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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
四章

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第1話

それを思い出したのは、家族が帰ってきてからだった。


部屋で支出明細をまとめていると、

外から馬車の音が聞こえる。


やがて、明るい声が響いた。


「ただいまー!」


姉だ。


思わず筆が止まる。


廊下に出て、階段を下りる。


玄関では、兄と姉、それに父が侍女へ外套を渡しているところだった。


「おかえりなさい……」


口にすると、思ったよりも静かな声になった。


「エリナ! 元気にしてた?」


姉が駆け寄ってくる。


「ちゃんと食事、抜いてないでしょうね?」


軽く頬をつつかれる。


兄が笑う。


「問題なかったか?」


「うん……大丈夫」


父は一瞬だけ視線を向け、


「……ご苦労だったな」


と短く言った。


「……いえ」


嬉しいはずなのに、

胸の奥が、重い。


父の顔を見た瞬間――

五年前からの利息、という文字が脳裏をよぎった。


「お土産あるのよ」


姉がリビングの卓に包みを広げる。


「ほら、見て!」


柑橘の砂糖漬け。

貝殻の形の焼き菓子。

海辺の店の小瓶。


「叔母様の別荘の近くなの。景色も素敵でね、そうでしょ? レオン」


「まぁな……姉さんの相手は大変だったぞ」


兄が苦笑しながら言う。


父も、いつもより幾分か柔らかい顔をしている。


旅行の空気が、三人の間に残っているようだ。


「それでね」


姉が最後の小さな包みを差し出す。


「エリナにはこれ」


掌に乗るほどの、小さなガラス細工。

淡い色の飾りだ。


「あなた、屋敷にいる時間が長いでしょう? 机の上に置いたら可愛いと思って」


「……ありがとう」


そう言って受け取る。


「エリナがいてくれたから、安心して行けたのよ」


姉が軽く笑う。


兄も頷く。


「助かった」


父は何も言わない。

ただ、短く目を伏せた。


「それなら、よかった……」


そう答えると、


兄がふと表情を引き締めた。


「水路の方は本当に問題なかったか?」


「え? ……ああ、下流が先に出したいって言ってきた」


「揉めたのか」


「少しだけ。

 だから、うちは夜便を引き受けることにした」


兄が眉を寄せる。


「夜便は人手が足りなくなるだろ」


「うん。だから、向こうからも人足を出してもらうようお願いしたの」


「それなら問題ない」


そのやり取りの間、

父は何も言わない。


ただ、視線が一度だけ私に向き――

すぐに逸れた。


それが、やけに胸をざわつかせた。


気づけば、口が動いていた。


「……お父様」


「なんだ?」


一瞬口ごもるが、息を吸って言う。


「……お父様にお客様がこられてたの」


父の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。


「……誰だ」


「ブランデル商会の方」


「……そうか」


それだけ言って、父は椅子に腰を下ろす。


「何の用件だった」


「輸送補助契約の……三期分が未納だって」


兄の動きが止まる。

一拍遅れて、父を見る。


姉が小さく首を傾げる。


「未納? 何かの間違いじゃないの?」


父は兄の視線を受け止めたまま、


「……わかった」


姉が戸惑ったように父を見る。


兄は口を開きかけて、閉じた。

喉が動いただけで、言葉にはならなかった。


「……夕食にしよう」


父の声は、やけに平坦だった。


それ以上、誰も何も言わなかった。



食事中は、姉がよく話した。


「湖がね、本当にきれいだったの!

 朝は水面が鏡みたいで――」


姉の声は弾んでいる。


「ブティックも素敵だったのよ。

 つい買いすぎちゃって」


「ついで済む量じゃなかっただろ」


兄が呆れたように言う。


「いいじゃない、たまには」


「たまにでもないだろ」


軽いやり取りに、姉が笑う。


「お兄様は何してたの?」


思わず聞くと、兄は肩をすくめた。


「釣りだよ。湖で」


「釣り? お兄様、好きでしたっけ」


「別に、特別好きってほどじゃない」


兄はさらりと言って、パンをちぎる。


「叔父上のところは舟も道具も揃ってる。

 やらない理由がないだろ」


姉がくすりと笑う。


「楽しそうだったわよ。朝からずっと。

 釣れたら釣れたで、嬉しそうに見せびらかして」


「見せびらかしてない」


「してたってば。ほら、あの大きいの」


姉が両手で大きさを示す。


兄はわずかに口元を緩めた。


「……まあ、悪くなかった」


二人の会話に、食卓が明るくなる。


「今度はエリナも一緒に行けたらいいわね」


姉がふとこちらを見る。


「久々だったけど、湖よかったわよ。静かで、空気も澄んでて……」


「そうなんだ……」


話を聞いても、胸はあまり痛まなかった。

それは――アーネストを思い出していたからだ。


市場で手を引かれたときのぬくもり。

渡された花束の、甘い香り。

低く落ち着いた声。


思い出すだけで、呼吸がほんの少し整う。


「エリナはどうしてたの?

 ずっと家にいたの?」


急に話を振られて、はっとする。


「うん……まあ、仕事してただけ」


そう答えながら、肩がわずかにすぼまった。


姉の視線が、そこで止まった。


「……本当に?」


「え?」


「なんか、ちょっと違う顔してる」


胸が、ひくりと鳴る。


「違わないよ」


「違うわよ」


姉は笑っている。

けれど、目は笑っていなかった。


「仕事だけって顔じゃない」


沈黙が落ちる。


兄がこちらを見る。

父は、何も言わない。


……逃げられない。


「……この前に行った実務者会から……また、招待状が来て……」


「え?」


兄の動きが止まる。


「……行ったのか?」


声が低い。

いつもの軽い調子じゃない。


私は、小さく頷いた。


「ちょっとだけ」


フォークが皿に当たる、硬い音がした。


「行くなって言ったよな」


兄の声が、はっきりと強くなる。


「俺が代表だ」


代表。

その言葉が、胸の奥でひっかかった。


姉が兄を見る。


「レオン……」


「お前が勝手に動くと、家の体裁が崩れる」


体裁。


――崩れるのは、何?

何を、守っているの?


「でも……勉強になると思って……」


「誰のための勉強だ」


「え……」


「お前が何を学ぶか、それを決めるのは俺だ」


言葉が出ない。


「レオン……ほら、エリナも悪気があったわけじゃないんだから」


「家の名で動くなら、勝手は許されない」


兄はそれだけ言って、食事を再開した。

姉も息を吐き、グラスを口にした。


私は、ぼうっとして皿を見つめる。


そのとき、父の声が落ちた。


「……食べなさい」


視線は皿に向けられたまま。


私は、目の前の食べかけのパンに手を伸ばす。


ちぎって、口に入れる。


――味は、しなかった。

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― 新着の感想 ―
 あの会で空回りするか、空気になるか、自分の一部怠慢を相手側の説明不足にすりかえるかのどちらかしか無かった兄が、なにかエリナさんに世迷い言をぶつけたためか、注意がそれそうになりましたが、父は姉などに滞…
職務放棄してる奴が何言ってんだ
 ヽ(´・言・)ノ┌┛#)ཫ°): 兄の顔面に足跡つけたい…(憤)
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