ぶ』と言われるようになった」
「……それで、私は……」
私は――自分の目に触れた。
かつての母の声が、突き刺すように聞こえてくる。
私の口は、震えながら、声を落としていた。
「やっぱり、私は――翡翠の、瞳は……」
ルチアーナ様が首を静かに振り、私に手を伸ばす。彼女の微笑みは――アウレリオ様によく似ていた。
そして、ルチアーナ様の声と――彼の声が僅かに重なって響く。
「アリーチェ、翡翠の瞳は――忌まわしきものなどではない。誇り高き色です」
私の脳裏に、彼と出逢ってからの日々が走り抜ける。まるで走馬灯のように。
エレノア様が、静かに語りかける。
「私の血を引くあなたと、ルチアーナの血を引く彼が巡り合ったのは――おそらく終わらせるため。そして、新たな始まりのため。だから――消された歴史に、光を当てて」
「できるのでしょうか――私たちに」
ルチアーナ様が微笑む。
「いいえ、全てを明らかにするのは――あなたたちにしかできない」
そして、お祖母様が私に問う。
「アリーチェ、あなたは、どうしたい? わたくしたちと共に行く? それとも――信じて、生きる?」
一瞬答えに詰まる。しかし、ルチアーナ様の声に重なって聞こえた彼の声が、私を呼ぶ。
私は、ぎゅっと手を握り、ゆっくりと頷く。
「――生きます。どのようなことがあっても。翡翠の瞳と、彼と共に」
私の声に安心したかのように三人は微笑み、少しずつ光の粒子となって溶けていく。
そして、三人に誓うように、話しかける。
「……もう迷いません。全てを明らかにして――終わらせる」
私の目の前に光が爆ぜたように広がり、思わず目を閉じる。
暖かい風が私を包み、ふっと意識が溶けてゆく。
「――アリーチェ?」
聞き慣れた、一番安心する彼の声が響く。
導かれるように、声のする方へ私は流される。
次に目が覚めた時は、私はもう迷わない。
開かれる私の視界に、揺れる琥珀の瞳がうっすらと映った。




