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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
四章

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第6話

喉が、急に渇いた。


「……飲み物、いただこうかな」


姉たちの輪からそっと離れ、壁際を伝うように歩く。楽団の旋律が軽やかに跳ね、幾重もの笑い声が重なっている。香水の匂いまで混ざり合い、空気が少し甘い。


――眩しい。


給仕が並べた銀の盆の上で、淡い色の果実水が揺れていた。グラスを一つ取り、口をつける。ひやりとした甘さが喉を通った。


姉のところへ戻らなければ。


そう思って踵を返しかけた、そのとき――。


「……リュークハルト家は」


低い声が、すぐ背後の別の輪から聞こえた。


思わず動きが止まる。


視線は向けないまま、耳だけがそちらへ寄った。


「姉君は、確かに華やかだ」


「ええ。あれだけ目を引けば……」


くす、と小さな笑い声が混じる。


「ただ……華やかさと、家の安定は別の話だ」


「最近はどこも慎重ですもの」


グラスを持つ指先が、わずかに強張った。


「ご兄弟も多いとか」


「ええ、妹君が……」


言葉はそこで途切れる。


「まあ、悪い家ではないわ」


「ええ。悪くはない」


「――決め手に欠ける、というだけで。急ぐ理由は、どこにもないでしょう」


果実水の甘さが、急に薄くなった気がした。


――お姉様は、あんなに囲まれていたのに。


そっと顔を戻す。


姉は変わらず優雅に微笑み、周囲の人々と言葉を交わしている。


「夜会って……」


グラスへ視線を落とした。


ふと、軽やかな笑い声が聞こえる。


顔を上げると、広間の中央寄りに一つの輪があった。品のある笑い声が交わされ、華やかな場なのに誰かが無理に前へ出ようとする様子もない。


その中心に立つ男の顔は見えなかった。背が高く、落ち着いた様子で令嬢たちと言葉を交わしている。


「先日の演奏会、いかがでしたか」


「ええ、とても。第二楽章が特に――」


低く響く声。


「同感ですわ。あの旋律は見事でした」


別の令嬢が口を挟む。


「領地では、もう春の祭りが始まるとか」


「ええ。まだ小さな催しですが、いずれご覧いただければ光栄です」


笑い声がこぼれる。


……何故だろう。


姉たちの輪とは、温度が違う。


気づけば、私はそちらへ足を向けていた。


――どんな人だろう。


輪の隙間から、男の顔が見える。


「あ……」


胸が、どくりと鳴った。


アーネストだった。


穏やかな微笑みを浮かべ、令嬢たちと言葉を交わしている。


知らない横顔。


――私の知っている彼では、ない。


「それは興味深いですね」


「お父上もご健在と伺いました。何よりです」


ふと、彼の視線が輪の外へ流れた。


――私と、目が合う。


けれど、すぐに視線は戻り、会話が途切れることもなかった。


私はその場に立ち尽くし、しばらく彼を眺めていた。


……やっぱり、遠い。


姉の輪へ戻ろうと思ったのに、足が動かない。壁際に一人で立つ自分が、ひどく場違いに思えてきた。


「お一人ですか?」


ふいに横から、軽い声が落ちた。


振り向くと、明るい色の上着を着た若い男が立っている。人懐こい笑みを浮かべながら、自然に距離を詰めてきた。


「はい」


「先ほどお見かけしました。リディア嬢の妹君でしょう?」


「……はい」


「こういう場はお好きですか?」


「……あまり」


「それは惜しい」


男は肩をすくめる。


「今夜は良い出会いが多い。逃すにはもったいない」


その目が、さらりと姉の輪へ滑った。


「ご姉妹でいらっしゃると、何かと賑やかでしょう?」


「……そうですね」


「ご兄弟も多いとか」


「ええ……」


「それはそれは」


男は微笑んだまま、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「お家も、にぎやかでいらっしゃる」


「はい……」


今度は男の視線が、ゆっくりと私のドレスへ落ちる。


「可愛らしい装いですね」


「え……?」


「今夜のために、誂えられたのですか?」


グラスを持つ手が、わずかに震えた。


「……いえ」


「そうですか」


男はにこりと笑う。


「お似合いです。大切に選ばれたのでしょうね」


言葉は優しい。


なのに、どうしてだろう。


表面だけを撫でられているような気がする。


どうしよう。


そのとき。


「エリナ嬢」


えっ……。


振り向くと、アーネストが立っていた。


「ご挨拶が遅れました」


男が一歩引く。


「失礼。お知り合いでしたか」


「ええ」


短く答えると、男は微笑んだまま距離を取った。


「では、失礼いたします」


背を向け、そのまま人の輪へ紛れていく。


私はアーネストを見上げた。


さっきまで令嬢たちに囲まれ、余裕のある微笑みを浮かべていた人。


それなのに、どうしてここに。


はっとして視線を落とす。


「あの……ありがとうございます」


声が少し震えた。


「……礼を言われることはしていない」


淡々とした声なのに、胸の奥はなかなか落ち着かない。


「壁際は声をかけられやすい」


「え……?」


「話すなら、輪の内側だ」


「は、はい……」


それだけ告げると、アーネストは歩き出した。


あ……。


行ってしまう。


どうすればいいのか分からないまま、一歩だけ踏み出す。中央にはいくつもの輪が重なっていて、どこへ向かえばいいのか目が彷徨った。


そのとき、アーネストがほんのわずかに足を止めた。


振り返らない。


ただ、視線だけが横へ流れる。


……一緒にいて、いいの?


胸がきゅっと締めつけられた。


私は半歩だけ距離を詰め、礼装の背中を追った。


たどり着いたのは、先ほどアーネストがいた輪だった。


令嬢たちの笑い声が、わずかに細くなる。


いくつもの視線が集まり、喉がひりついた。


アーネストが輪の中へ向き直る。


「リュークハルト家のエリナ嬢だ」


途端に、令嬢たちは花が開くように微笑んだ。


「まあ」

「ご一緒でしたのね」


私はぎこちなく一礼する。


アーネストはもうこちらを見ていなかった。そのまま何事もなかったように会話へ戻っていく。


守られているわけではない。


けれど――私は、輪の内側に立っている。


その事実に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。


「……お姉様とは、また雰囲気が違って素敵なドレスですこと」


ふいに、甘い声が向けられる。


「どなたがお選びになったの?」


何人もの視線が、こちらへ集まった。


心臓が、一つ跳ねた。

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― 新着の感想 ―
 リディアお姉さん、服装選びなどのセンスは好評だけども、手腕などには周りから辛口な評価をされてますな。あながち間違ってなさそうなのが、なんとも言えませぬ。手際はいいですが、まだ表舞台であまり顔を出して…
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