第三十七話 エンドロール
野々宮は、机の引き出しをゆっくりと開けた。中から、薄い一冊の冊子を取り出す。時折ページが折れているその台本は、丁寧にビニールのカバーに包まれていた。
「……あれ、心中姫の台本じゃん! あんなに破られて捨てられたのに、まだ残ってたんだな」
辻村が身を乗り出して目を丸くする。野々宮は首を横に振ってどこか誇らしげに微笑んだ。
「捨てられたのは、あくまでも天井の展示台本さ。他の生徒も持ってることあるだろうし。これは僕が持ってた、別のバージョン」
そう言って野々宮は、台本をゆっくりと机の上に置いた。
辻村が手に取ると、表紙の隅に小さく《リモート朗読版/2020》と書かれている。
「……あれ、これって……もしかして」
「そう。あの年、演劇ができなかっただろ? コロナで。だから僕が、リモート用に朗読劇として再構成したんだ」
野々宮の声には、少し照れたような、でも誇らしさもにじんでいた。
「リモート版か」
「朗読劇にしたんだ。セリフは、オリジナルのまま。流石に自分の思いを混ぜ込むのは原作冒涜になるからな……門倉先生みたく、そんなことはしない」
辻村は「はいはい」と言いながらパラパラとページをめくった。確かに、内容は以前と変わらない。姫と王子の出会い、反対される恋、そして来世に託された希望――
「……だからお前がここまでして残した理由って、なんだ?」
野々宮は少しのあいだ黙って、窓の外に目をやった。遠くでは部活を終えた生徒たちの笑い声が微かに聞こえていた。
「……僕もエゴだ」
声が少し震えている。
「琥太郎に、また会えるなんて思ってなかった。だけど――再会できた時、この劇をもう一度一緒に演じたら……ジンクス通り、今度こそ僕らは結ばるんだ、そう思って」
野々宮はそっと手元の台本を撫でるように見つめた。
「そのためには、続けることが必要だった。どんな形でもいいから、“心中姫”を……絶やさず残すことが」
辻村はエッと野々宮を見たが野々宮の顔は真剣そのものだったがすぐ柔らかい表情に戻る。
「でも僕らは……大勢には祝われない関係だ。だからこそこの劇のジンクスの力を信じなかった……」
「……ん? もうジンクスの力借りなくていいよ。時代は変わりつつある。それにまたこうしてこれからも仕事を共にしようとしてるじゃないか」
辻村がそう言うと野々宮はブワッと我慢していたであろう涙が溢れ出た。
「……だといいな」
二人は見つめ合って笑い合った。
「来世ではなく、今世で幸せになる……俺らは」
「うん……」
二人は台本の上に手を置き握りしめた。
辻村は少し口元を緩めた。
「……お前、意外とロマンチストだな」
そう言いながらも、目を逸らすことなく野々宮を見つめていた。
言われた野々宮は、顔を真っ赤にして俯いた。
廊下の奥、職員室のガラス越しに、野々宮と辻村が笑い合っているのが見える。
扉の前に立っていた希菜子と葵は、顔を見合わせた。
「……どうしよう、入りたいんだけど」
「しばらくは無理だね」
と職員室を後にした。
「あのまま放っておいたらキスするのかな」
「いや流石に学校では……ハグとか」
「葵……あんたも考えちゃう?」
「んまぁ……」
と話しながら手に持っていた提出物のノートはどうするか悩む2人。
「でももう心中姫はやらないみたいだしね。衣装も焼いちゃったし」
「節子さん次の劇の台本書くってノリノリらしいよ、演劇部の子から聞いたわ」
2人は心中姫に関わっていただけあってやはりなくなるのは少し辛いものもあった。
「……じゃあもうあのジンクスはなくなるのね」
「てことだよね」
すると希菜子は立ち止まった。
「なら作ればいいのよ、また」
「えっ?」
「……心中姫も偶然を装って裏で色々してたじゃない。マッチングやらもともと恋人だとか」
「だよね……ジンクスなんだか……」
ふと窓から見えるバスケットコート。葉が落ちて風に舞っている中、数人の男女がバスケをしている。
「2人きりでバスケをしたら結ばれる」
「……そんなの誰でも簡単だよ」
「んー、何時何分……夕方、誰にも見られず?」
2人は色々考えるが会話が途絶える。
「……結局、“心中姫”を超えるジンクスなんてないんだろうね」
「うん……きっと、あれはあの劇だからこそ、だよ」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
けれど葵の胸の奥には、まだあの舞台の幕が下りきっていないような感覚が残っていた。
バスケをしていた龍弥の背中、夕方の光に溶けていった笑顔――それらは今も鮮やかに焼き付いている。
葵は龍弥が好きだった。
「ねぇ、……本当のジンクスって、きっと形じゃないんだよね」
「形じゃない?」
「うん。忘れられない記憶とか……人の心に残るもの。そういうのが、一番強いのかも」
二人は何も言わず、その光景を眺めていた。
葵の胸に、龍弥と過ごしたあの日の記憶がよみがえる。
夕暮れの中、額にかかる前髪を手で払い、照れくさそうに笑った龍弥の横顔。
ボールを受け取るときに、ほんの少し触れた指先の温もり。
――自分は、彼が好きだった。けれど、あっちはどう思っていたのかなんて、もう分からない。
分からないままでも、いい。
彼と過ごした時間は、嘘じゃない。もう前を向こう。
葵は小さく息を吐き、階段へと歩き出した。
終わり




