第2話
屋敷へ戻っても、胸の奥が妙に重かった。
屋敷の居間に入ると、本を読んでいた姉が顔を上げた。
「どうだった?」
「……お礼、言えたよ」
そう答えると、姉はほっとしたように笑う。
「よかったじゃない」
私は外套を脱ぎながら、何気ない声で言った。
「お姉様……ヴィオラ・クラウゼンという方を知ってる?」
「……ヴィオラ・クラウゼン?
知ってるわ。社交界では有名よ」
「有名?」
「ええ。
グラーフ伯爵を狙ってるって」
私は思わず顔を上げた。
「……狙ってる?」
「だって、あの伯爵よ?
放っておく令嬢なんていないわ」
「……お姉様は」
姉が顔を上げる。
「グラーフ伯爵って……どんな方か知ってるの?」
「……そうね」
姉は少し考えた。
「一言で言うなら、優良物件よ」
「優良物件……?」
「伯爵家。若い。未婚」
指を折るように言う。
「領地経営もしっかりしてるし、王都でも名前は知られてる」
姉は苦笑する。
「令嬢が放っておく相手じゃないわ」
胸の奥がざわついた。
それから、おそるおそる口を開く。
「……お、お姉様も……?」
姉は一瞬きょとんとした。
そして小さく笑う。
「まあ……候補の一人ではあるわね」
その言葉を聞いた瞬間、すっと冷えた気がした。
――候補。
社交界の令嬢なら当然の話だ。
お姉様の方が、ずっと相応しい。
社交界にも出ているし、伯爵と話す機会だってある。
それに比べて、私は――
ふと、今日の執務室が頭をよぎった。
書類をめくる伯爵の手。
「取ったのはお前だ」
……何を考えているのだろう、私は。
小さく息を吐く。
「……何よ、その顔」
「え?」
「もしかしてエリナも狙ってるの?」
私は慌てて首を振った。
「ち、違うわよ」
「はいはい」
姉はクスッと笑い、読んでいた本へ視線を戻した。
私はそれ以上何も言わず、部屋に向かった。
部屋に戻り、ふと鏡を見た。
そこには、沈んだ顔の自分が映っていた。
……出かける前は、あんなにうきうきしていたのに。
机の上には資料が積まれている。
乾燥部門の計画。
乾燥小屋の増設。
人手の確保。
次の無花果の収穫時期も。
五年後の支払いも。
どれも、待ってはくれない。
「……立ち止まっている場合じゃない」
私は小さく息を吐き、机の前に座った。
だけど――
紙の上の文字が、うまく頭に入ってこなかった。
◆
「お嬢様ー! 資材、集まりました!」
声を上げながら、村の男たちが木材を運んでくる。
「ありがとう」
私は乾燥小屋の前に立ったまま頷いた。
「そこに積んでおいて」
川風が小屋の間を抜けていく。
その横に、新しい柱を立てる場所を縄で印してある。
男の一人が、印を見て首を傾げた。
「お嬢様、これ……何作るんです?」
「ああ、乾燥小屋をもう一棟足すついでに、
燻製もできるようにしたいの」
「燻製?」
男たちが顔を見合わせる。
「冬の間、小屋は空くでしょう?」
私は川の方へ目をやった。
「だったら使わないともったいないな、と思って」
「……なるほど」
男の一人が頷く。
「そうすれば、閑散期の仕事にもちょうどいいでしょう?」
「燻製ってことは……肉ですか?」
「魚」
川面を渡る風を見る。
「輸送の手間もなくていいでしょう?」
男たちは顔を見合わせる。
「……確かに」
一人が感心したように頷いた。
「それに、煙なら日もいりませんしね」
「そうなの」
私は縄で印を付けた場所を見る。
「乾燥棚は今まで通り風の通る側に」
それから少しだけ指で地面を示した。
「炉は反対側に作る」
「煙を回すわけですか」
「ええ」
私は頷いた。
「春から秋は果物の乾燥。冬は燻製」
もし輸送がうまくいかなくても、燻製なら日持ちはする。
売れなくても、領地の保存食にはなる。
屋敷に戻ると、執事が静かに頭を下げた。
「お嬢様、お手紙と……荷が届いております」
「えっ……」
思わず目を見開く。
差出人を見て、胸が小さく跳ねた。
――グラーフ伯爵。
急いで封を切る。
有望若年実務者会の招待状だった。
胸がどくんと鳴る。
執事から荷を受け取ると、私は急いで部屋に戻った。
箱を開けると、
中には、淡い灰青のドレスが入っていた。
落ち着いた色合いで、飾りは控えめ。
「きれい……」
思わず声が漏れる。
ドレスをそっと抱きしめた。
胸に残っていた重さが、少しだけ軽くなった気がした。




