30
(おい!よせ!!もう十分だ!!)
ネモの声で我に返った。
完全に息が切れていた。
ひたすらに息を吐きながら、じわじわと頭が回りだす。
目の前の情景を理解するのにしばらく時間がかかった。
「……?」
僕は時田に馬乗りになっていた。
そして左手がまさに彼の頬を殴打したところであり、さらに右拳も振り上げて今にも彼を殴ろうとしていた。
いや、既に何発も、何発も時田を殴りつけたらしい。
彼の顔にその痕があり、僕の手もすりむけていた。
僕は痛む右手を静かに下ろし、ふらふらと立ち上がる。
時田は意識を失っていた。
(……やばいかもしれないぞ)
僕は口元を拭い、ペッとつばを吐き出した。
「どうでもいい」
その時、僕の大嫌いな声がした。
「おい!何をしている!?」
その男は駆け寄ってきて、振り返ろうとした僕を突き飛ばし、時田を助け起こした。
「……気絶している……お前がやったのか!?」
地べたに転がってしまった僕は、のろのろと立ち上がった。
顔を見なくても分かる。
この傲慢で、自分は常に正しいと思っていて、その上途方もなく無知な男の声。
我が校の校長先生「様々」だ。
「……一応、そーいう事になりますね」
「私の学校でこんな真似して……只じゃ済ませんからな!! 今はお前よりこの子だ。保健室に運ぶか
ら、手を貸せ!!」
相変わらず口の中は血だらけで、鼻血も止まらず、踏まれたところなんかがズキズキ痛んだが、頭の中は冷静だった。
そして同時に、激しく怒ってもいた。
「……お断りします」
幾度となく顔を拭った赤い袖が、段々と黒に染まっていくが、校長は時田の意識を取り戻そうとするのに必死で、こっちを見ようともしない。
「しっかりしろ!!……馬鹿者!! やったことに対して責任を持てッ!!」
「……言う人間を間違えているんじゃないですか?」
「何?」と校長がこっちを見た。
彼は最初、どういう状態になっているのか分からないようで、僕の顔をまじまじと見つめていたが、それはすぐに衝撃に変わる。
「……どうしたんだ……!?」
「この状況でそれを聞くんですか? 冗談でしょう?」
僕は可能な限り毒をこめて言った。
こんな奴に助けて欲しくなかった。
たとえ今僕が時田のことを訴えても、こいつらはどうにかして波風が立たないようにする方法を探すだけだ。
それでは何の解決にもならない。
彼らは殴り合えば分かり合えると信じているロマンチスト達よりなお悪い。
そういう連中と違って、教師たちは自分が信じていない考えを押し付けるのだから。
つまり、和解こそが最善の道だという考えを。
殴っても殴り返しちゃいけない。
黙って殴られ続けろ。
波風が立つと後が大変なんだ。
彼らが言いたいのはこういうことなのだ。
校長が心配そうに時田を運び出した。
だが、彼が心配しているのは、気を失っている時田でも、血だらけの僕でもない。
「これが公になったらどうなるか」。
ただ、それだけだ。
本当に「大嫌い」だ。
「……君」
「生徒の名前ぐらい覚えとけよ」とも思ったが、「さすがに何百人もの生徒全員を覚えるのは無理か」と思い直し、それについては何も言わないことにした。
「……斎藤です」
「斎藤、ついて来い」
僕は彼の喋り方がいちいち癇に障ったが、黙っていた。
自分のことを偉いと思っている人間に、何を言っても無駄なのだ。