387話
不意に――名を、呼ばれた。
この街に来て、一度も名乗っていない自分の名前。
わずか一拍……その一拍は、刃を喉元に突きつけられたかのような、濃密な静寂だった。
次の瞬間、空気が裂けると、ミコトは反射的に地面を蹴っていた。
乾いた衝撃音と同時に、砂埃が舞い上がる。
瞬きほどの刹那で、三歩ぶんの間合いを奪い去り、体勢はすでに低く沈んでいた。
そして、両手は次の動作へ移っていた――抜刀。
鞘走りの鋭い金属音が、遅れて周囲の鼓膜を打つ。
抜き放たれた二振りの刀身が陽光を反射し、二筋の冷たい光が交差する。
切っ先は一寸たりとも揺れないまま、真正面のリゼを捉えていた。
その眼光は、獣のそれと同じだ。
黒目の奥に沈むのは、理性ではなく、戦人の本能。
研ぎ澄まされた警戒が宿りながらも、浅く短い呼吸。
鼓動は爆発寸前まで高まっているのが、離れていても分かるほどだ。
いつでも踏み込み、斬り伏せられる構えに、周囲のざわめきが、一瞬で凍りついた。
往来の音が、嘘のように消え、誰かが喉を鳴らした小さな音さえ、やけに大きく響いた。
「なぜ、拙者の名を知っている!」
怒号が叩きつけられると同時に、目に見えぬ圧が放たれた。
皮膚の上を針でなぞられるような殺気、背骨を直接握られたかのような威圧。
近くで談笑していた冒険者たちの顔色が、一瞬で血の気を失う。
通りかかっただけの人は、恐怖を感じたのか悲鳴を上げた。
「や、やばいぞ!」
「離れろ!」
人の流れが、潮が引くように一斉に後退した。
押し合い、転び、怒号と悲鳴が混じり合う。
数秒で円を描くように空間が生まれた。
空間の中心に残されたのは、両手で刀を構え、いつでも斬り込める態勢を保っている侍と、自然体で立っている小柄な冒険者。
あまりにも対照的な二人。
戦闘が始まる――誰もが、そう確信した。
だが、リゼは動かなかった。
両手の掌をゆっくりと見せ、敵意がないことを示す。
肩の力を抜き、足の位置も変えない。
わずかな重心移動さえ、相手を刺激しかねないと理解している。
だが、油断をしているわけではない。
切先の角度、手首や指の力具合、足にかかる力の偏り。
ほんの一瞬でも踏み込みの兆候があれば、即座に反応できるよう、視線を固定していた。
これほどの殺気を放たれたのは、いつ以来だ……と頭を過ぎるが、別事を考えていられるほど、目の前の相手は優しくはない。
「そっちこそ、どうして私の名前を知っているの?」
挑発も怯えもない、その声は感情が乗っていないかのように平坦だった。
その異様ともいえる落ち着きが、かえってミコトの眉をひそめさせる。
普通であれば震え、逃げ叫ぶはずだ……だが、目の前の冒険者は、こちらの殺気をものともせず、平然と立っている。
自分の常識を覆すリゼを警戒しながら、頭の中に”強者”という言葉が浮かぶ。
心の揺らぎを察しられないように、こちらも余裕を見せて、受け答えするべきだ……と、ゆっくり、そして冷静を装い、リゼの質問に答える。
「お主の名は……金なんとかというクランで聞いた。なんでも、お主を倒せたら、その、金なんとかの猛者と戦わせてくれるそうだ」
言い淀むような呼称……その不釣り合いな曖昧さが緊張の雰囲気を一変させた。
周囲の何人かが苦笑を浮かべ、小さく息を漏らす。
金なんとかとは、金狼のこと――事情を察した者たちは、目配せを交わした。
(なるほど)
(あぁ、そういうことか)
(厄介者を他所へ回し、面倒を押し付けただけか)
言葉を聞いた誰もが理解した。
リゼの脳裏にも、以前耳にした評がよぎった。
(――真っ直ぐな性格。だが裏を返せば、それしか見えなくなる)
目の前で、今にも襲い掛かろうとする侍は、まさにその評を体現しているようだった。
騙された……厄介払いされたことさえ気づかず、金狼の冒険者からの言葉を真に受けて、ここへ来たのだろう。
「バーナム曲芸団の人たちが、心配していましたよ」
その名が出た瞬間、再び空気が変わり、ミコトの瞳が鋭く揺れた。
刀は下がらないが、殺気の質が変わる。
怒りから疑念へと――。
「……お主、何者だ」
先ほどよりも発せられる低い声は、なにかを探る響きが混じっていた。
リゼは静かにアイテムボックスへ手を入れる。
周囲がどよめくが、リゼは気にすることなく、その動きはゆっくりだった。
取り出したのは、勾玉の首飾り。
それを、掌に乗せて見せた。
「それは……」
ミコトの声は掠れ、その目は大きく開き、呼吸が止まる。
バーナムから聞かされていた言葉が蘇る。
(――勾玉を見せれば、信用される)
その言葉に間違いはなかった。
ミコトの握っていた刀の切っ先が、わずかに下がった。
緊張で張り詰めていた肩が、目に見えて落ちる。
握り締めていた柄を緩め、やがて二振りの刀は静かに鞘へと収まった。
鞘に収まった時に聞こえた鋼の音が、この場の終息を告げた。
同時に、リゼの視界の端に淡い光の文字が浮かぶ。
――サブクエスト達成。
誰にも悟られぬよう、リゼは瞬きすらしない。
ここで不自然な反応をすれば、再び疑念を呼ぶ。
何事もなかったかのように、ただ静かに勾玉をアイテムバッグに仕舞う。
ミコトから確かに、一定の信頼は得たと確信した。
「ご迷惑をおかけしました」
状況を終息させるため、周囲へ向けて、深々と頭を下げる。
騒然とした空気はまだ残っている。
遠巻きに様子を窺う人々、誰かが衛兵を呼びに走っていてもおかしくない……いいや、すでに連絡を終えているかも知れない。
アンジュも、すぐに状況を理解したのか、二人の間に入り込む。
「すみません。少し、誤解があっただけです」
優雅に一礼する。
だが視線は鋭く周囲を観察していた。
そして……有無を言わせぬ手つきで、ミコトの袖を掴んだ。
「ちょっと、こちらへ」
先ほどまでの凛々しい侍の面影はなく、力の抜けたミコトは抵抗もせず引かれていく。
ざわめきの残る往来を背にしながら、まるで叱られた子どものように、銀翼館へと連れ込まれていった。
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■リゼの能力値
『体力:四十八』
『魔力:三十三』
『力:三十三』
『防御:二十一』
『魔法力:二十六』
『魔力耐性:十三』
『敏捷:百四十三』
『回避:五十六』
『魅力:四十八』
『運:六十一』
『万能能力値:零』
■メインクエスト
■サブクエスト
■シークレットクエスト
■罰則
・闇属性魔法”ドレイン”の消去
・身体的成長速度停止。期限:一生涯
・恋愛感情の欠落。期限:一生涯




