第5話
※前回の仮面舞踏会は、完全匿名ではなく半匿名寄りの設定でした。
仮面はつけていますが、必要に応じて名乗ったり、相手が分かる状態で会話したりしています。
仮面舞踏会が終わったあとも、まだあの言葉は耳に残っていた。
――少なくとも、私はそうではない。
「どういう意味だったの……」
意味なら分かる。
分かるけれど、どうしてあの場で、あんなふうに言ったのかは分からない。
聞きたかった。
けれど、怖くて聞けなかった。
あのまま別れてしまったことが、朝になっても胸のどこかに引っかかったままだった。
◆
乾燥小屋の辺りには、すでに人の出入りがあった。
私は籠を抱えた女たちに軽く会釈を返しながら、新しく整えた四棟目の方へ足を向ける。
そこは、既存の棟より少し離れた空き地の一角だった。
新しく囲いを回し、簡易の屋根をかけ、風除けの布も張ってある。
地面には厚手の敷物が何枚か重ねられ、子どもが座っても冷えすぎないようにしていた。
私はその囲いの前で足を止める。
「どうかしら。人手は」
近くにいた女が、すぐに顔を上げた。
「はい。子どもを預けられるなら出たいと言っていた者が、何人かおります」
「本当?」
「ええ。半日だけでも入れれば助かると」
その言葉に、私はようやく小さく息をついた。
「最初から人数を詰め込みすぎず、様子を見ながらにしましょう」
「はい」
女は何度か頷きながら、囲いの中へ目をやった。
「動き回る子と、まだ寝ている方が多い子とでは違いますものね」
「そうね。その辺りも、受け入れながら考えましょう」
そう答えながら、私は囲いの内側を見渡した。
「春の品も、そろそろ少し考えたいのだけど」
「木苺とかですか?」
「そうそう」
「木苺は、量は多くありませんが、菓子屋が喜びそうですね」
「さくらんぼは?」
と、別の女が口を挟む。
「見栄えは良さそうですが、傷みが早いですね」
「難しいわね……」
私は手を顎に添えた。
「春のものは水が多いですから」
年かさの女が言う。
「乾かすにしても、先に傷みそうです」
「でも、試す価値はあるわね」
私は呟いた。
「少量だけでも、その分うまくいけば希少だもの……」
その時だった。
「違うでしょう!」
鋭い声が、四棟目の中から響いた。
思わず、私は顔を上げる。
女たちも一斉にそちらを見た。
私は四棟目へ足を向けた。
小屋の中へ入ると、空気が妙に静かだった。
誰も手を止めてはいないが、皆の肩がこわばっている。
棚の前で、四棟目のまとめ役の女が、若い娘の手元を見下ろしていた。
「厚みが違う。これでは乾きが揃わないでしょう」
若い娘は唇を引き結んだまま、「……はい」とだけ答える。
その返事の短さに、私は眉を寄せた。
まとめ役の女は、私に気づくとすぐに一礼した。
「お嬢様」
「一体どうしたの?」
「切り分けが揃っておりませんでしたので、言い直しておりました」
私は若い娘の手元を見る。
たしかに揃いは甘い。
けれど、ひどく乱れているほどではない。
「そう……」
私は頷き、棟の中を一巡した。
作業の流れそのものは崩れていない。
並べ方も、棚の空きも、見たところ問題はなさそうだ。
けれど、この棟だけ空気が重い。
誰も無駄口を叩かず、何か言われればすぐに「はい」と返している。
私は一度だけ息をつき、まとめ役の女へ顔を向けた。
「少し、いいかしら」
女の肩が、ほんのわずかに強張る。
「……はい」
私はそのまま棟の外へ数歩出た。
中の者たちに聞こえすぎない場所で、足を止める。
「やり方が違うのを直すのは、間違っていないわ」
女は黙って頭を下げたままだった。
「でも、あまり強く言いすぎると、萎縮して手元まで固くなってしまうと思うの」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて女は、低く答えた。
「……気をつけます」
私はすぐには返さなかった。
その顔を一度だけ見てから、小さく頷く。
「お願いね」
「……はい」
「では、戻ってください」
女はもう一度だけ頭を下げると、棟の中へ戻っていった。
私はその背を見送った。
人数が増えれば、増えた分だけ、こういう綻びも出る。
私はもう一度だけ四棟目の中を見てから、静かに踵を返した。
◆
アーネストの執務室には、午後のやわらかな日差しが差し込んでいた。
机の上には書類が積まれ、窓際の棚には領地から届いた報告書がいくつも並んでいる。
その向かいの椅子で、グラーフ伯爵夫人はゆったりと紅茶を口に運んでいた。
手元の小皿には、干し林檎を使った焼き菓子がいくつか並んでいる。
「最近、ヴィオラ様とお母様がよくいらっしゃるの。先方はずいぶん熱心よ」
夫人はそこで、わざと少しだけ間を置いた。
「……それで、あなたはどう思うの?」
アーネストは書類から目を上げたものの、すぐには答えなかった。
伯爵夫人はそんな息子の様子を面白がるように、焼き菓子をひとつ摘まむ。
「何も思わない、という顔ではないわね」
「……社交のうちだろう」
「あら。ずいぶん冷たい言い方」
夫人はくすりと笑う。
「先方に不満があるわけではないのでしょう?」
「ない」
「では、問題はあなたの方ね」
アーネストの眉がわずかに寄る。
「何が言いたい」
「ヴィオラ様はきちんとなさっている。こちらにも筋を通してくださっている。申し分ないわ」
夫人は焼き菓子を口に運びながら、ことさら軽く肩をすくめた。
「それでなお、あなたがその顔をするなら――もう理由は別のところにあるのでしょう、というだけ」
「……母上は、いつも話を面倒にする」
「まあ。面倒にしているのはどちらかしら」
夫人はカップを持ち上げ、涼しい顔で続けた。
「取られたくないなら、そうお言いなさいな」
アーネストはそこで初めて、はっきりと顔を上げた。
「……誰を」
その問いは短かったが、返しとしては遅すぎた。
夫人は息子を見て、ますます愉快そうに目を細める。
「聞き返す時点で、もう答えは出ているわよ」
アーネストはそれきり黙った。
その横顔を眺めながら、夫人は焼き菓子をもうひとつ摘まむ。
「それにしても、これ、本当によくできているわね。林檎の甘みがやわらかいのに、後味が軽いわ」
何気なく言われたその一言に、アーネストの視線がほんのわずかに動いた。
夫人はそれを見逃さなかった。
「……その話になると、ちゃんと耳が動くのね」
「仕事の話だ」
「そういうことにしておいて差し上げる」
夫人は微笑み、紅茶を口に含む。
「でも、あまり悠長にしていると、本当に別の家へ連れていかれるわよ」
執務室に、短い沈黙が落ちた。
やがてアーネストは、低く言った。
「……分かっている」
その声が思っていたよりもずっと重くて、夫人はかえって満足そうに笑った。
【お知らせ】
すみません、別作品を書き出したら思った以上に止まらなくなってしまいまして……。
そちらに少し集中したいため、一週間ほど更新をお休みさせていただきます。
とはいえ、タイミングが合えば一週間以内でも投稿するかもしれません。
お待たせしてしまって申し訳ありませんが、また続きを読みに来ていただけたら嬉しいです。




