宣戦布告は唐突に
気づいたときには、俺の体は動いていた。
小熊さんが転んだ刹那、すでに行動に移していたのだ。意外と頭の芯は冷えていたらしい。
痛!
何とか間に合った。俺が懸命に伸ばした右手がボールを捕らえたが、威力を受け止めきれずに弾き、手の筋に激痛が走る。
転がるボール。
呆然と目を見開く敵。
静まりかえる応援。
恐る恐る目を開けた小熊さん。
勢いあまって泥に突っ込む俺。
先ほどまでの盛り上がりが嘘のように、時が止まった。
「パンダくんっ」
彼女が無事で良かった。俺は自分の持ちうる最大級のやせ我慢を披露した。
「大丈夫だよ」
涙目の小熊さんからさっと指を隠したのはとても見せられる状態ではなかったからだ。血が滲んだと思ったら、中指の爪が割れていた。
「すみません、ちょっと保健室に行ってきます。どうぞ、続きを」
俺は急いで立ち上がり、手の痛みと居たたまれなさも手伝って人生最速の駆け足でグラウンドを去った。
「痛い痛い痛い痛い痛い……」
呪詛を呟きながら俺は走る。
泥だらけのまま恐縮だったが、外から保健室のドアを叩いた。
「あら、久しぶりねぇ」
三上先生が相変わらず麗しい姿で俺を迎えてくれた。
保健室に入り、熱を持った手を洗い、消毒液に耐え、じんじんする中指に包帯を巻いてもらった。握り拳が作れないくらいの痛みだ。
「病院に行ったほうがいいわ。早退する?」
「いえ、大丈夫です」
痛いがまだ帰れない。
試合はどうなったのだろうと窓辺によると、頬にまで泥をつけ、肩で息をする小熊さんの姿があった。
「パンダくん、大丈夫だったっ?」
「うん。これくらい平気だよ」
三上先生に余計なことを言われるのも困るので、俺はお礼を言って保健室を出た。本格的に降り出した雨に、グラウンドの生徒は散り散りになっている。
「ごめんね、わたしが転んだりしたからっ」
「きみが無事で良かった。俺、それだけはどうしても嫌だったんだ」
彼女を庇ったのは全くの無意識だ。そしてこの言葉も。
未だ少し動かすだけで激痛の走る右手のおかげか、恥ずかしげもなく俺は恥ずかしい言葉を口にしていた。
途端に彼女の顔が「え? え?」と赤くなった。
失言だったかな。だけど出してしまった言葉はもう呑み込めない。
「あー、えっと、試合はどうなったの?」
せめてスルーしてもらおうと強引に話の流れを捻じ曲げた。小熊さんもはっと我に帰る。
「勝ったよ! アニマルクラスの優勝!」
「そっか。やった」
俺は左手、小熊さんは右手でハイタッチをした。
とりあえず下らないことを画策した教師陣に一矢報いたわけだ。
「そうそう。これからすぐね、体育館で男子バスケの決勝だって。体力的には不利だけど、今の勢いなら勝てるかも」
「じゃあ忠弥たちの応援に行こっか。……泥を落として」
互いの姿を見て頷き、俺たちは花壇の脇に設置してあった水道の栓を開けた。
「あのね、パンダくん、本当にありがとう」
改めてお辞儀をする小熊さんに、俺は苦笑い。彼女は小さな手を胸の前で組んで、言いにくそうに口を開く。
「なんかね、さっきのパンダくん、ちょっと、ううん、かなり格好良かったのー。クラスの女の子もね、見直したって言ってたよ。あ、見直したって言うのは別に普段のパンダくんが駄目なんじゃなくて、意外と男らしいんだって印象が変わったみたいで、いや、意外っていうのも失礼かなぁ?」
しどろもどろになりながら、小熊さんは一生懸命伝えてくれた。嘘偽りのなさそうな言葉に俺は感動していた。
先ほどの無意識の行動のおかげで、彼女の俺への評価が結構上がったらしい。
俺の視線が気になったのか、俯いた小熊さんは顔を赤らめた。
「と、とにかくわたしね、パンダくんに助けてもらって嬉しかったの。ちょっと、ドキドキしちゃった」
小熊さんに頬染めて上目づかいで見つめられたら、どうにかなってしまいそうだ。こっちの方が何百倍もドキドキしている。
「でね、あの、わたし、パンダくんと……」
期待してもいいだろうか。
凄く素敵なことが起こりそうな予感。
「お眠なのー……むにー」
「は?」
いい予感ほどあっさりと裏切られるものらしい。
小熊さんの体は力を失くして今にも倒れそうだった。慌てて抱きとめてしまってちょっと焦ったが、幸か不幸か彼女はすでに夢の中に旅立っていた。恨めしいほどの健やかな寝顔。
このデジャブ、まさか。
「パンダごときに熊ちゃんはもったいない」
振り返るとそこには思った通り、よろりがいた。にやにやと嫌な笑みを浮かべている。
「……何の用ですか? これからバスケの試合観に行かないといけないんですけど」
「まだ間に合うぞ。全員泥だらけで着替え中だからな。それよりもお前に話しておかねばならんことがあるのだ」
小熊さんを抱きかかえたままの辛い体勢で、俺はよろりからの言葉を聞く羽目になった。右手がかなり痛むんですけど。
「我輩はあの遠足の日から何度もお前の夢への侵入を試みた。しかし腹立たしいことに悉く失敗しているのだ。何者かの加護が働いているらしいな。お前に一体どんな価値があるのかは眩しくてよく見えぬ。あの光は我輩のような悪魔には少々辛い。胸糞悪いことこの上ないが、さすが珍獣パンダ」
よろりが俺の知らないところで俺の夢に侵入しようとしていたなんて、考えただけで気色悪かった。
でもパンダは関係ないと思う。絶対ない。
「しかーしっ! 我輩は負けないからな。必ず最後にはお前を跪かせてやる。そして主に褒めてもらう。首を洗って待っているんだな。フハハハハハ!」
大魔王のように盛大に笑ったよろりは、くるりと背を向けて行ってしまった。
ようするに宣戦布告に来たらしい。それとも小熊さんといい雰囲気になりそうなのを邪魔しに来たのか。 どちらにしろムカつく笑い声だ。
よろりが最後に思い出したように大きく手を叩く。
「はっ、あれ、わたし……?」
小熊さんが目を覚ました。素早く腕から解放したが、その前に彼女の顔は溶ける寸前の鉄ほどに赤くなっていた。
「ああ、あの、なんか、立ちくらみしたみたいだよっ? 大丈夫?」
「え、あ、うんっ! だ、だだ大丈夫。わたしったらどうしたのかな? 疲れてるのかな?」
視線を合わせられず、俺たちは非常にぎこちなく自らの精神の安定のための口裏を合わせた。
「体育館に急ごうか。もう試合始まっちゃってるかも」
「うん!」
小熊さんの笑顔を見ていると嫌なことは全て忘れられた。
よろりがどのような手段を用いてきたとしても、俺は絶対に屈しない。
俺はようやく気づいた。
素敵な高校生活からは随分遠ざかっていたが、目の前にこんな素敵な女の子がいるのだから諦めるべきではないのだ。
俺に特別な力があるとは思えないが、人間必死になれば、格上の相手にだって勝てる。
あんな愉快犯の思い通りにはならないぞ!




