第6話
喉が、急に渇いた。
「……飲み物、いただこうかな」
姉たちの輪からそっと離れ、壁際を伝うように歩く。楽団の旋律が軽やかに跳ね、幾重もの笑い声が重なっている。香水の匂いまで混ざり合い、空気が少し甘い。
――眩しい。
給仕が並べた銀の盆の上で、淡い色の果実水が揺れていた。グラスを一つ取り、口をつける。ひやりとした甘さが喉を通った。
姉のところへ戻らなければ。
そう思って踵を返しかけた、そのとき――。
「……リュークハルト家は」
低い声が、すぐ背後の別の輪から聞こえた。
思わず動きが止まる。
視線は向けないまま、耳だけがそちらへ寄った。
「姉君は、確かに華やかだ」
「ええ。あれだけ目を引けば……」
くす、と小さな笑い声が混じる。
「ただ……華やかさと、家の安定は別の話だ」
「最近はどこも慎重ですもの」
グラスを持つ指先が、わずかに強張った。
「ご兄弟も多いとか」
「ええ、妹君が……」
言葉はそこで途切れる。
「まあ、悪い家ではないわ」
「ええ。悪くはない」
「――決め手に欠ける、というだけで。急ぐ理由は、どこにもないでしょう」
果実水の甘さが、急に薄くなった気がした。
――お姉様は、あんなに囲まれていたのに。
そっと顔を戻す。
姉は変わらず優雅に微笑み、周囲の人々と言葉を交わしている。
「夜会って……」
グラスへ視線を落とした。
ふと、軽やかな笑い声が聞こえる。
顔を上げると、広間の中央寄りに一つの輪があった。品のある笑い声が交わされ、華やかな場なのに誰かが無理に前へ出ようとする様子もない。
その中心に立つ男の顔は見えなかった。背が高く、落ち着いた様子で令嬢たちと言葉を交わしている。
「先日の演奏会、いかがでしたか」
「ええ、とても。第二楽章が特に――」
低く響く声。
「同感ですわ。あの旋律は見事でした」
別の令嬢が口を挟む。
「領地では、もう春の祭りが始まるとか」
「ええ。まだ小さな催しですが、いずれご覧いただければ光栄です」
笑い声がこぼれる。
……何故だろう。
姉たちの輪とは、温度が違う。
気づけば、私はそちらへ足を向けていた。
――どんな人だろう。
輪の隙間から、男の顔が見える。
「あ……」
胸が、どくりと鳴った。
アーネストだった。
穏やかな微笑みを浮かべ、令嬢たちと言葉を交わしている。
知らない横顔。
――私の知っている彼では、ない。
「それは興味深いですね」
「お父上もご健在と伺いました。何よりです」
ふと、彼の視線が輪の外へ流れた。
――私と、目が合う。
けれど、すぐに視線は戻り、会話が途切れることもなかった。
私はその場に立ち尽くし、しばらく彼を眺めていた。
……やっぱり、遠い。
姉の輪へ戻ろうと思ったのに、足が動かない。壁際に一人で立つ自分が、ひどく場違いに思えてきた。
「お一人ですか?」
ふいに横から、軽い声が落ちた。
振り向くと、明るい色の上着を着た若い男が立っている。人懐こい笑みを浮かべながら、自然に距離を詰めてきた。
「はい」
「先ほどお見かけしました。リディア嬢の妹君でしょう?」
「……はい」
「こういう場はお好きですか?」
「……あまり」
「それは惜しい」
男は肩をすくめる。
「今夜は良い出会いが多い。逃すにはもったいない」
その目が、さらりと姉の輪へ滑った。
「ご姉妹でいらっしゃると、何かと賑やかでしょう?」
「……そうですね」
「ご兄弟も多いとか」
「ええ……」
「それはそれは」
男は微笑んだまま、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「お家も、にぎやかでいらっしゃる」
「はい……」
今度は男の視線が、ゆっくりと私のドレスへ落ちる。
「可愛らしい装いですね」
「え……?」
「今夜のために、誂えられたのですか?」
グラスを持つ手が、わずかに震えた。
「……いえ」
「そうですか」
男はにこりと笑う。
「お似合いです。大切に選ばれたのでしょうね」
言葉は優しい。
なのに、どうしてだろう。
表面だけを撫でられているような気がする。
どうしよう。
そのとき。
「エリナ嬢」
えっ……。
振り向くと、アーネストが立っていた。
「ご挨拶が遅れました」
男が一歩引く。
「失礼。お知り合いでしたか」
「ええ」
短く答えると、男は微笑んだまま距離を取った。
「では、失礼いたします」
背を向け、そのまま人の輪へ紛れていく。
私はアーネストを見上げた。
さっきまで令嬢たちに囲まれ、余裕のある微笑みを浮かべていた人。
それなのに、どうしてここに。
はっとして視線を落とす。
「あの……ありがとうございます」
声が少し震えた。
「……礼を言われることはしていない」
淡々とした声なのに、胸の奥はなかなか落ち着かない。
「壁際は声をかけられやすい」
「え……?」
「話すなら、輪の内側だ」
「は、はい……」
それだけ告げると、アーネストは歩き出した。
あ……。
行ってしまう。
どうすればいいのか分からないまま、一歩だけ踏み出す。中央にはいくつもの輪が重なっていて、どこへ向かえばいいのか目が彷徨った。
そのとき、アーネストがほんのわずかに足を止めた。
振り返らない。
ただ、視線だけが横へ流れる。
……一緒にいて、いいの?
胸がきゅっと締めつけられた。
私は半歩だけ距離を詰め、礼装の背中を追った。
たどり着いたのは、先ほどアーネストがいた輪だった。
令嬢たちの笑い声が、わずかに細くなる。
いくつもの視線が集まり、喉がひりついた。
アーネストが輪の中へ向き直る。
「リュークハルト家のエリナ嬢だ」
途端に、令嬢たちは花が開くように微笑んだ。
「まあ」
「ご一緒でしたのね」
私はぎこちなく一礼する。
アーネストはもうこちらを見ていなかった。そのまま何事もなかったように会話へ戻っていく。
守られているわけではない。
けれど――私は、輪の内側に立っている。
その事実に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「……お姉様とは、また雰囲気が違って素敵なドレスですこと」
ふいに、甘い声が向けられる。
「どなたがお選びになったの?」
何人もの視線が、こちらへ集まった。
心臓が、一つ跳ねた。




