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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十二章

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第1話

ハーゼルベルク子爵邸の玄関前には、すでに何台もの馬車が止まっていた。


私は小さく息を整え、招待状を取り出す。

扉の前に控えていた執事へそれを差し出すと、相手は一礼して封蝋の印を確かめた。


「リュークハルト家のエリナ様でいらっしゃいますね。本日はようこそお越しくださいました」


「ありがとうございます」


私は抱えていた小さな包みを、そっと差し出した。


「本日のご招待への御礼に、ささやかですが手土産をお持ちしました。ハーゼルベルク子爵様へお渡しいただけますでしょうか」


執事は包みを丁寧に受け取り、改めて一礼する。


「確かにお預かりいたします」


広間へ足を踏み入れた瞬間、私は思わず息をのんだ。


高い天井から落ちる灯りはやわらかく、仮面をつけた色とりどりの衣装が揺れている。

楽師の奏でる音も、いつもの夜会よりどこか軽やかで、拍がはっきりしていた。


誰がどこの誰なのか、ぱっと見ただけでは分からない。

同じ貴族の集まりのはずなのに、どこか現実から浮いているみたいだった。


まるで、恋愛小説の一場面に迷い込んだみたい。


――これが、仮面舞踏会。


「エリナ嬢」


不意に声をかけられ、私ははっと振り向いた。


ルーカスが、こちらへ歩み寄ってくるところだった。

今夜は仮面をつけていても、その柔らかな物腰ですぐに分かる。


「よく来てくださいました」


「こちらこそ、お招きありがとうございます」


私が礼をすると、ルーカスは目元の奥をやわらかく細めた。


「その仮面、よくお似合いです」


「あ、ありがとうございます」


少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、私は小さく頭を下げる。


「手土産も、確かに預かりました。父も母も喜ぶと思います」


「ささやかなものですが……」


「そういうお気遣いが嬉しいのです」


ルーカスはそう言ってから、私の姿をあらためて静かに見た。


「仮面舞踏会は初めてですか?」


「……はい」


「でしたら、最初は少し騒がしく感じるかもしれませんね」


「はい……本当に、別世界のようです」


そう答えると、ルーカスは小さく笑った。


「でも、気後れなさる必要はありません。今夜はまず、無理なく話せる方々の輪へご案内します」


「……ありがとうございます。お願いいたします」


私はもう一度、小さく礼をした。


「先日の実務者会でも思いましたが……エリナ嬢は、落ち着いてしまえば、きちんとご自分の言葉で話される方です」


「そうでしょうか」


「ええ。だから今夜も、最初の一歩さえ越えてしまえば大丈夫だと思っています」


その言い方があまりにも自然で、私は返す言葉に少し迷った。


「……そう言っていただけると、少し安心します」


ルーカスはそれ以上は踏み込まず、やわらかく頷いた。


「では、こちらへ」


そう言って一歩横へ寄り、広間の少し奥を示す。


私は案内されるまま、その隣を歩き出した。


途中、何人もの視線が仮面越しにこちらへ向くのを感じる。

けれど、ルーカスが自然に歩調を合わせてくれているだけで、不思議と心細さはなかった。


「……踊りは、お好きですか」


「いいえ。こうした場は、ほとんど経験がなくて……」


「では、最初は見ているだけでも十分ですよ」


ルーカスはやわらかく笑った。


「けれど、もし少し慣れた頃にでも――あとで一曲、お誘いしても?」


「……うまく踊れるか分かりませんが、私でよろしければ……」


ルーカスが案内したのは、広間の端寄りにできていた小さな輪だった。

年若い令嬢と、その兄らしい青年、既婚らしい夫婦が、仮面越しに穏やかに言葉を交わしている。


「こちらなら、最初でも気詰まりは少ないと思います」


そう言ってルーカスは二、三の言葉を交わし、私を「リュークハルト家のエリナ嬢です」と紹介して輪へ入れると、すぐに別の客から声をかけられた。


「失礼。私は少し向こうへ回らなければ」


「はい。どうぞ、お構いなく」


「あとでまた、ご挨拶に伺います」


そう言い残して離れていく背を見送り、私は少しだけ肩の力を抜いた。


すると、向かいにいた令嬢――セシリアが、すぐにやさしく笑った。


「その仮面、素敵ですね。象牙色がとてもお似合いです」


「あ、ありがとうございます」


思わず胸元のあたりに手を添える。


「そちらの仮面も、とても綺麗です。レースの重なり方が、羽の色とよく合っていて……」


そう言うと、セシリアは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。


「まあ、そこを見てくださるなんて。母が選んでくれたのです」


「そうでしたのね。金糸が少し入っているから、灯りの下だと余計に映えますね」


「ふふ、ありがとうございます」


もう一人の令嬢――ミレーユも、楽しそうに口を挟む。


「エリナ様のドレスも素敵ですわね。……もしかして、ロゼット仕立て屋のもの?」


「ええ、たしか……姉から譲られたものなので、詳しくはないのですが」


「やっぱり。袖の形に少し特徴がありますもの。でも、ロゼット仕立て屋のものにしては、飾りが控えめで、ずいぶんすっきり着ていらっしゃるのね」


私は少しだけ目を伏せた。


「少しだけ……飾りを外してもらったのです。私には、そのままだと華やかすぎる気がして」


「あら、その方がよろしいと思いますわ」


ミレーユは仮面の奥で、楽しそうに目を細めた。


「飾ればいいというものでもありませんもの。今の方が、仮面の色もよく映えています」


その言い方に、胸の奥がほんの少しだけほどけた。


少し話しただけなのに、不思議と輪の中の空気はやわらかかった。


やがて、セシリアが、仮面の奥でいたずらっぽく目を細める。


「仮面舞踏会は、いつもの夜会より少し気が楽ですわね」


「そうなのですか?」


「ええ。少しくらい大胆なことを言っても、今夜は仮面のせいにできますもの」


ミレーユが、くすりと笑う。


「この方、今夜は少し真面目にご縁を探すつもりでいらしたのよ」


「仮面舞踏会ですもの。せっかくなら、少しくらい期待してもよろしいでしょう?」


「だって、ただ壁際で音楽を聞いて帰るなんて、もったいないじゃない」


そう言ってから、彼女は私へ少し身を寄せた。


「もしよろしければ、ご一緒に移動なさいません?」


「ご一緒に……?」


「ええ。あちらに、まだ落ち着いて話せそうな方々の輪があるのです。いきなり一人で入るより、誰かと一緒の方が気が楽でしょう?」


私は思わずそちらを見た。


広間の少し奥、灯りの集まるあたりに、若い男女がゆるやかな輪を作っているのが見える。


「もちろん、無理にとは申しませんけれど」


セシリアはやわらかく続ける。


「せっかくの仮面舞踏会ですもの。今夜くらい、少し冒険してみてもよろしいのではなくて?」


たしかに、一人で動くよりは心強い。

それに、この場へ来た以上、ただ隅で息を潜めているだけでは何も変わらない気もした。


「……では、少しだけ」


「決まりね」


彼女は扇の先を軽く持ち上げ、ミレーユにも目配せする。


「まいりましょう。今夜は、お互いによいご縁を見つけたいものですわね」


その言葉に、私は小さく息をのみながらも、そっと頷いた。

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― 新着の感想 ―
 仮面をつけてても挙動で察せられるルーカスさん……この人、エリナさんの視点での評価が高めですね。  これまでの行事と異なる雰囲気に惑う彼女への気遣いも的確の様ですし、誉めちぎり一辺倒の人物でもなさそう…
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