木村 淳①
主人公である淳視点です。
俺は木村淳。
AI関連企業に勤める、ごく普通の会社員だ。
少なくとも、この日の朝まではそうだった。
この日も俺は同じ時間に家を出て、いつもと同じ電車に乗った。
車内は通勤や通学に向かう人たちで混雑しているし、座席なんてもちろん全部埋まっている。
車内が揺れるたびに隣の人の肩が触れそうで少し気を遣う。
俺は片手で吊り革を握りながら、もう片方の手に持ったスマートフォンで暇つぶしにニュースを眺めていた。
何も変わらない……平凡な1日が始まると思っていた。
「この人、痴漢です!」
会社の最寄り駅に間もなく到着しようとしていたその時……俺は突然、腕を掴まれた。
「……え?」
何を言われたのか理解できず、俺は間の抜けた声を漏らした。
気が付くと、制服姿の女子高生が俺の腕を強く掴んでいた。
「な、何?」
「あんた今、私のお尻触ったでしょ!?」
「は……?」
周囲の空気が一瞬で変わった。
それまでスマートフォンを見ていた周囲の乗客たちが顔を上げ始める。
女子高生の悲鳴に近い訴えを聞き、俺の近くに立っていた女性が慌てて距離を取った。
「ちょ、ちょっと待って。俺は何もしてないよ」
「嘘!」
女子高生が声を荒らげた。
「ずっと触ってたじゃないですか!」
「触ってない! デタラメ言うな!」
――まずい。
そう思った時にはすでに、俺は大声を上げていた。
こういった状況で、下手に反論するのは逆効果だ。
なんて頭では分かっていても、実際に遭遇するとそんな冷静な考えは浮かばない。
少なくとも俺は……。
「本当に触ってない。俺はずっと吊り革を――」
「じゃあ、なんで私がこんな嘘つかなきゃいけないんですか!?」
「それは……」
――それを聞きたいのは俺だ。
彼女とは今日初めて会った。
いや、会ったという表現すらおかしい。
同じ車両に偶然乗り合わせただけ……名前すら知らない完全な赤の他人だ。
電車が次の駅に停車する。
「駅員さんに突き出してやる!」
「待ってくれ。本当に俺は触ってなんかいない!」
何度そう言っても、彼女は信じてくれない。
周囲からは軽蔑の眼差しを向けられ、中には野次馬感覚でスマホまで向けている連中もいる。
『痴漢とか最低……』
『あの子、高校生でしょ? 可哀想……』
『ガチの痴漢とか初めて見たわ』
まだ何も決まっていない……何もしていない。
それなのに、自分が犯罪者になったような感覚がした。
◇
俺は女子高生に腕を掴まれたまま、電車から降り、そのまま駅員に突き出された。
「ですから、俺はやってません! ずっと吊り革を握って、スマホをいじってただけです!」
俺は駅員の通報で駆け付けた警察官に自分の無実を訴えた。
何度も何度も……壊れたレコードのように同じ説明を繰り返した。
「あなたが否定していることは分かりました。ただ、相手の女性も被害を訴えています。こちらとしても、双方の話を確認する必要があるんです」
「でも俺は……」
無実を訴える俺に対し、女子高生の主張は変わらなかった。
「電車に乗ってしばらくしてから身体を触られたような気がしました。
最初は偶然だと思ったんですけど……何度も何度も触られて、痴漢だとわかりました。
怖かったけど……勇気を出して、その人の腕を掴みました」
それが彼女の主張だった。
だが俺は、断じて触ってなどいない。
「ですから何度も言ってるでしょう? 俺は右手で吊り革を掴んで、左手でスマホをいじってたって!」
「ずっとですか?」
警官の問いかけに、言葉が詰まる。
「……ずっとかと言われると」
――自信はない。
いくら自分のことだからって……1分1秒ごとに自分が何をしていたか完璧に覚えている人間なんてそうそういない。
――人間はAIじゃないんだ。
それでも……。
「でも、絶対に触ってません」
それだけは断言できた。
しかし、警官は俺に疑惑の目を向け続ける。
あの後、何人かの乗客に警官が話を聞きに行ったらしいが……誰一人、痴漢の瞬間を目撃していない。
それなのに俺の疑惑が晴れない原因は……。
「ひぐっ……」
俺への事情聴取が始まってからずっと泣いている痴漢被害を訴えている女子高生だ。
時々嗚咽まで漏らす、痛々しい姿を見て……警官も駅員達も同情の目で彼女を見ている。
だが俺からすれば、たまったものじゃない。
そもそも泣きたいのはこっちも一緒だ。
――何か、俺の無実を証明するものはないか?
俺は必死に頭を回した……何でもいい!
俺がやっていないことを証明できる何かはないのか?
でもいくら考えても、無実の証拠なんて思いつかなかった。
◇
それから俺はなんとか帰宅を許されたものの、疑いが晴れたわけじゃない。
警察には勤務先や住所、連絡先を伝え、必要があれば改めて事情聴取に応じることになった。
俺は弁護士に相談するつもりだと伝え、重い足取りで警察署を後にした。
「何がどうなってんだよ……一体」
俺は無意識に呟いた。
朝まではいつもの日常が続いていた。
それなのに……。
『この人、痴漢です!』
電車内に響いたあの一言で、俺の平穏な日常が一瞬で崩れ去った。
会社には体調不良ということにして休ませてもらったが、詳しい事情を説明する気にはなれなかった。
――見知らぬ女子高生に痴漢扱いされました。
なんて言えるわけがない……。
だけど証拠がない今……下手をすれば、本当に痴漢にされてしまう。
――これからどうすれば良いんだ。
そう自分に問いかけた時、スマホが震えた。
「奈々……」
画面に表示された名前を見て、胸が苦しくなる。
相手は婚約者である白川奈々(しらかわ なな)。
スマホには、奈々からのメッセージが何件も届いていた。
『今日、仕事だよね?』
『大丈夫?』
『何かあった?』
奈々とは毎日のように、連絡を取り合っている。
内容はどれもくだらない雑談ばかりだが……俺達にとってはそれが日常の一部だ。
でも今日に限っては一切ない……それが奈々の不安を煽ってしまったんだろう。
まさか痴漢容疑で事情聴取を受けたなんて……夢にも思わないだろうな。
「……」
俺はすぐに電話をかけようとして――指を止めた。
こんなことは電話で話すことじゃない。
明日、直接話そう。
――奈々なら俺を信じてくれる。
奈々のことを心から信じている俺は自信を持ってそう思えた。
◇
翌日……俺は奈々と会った。
場所は何度も二人で利用した喫茶店。
向かいに座った奈々は、俺の顔を見ながら不安そうにしていた。
「昨日、本当に何があったの? 連絡も全然返ってこなかったし……」
「ごめん……」
「会社で何かあった?」
「いや……そうじゃない」
俺は一度、息を吸う
奈々にだけは、自分の口から伝えたかった。
「昨日さ、通勤途中の電車で……痴漢したって言われたんだ」
「……え?」
奈々の表情が固まった。
それだけじゃない。
膝の上に置いていた両手が、スカートを握り締めていた。
「知らない女子高生に腕を掴まれてさ……俺に身体を触られたって……」
「淳が……痴漢?」
「ち、違う! 俺は痴漢なんてしてない! 絶対に」
「……」
「警察にもそう話した。向こうは俺がやったって言ってるけど証拠もないし、見ていた人もいない。
まあ、俺がやってない証拠もないけど……。」
「……」
「で、でもさ……弁護士にも相談するし、何か証拠がないか探すつもりだ。 だから安心して――」
「……」
複雑そうな奈々の顔を見て、俺は言葉に詰まってしまう。
奈々にとって、痴漢はトラウマだから。
◇
それは俺が大学2年の頃……俺と奈々は同じ大学に通っていたが、当時はお互いの名前すら知らなかった。
ただ同じ電車を使っている学生……その程度の関係だった。
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ある朝、俺は電車に乗って1人で大学へ向かっていた。
暇つぶしにイヤホンで音楽を聴いていると、同じ車内にいた奈々の後ろ姿が見えた。
奈々の後ろには30代くらいの男性が張り付くように立っていた。
まあ通勤電車は混むものだけどさ……それでも距離が近すぎると思った。
「んっ?」
奈々はスカートの裾を押さえ、何度も後ろを気にしていた。
そして男はスマートフォンを不自然なほど低い位置で持っていた。
――気のせいか?
そう思った次の瞬間、男が奈々のスカートの中に手を入れ、さらにはスマートフォンをスカートの中に差し入れるように動かした。
「おい、あんた」
気づいた時には、男の腕を掴んでいた。
奈々は青ざめた顔で俺を見ている。
「何してるんですか?」
「な、なんだよ!」
「今、この子に触ってましたよね? しかもスマホでスカートの中まで盗撮してましたね?」
「なっなんのことだ!? 言いがかりはやめろ!」
男はその場では必死に否定していたが、奈々が被害を訴え、俺も目撃したことを警察に説明した
その後、警察の捜査によって男のスマートフォンから奈々を含む複数の女性の盗撮画像や映像が見つかり、男は逮捕された。
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そして、駅での騒動がひと段落した頃――。
「本当にありがとうございました!」
奈々は深々と俺に頭を下げて感謝した。
「いや、たまたま気づいただけだから」
正直、少し照れ臭かった。
「でも……あなたが気づいてくれなかったら、私……」
「気にするなって」
それ以来……俺達は電車で顔を合わせれば話すようになった。
やがて大学でも頻繁に会うようになり……食事にも行くようになった。
そしていつからか……俺は奈々が好きになっていた。
「奈々……俺と付き合ってくれ!」
「……はい」
大学3年の夏に俺から告白して、奈々が受け入れてくれた。
社会人になっても関係は続き……去年、俺は奈々にプロポーズした。
『嬉しい……』
泣きながら頷いてくれた奈々を見て、俺も泣きそうになったのを今でも覚えている。
婚約者だから……来年結婚するから……もちろんそれもある。
だけどそれ以上に、奈々だからこそ……俺は胸を張って言える。
――奈々だけは信じてくれる。
◇
「奈々……」
俺は改めて彼女を見る。
「信じてほしい……俺は本当に何もしてない」
「……うん」
思ったより小さな声だった。
「う、うん……わかってる。淳がそんな人じゃないって……私、信じてるから」
奈々はそう返してくれた――。
俺が求めていた言葉だ――。
でも奈々は俯き、テーブルの上に置かれたコーヒーカップを見つめている。
信じてると言ってくれたのに……どうして俺の目を見て言ってくれないんだ?
いや、きっと突然のことで驚いているだけだ。
奈々にとって痴漢は、思い出したくもない過去だからな。
「奈々?」
「な、何でもない」
奈々が俺に笑顔を向けてくれた。
それは何度も見てきた……俺の好きな笑顔だ。
なのに……その笑顔が今はひどくぎこちないものに見えた。
俺の気のせいかもしれない。
だけどその小さな仕草だけが――頭から離れなかった。
次話は奈々視点です。




