第三十三話 滅却
野々宮も辻村も言葉を失った。
二十年も続いていた演目「心中姫」の脚本家が、目の前にいる田所節子だったとは――。
「節子は高卒だが、懇談会やPTAの集まりの時に話していて彼女には文才があるとすぐにわかった。家から出られないのなら、小説や詩を書いてみたらどうかと、わしが勧めたんだ」
信作が懐かしそうに言う。
「でも当時は……義父母もいて、子供の勉強は親が見ろとか干渉がひどくて。家で書くなんて、できるわけないって自分に言い訳してました。……でも、あの時だけは違った」
節子はゆっくりと手にした一冊の台本――初演の『心中姫』の表紙に触れ、目を閉じた。
「……この物語だけは、不思議と止まらなかった。言葉が溢れてそして流れ出すように……。私は徹夜しながらも誰にも言わずに、ただ書いてた。家事をしながらも頭に思い付いたらメモをとり……。あの頃、私にとっての感情の吐き出す方法だった」
その声音には、封じていた感情が滲んでいた。
「一番つらい時期だった。信作さんと……惹かれているのが自分でもわかってて。学校に行き……PTAの集まりと言って……短い時間でも愛を紡いでいった。絶対にいけないってわかってたのに、止められなくて……」
「……もう終わらせなきゃって毎日思って、それでも翌朝にはまた会いたくなる。そんな日々が続いて……気づいたら、この物語になっていたんです」
言葉を重ねるたび、節子の目には涙が浮かび始める。
「『心中姫』は、そういう話なんです。愛しちゃいけない人を、それでもどうしても愛してしまった……逃げられなくて、壊れるまで求め合ってしまった人たちの話」
信作がそっと立ち上がり、節子の肩に手を添えた。
「……でも、結末を書いたとき、少しだけ楽になったんです。せめて物語の中で終われるなら、現実にも区切りがつけられるんじゃないかって。……そう思ったんです」
台本を強く握る。
「信作さんとはもう駆け落ちも同然でした。着の身着のままで……あのときは幸せでした」
節子は目を閉じて、あの日々をそっと思い出すように語った。
「『心中姫』以外に、何か書かれたんですか?」
辻村の問いに、節子は小さく首を振った。
「あれ以降はその日を生きるだけで精一杯で……物語を思いつく余裕もなかった。でも……この話の中では、生まれ変わって幸せになるって……信じてた。信じたかった」
ぽろぽろと、涙が頬を伝う。
「用務員室に、二つ写真があったでしょう? 互いの子どもの写真。……駆け落ちの際に互いに慌てて持ち出した写真……」
辻村は思い出す。確かに、そこに飾られていたのは、あまりにも幼い頃の写真だった。
「前の夫は酒に溺れて……癌で亡くなって。娘は……転校後に、自ら命を絶ったそうです」
信作がそっと節子の背を支える。
「わしも……離婚のあと、元の妻が大病を患って……息子は相当苦労したと聞いた。支えてやるべきだったのに……仕事も安定せず、ようやく腰を落ち着けた旅館も震災で流された。命からがらで……」
そして、ふっと顔を伏せた。
「元同僚のつてで住み込みの用務員を探してるって聞いて……戻ってきたんだ。この学校に」
なんという数奇な運命だろう――一同は言葉を失った。
「知っている先生方ももういない。わたしたちも……容姿が変わるほど苦労した。誰にも気づかれずにいられると思っていたんです」
そして節子は、ゴミ袋や衣装たちを見てぽつりとこぼした。
「驚いたんです……まさか、続いていたなんて。『心中姫』が……」
かつて、自分たちの過ちの象徴だった台本が、今や学園祭の伝統演目になっていた。その皮肉と驚きに、節子は目を潤ませる。
「台本は置いてこざるを得ませんでした。でも、残った人たちがなぜか引き継いでくれた……そしていつしか王子と姫を演じた二人が結ばれるなんて……ジンクスまで。まぁある意味私たちも一緒にいられていますが不思議な気持ちでした」
辻村は台本を見つめながら、呟いた。
「……この作品が、ただの演劇じゃないってこと、やっとわかりましたよ」
そして、そっと隣の野々宮を見る。彼はなおさら、深い衝撃を受けていた――その胸の奥に、複雑な感情が渦巻いているようだった。彼は教師になってから姫と王子になる人を導いて来ただけに。
「……そしてそれから去年までまた長く続いて……まさか最後は……心中に見立てた事件なんて……こんなの書かなければ……二人は死ななかったのに」
とうとう節子は膝から崩れ落ちてしまった。
「節子さん……でもこの作品は本当に素敵なんです。僕は……そう思っています。だから僕はなんとしてでも残したいと思っていた……」
「野々宮先生……あなたは優しい人ね本当に……こんなダメな人間たちの情けない物語を受け継いでくださってたなんて……」
信作も項垂れる。
「人間味があって……僕は良いとはおもってましたよ。姫と王子が……親たちに反対されても他の人たちが祝福してくれた、そして来世になって蝶となりみんなの前で舞うところ……それらは……お二人の願望でも合ったのでしょう。僕はこの台本を読んで……この書いた人はきっと……僕らと同じだと勝手に……」
野々宮がそう言ったことを辻村が黙って見ている。
「僕ら……?」
そこに反応した節子は顔を上げる。
「いえ、なんでもありません……」
野々宮はメガネをあげて黙った。節子は持っていたティッシュで涙と鼻水を拭く。そして立ち上がる。大丈夫ですか? と声をかけると大丈夫よ、と返ってくる。
「それよりもこの子達にも悪いことしちゃったわね……ごめんなさい。確か和菓子屋の娘さんとそのお友達よね」
と節子は希菜子と葵に声をかけた。
希菜子は涙を拭い、葵に支えられて立ち上がった。
「……私もこの劇はすごく好きでした……でも未練はないです。思い出であることは間違いはないです。お二人の好きなように……してください」
と希菜子が言う。
「私も……でももう忘れたい。これで終わりにして欲しい」
葵も目を真っ赤にして言う。
生徒二人がそこまで言うとなるとどれだけ大人たちが彼女らを傷つけたのだろうか……門倉や藤守の件といい、大人たちの私欲で生徒たちの心を傷つけてしまっている。
「さっさと終わらせよう……」
節子と信作は頷いた。
信作が焼却炉の扉を開き、節子が破れた台本の束をそっと中へ入れる。その手には、未練と決意が混ざっていた。さっきまではゴミのように袋に入れてはいたが雑に扱わず入れていく。
そして以前ここで焼却をしていた信作はその当時のように手慣れたように火をつけ燃やしていく。
野々宮は希菜子たちにもう戻りなさいと声をかけたがまだいるといい、火を見つめていた。
節子は最後に自分が持っていた台本も燃やした。
「去年演じる予定だった台本はご覧になりましたか?」
野々宮が聞くと
「展示のものを見たわ。題名をひらがなになってたし、最後の方のセリフも違った……」
どうやら改変には気づいていたようだ。
「毎年演出が変わるのは別になんとも思わなかったけど……去年のはどうしてもいただけなかったわ」
と言う節子に
「前、とんだ幕引きだと言ってましたよね」
と辻村は覚えていた。
「……真相はわからないけど……あの頃ぐずぐずとしていて別れの決断できず結局バレたあの頃のように……ぐずぐずしてたからこうなってしまったのよね。さっさと燃やせばよかった。終わらせればよかった……」
「……俺もそう思いますよ。あと節子さんが自分で書いたといえば……だったら次の作品を……だなんて言われたかもしれませんし……」
辻村がそう言うと節子は笑った。信作は焼却炉の前でうずくまってずっと泣いていた。
そしてそれらを後ろで見ていた野々宮も……涙を流していた。




