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雨音はささやく

 俺はどちらかというと雨が好きだ。

 泥が跳ねるのも、ズボンの裾が濡れるのも、ノートが湿気るのも厄介には違いないけれど、どこかアンニュイでゆったりとした空気が人間の血の気を少なくしてくれる気がするのだ。


 雨の粒が窓を打つ音を耳にしながら、俺はうとうと舟を漕ぎ始めた。

 行き先は快適な夢の世界。


 ダメだ、今寝たら大変なことになる。だけどこの誘惑には逆らえない。うわあ、誰か助けてくれ。


「いい度胸だな、パンダ」


 まどろみに身を委ねかけたそのとき、背筋に寒気が走った。


「我輩の授業で眠りこけるとは、よほど退屈だったらしい。それとも何か? 夜眠れない悩みでもあるのか? 我輩が相談に乗ってやらんこともないぞ。対価としてその命を払ってくれるのならば」


 滅相もございませんと俺は首を横に振った。

 冗談じゃない。よろりが命を払わせるといったら本当に取り立ててくるに違いない。


 結局俺は一発ギャグで教室を真冬にするまで許されず、精神に大やけどを負った。隣でくすくす笑う猫田さんを睨みつけたくてしょうがなかったが、またよろりに難癖をつけられても困るので自制した。


 春の遠足から一か月が経ち、制服も夏服に変わった。

 念願の席替えも行われたが、何の因果かまたもや猫田さんの隣の席だった。

 嫌なわけじゃないけど……ちょっと怖い。


 一学年全員がハイキングの途中で眠りこけたという前代未聞のニュースは、学園サイドが物凄く頑張って隠ぺいしたらしく、ワイドショーに流れることはなかった。しかし参加した生徒の記憶には残っているので、一週間くらい様々な憶測が飛び交い、生徒たちを興奮させた。


 宇宙人の催眠光線だとか、頭がイカレた博士に実験されたとか、全員が別の次元に迷い込んでしまったとか定番のネタが転がりまわった結果、「不思議なこともあるもんだ」と自分自身を誤魔化すことで落ち着いた。

 どうやらみんな肝心な部分の記憶があやふやらしい。


 誰にも真相など分かるまい。俺でさえ未だに納得していない。


 まさか夢を司る悪魔・よろりが遠足に嫌気がさした猫田さんのために生徒たちを眠らせました、などそう簡単に受け入れられる答えではない。


 ある日、俺は猫田さんと密談する機会を得た。


「私の家は代々そういう家系なのよ。小さい頃から悪魔や魔人がよく遊びに来てた。よろり先生と出会ったのは一年前ね。夢の中だった。ちょっと人間の男の体を手に入れられそうだから、一緒に楽しいことしないかって誘われたの」

「そんなナンパみたいなノリなんだ……」

「そう言われればそうね。よろり先生も私の美貌を気に入ってくれたそうだし」

 

 猫田さんはくすりと笑った。

 俺は恐る恐る遠まわしに尋ねた。

 よろりがどんな夢魔なのか、何か生徒たちに不埒なことはしていないか。


「たくましい妄想力ね。でも安心して。先生、繁殖や性欲にはあんまり興味ないみたいよ」

「ぶっ」

「それより小動物をモフモフしてる方が幸せみたい」

「あ……動物好きなのは本当なんだ」

「当たり前じゃない。私がアニマルクラスなんてものを考えて実行させたとでも? 全部よろり先生がやりたくてやってることよ」


 そこは止めてほしかったな、猫田さん。

 俺の苦々しい心境をくみ取ったのか、猫田さんはそっと耳打ちした。


「よろり先生に感謝すべきじゃないかしら? アニマルクラスがなかったら、私にも彼女にも出会うことすらできなかったのよ?」


 吐息が耳に吹きかかったこと、『彼女』という意味深なワードが出てきたこと、その二点に俺はびっくりしてしまった。


「なんにせよ、私は今の学園生活に満足してるわ。面白いおもちゃも手に入ったし」

「それは……俺のことでしょうか?」

「さぁ? 私たちのこと内緒よ? まあ、話しても誰も信じないでしょうけど。もし喋ったら、即この世から退場ね。お返事は?」

「……はい」


 鈴を転がすような猫田さんの声に、内心湧き上がる怒り。

 騙された。

 猫田さんは猫を被っていました。


 彼女がただの大人しい才女ではないことくらい、俺にだって分かっていた。だけどさすがに悪魔を手駒に周りの連中で都合のいいように遊ぶような魔女だとは思いもよらない。


「性格の良い美人なんて、嫌われるだけよ。性格の悪い美人は釣り合いが取れてるから愛される」


 自分の容姿が他人にどういう評価を下させるか分かり切っているらしい。猫田さんは自らを「性悪」だと認めた。

 そう言う自覚があるのなら悔い改めて、これからはその才知を生かして多くの人々を救ってくれないかと思う。少なくとも彼女が一言よろりに命令すれば、アニマルクラスが立たされた逆境を緩和することも容易なはずだ。


「そんなの、つまらない。私、まだまだ楽しみたい」

「だけど他の人に迷惑をかけるのは――」

「いいじゃない。面白ければ」


 唇を尖らせて拗ねる猫田さんに、俺はそれ以上何も言えなかった。というよりも俺ごときが何を言ったところで、彼女は聞く耳を持たないだろう。真の敵がこんな見目麗しい姿で近くにいたとは。

 俺はどうすれば猫田さんがよろりを改心させてくれるかで、近頃悩まされていた。


 このたぎる使命感はどこから来たのだろう。


 やはりよろりの正体と影の支配者を知ってしまった以上、どうにかしてアニマルクラスを悪の手から解き放つ方法がないかと模索してしまうのである。考えるだけならば誰にでもできるが、この問題について考えることができるのは今のところ俺だけなのだから。


 


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