第2話
食事を終えた私は、机の前の椅子に座っていた。
机へ視線を落とすと、姉からもらったガラス細工が書類の陰に半分隠れ、淡い色の光も紙の端に遮られている。
「……はぁ」
兄の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
――俺がこの家の代表なんだぞ。
――勝手は許されない。
ガラス細工に手を伸ばしかけて、やめた。
代わりに引き出しを開け、招待状を取り出す。同封されていた手紙を開き、そこに書かれた文字を指先でなぞった。
――兄の隣で働き続ける。だがその場合、条件を持て。
「……だめだ」
このまま、見て見ぬふりをするのは。
招待状を引き出しへ戻すと、椅子から立ち上がって部屋を出た。
廊下を歩きながら、ふと思う。
……お父様と、家の話を真正面からしたことがあっただろうか。
仕事について報告したことなら何度もある。
けれど、家の在り方や私の立場、お金のことを父と話した覚えはなかった。
「……ないかも」
足取りが少しだけ重くなる。
政務室の前に立つと、扉の下から細く灯りが漏れていた。手のひらがじんわりと湿る。
それでも、指を曲げて扉を叩いた。
コン、と控えめな音が響く。
しばらくして、
「……なんだ」
低い声が返ってきた。
「エリナです。今、よろしいですか」
「入れ」
扉を開ける。
「失礼します」
父は机に向かい、眼鏡をかけたまま書類に目を通していた。私が入ってもすぐには顔を上げず、机の前まで進んで数秒待ったところで、ようやく視線が向けられる。
「どうした」
喉が、わずかに渇いた。
「あの……輸送補助契約ですが……」
一瞬、言葉が詰まる。
「どうして、されたのですか」
父の手が止まり、紙をめくる音も途切れた。
「……必要だったからだ」
沈黙のあと、父は淡々と答えた。
「ですが……この領地の収穫量と利益を考慮したら、本当に必要でしょうか……」
父の視線が、ゆっくりと上がる。
「何を言いたい」
喉が鳴った。
「利益よりも、損失が生まれています……」
言い終えた瞬間、心臓が強く鳴る。
父はしばらく何も言わなかった。やがて眼鏡を外し、机の上へ置く。
「……お前は、何を見た」
「収支総覧を……五年分」
その言葉に、父の眉がわずかに動いた。
「……五年分、だと」
私を測るような視線が向けられる。
「それで……気づいたのですが……」
一度、息を整えた。
「五年前から、支出項目に……利息の記載を見つけました」
父の目がわずかに細くなる。
「お父様……何の利息なのですか……?」
「……お前が知る必要はない」
その一言で、胸の奥がきゅっと縮んだ。
それでも、視線は逸らさない。
「私も、領地の仕事を担っています」
声がわずかに震える。
「だから……家の負債も把握しておく必要があると思うのです」
「背負えるのか」
「えっ……」
「利息の意味を知れば、次は元本を問う。それも知れば、責任を負うことになる」
すぐには言葉が返らなかった。
……もう、背負っているのではないか。
胸の奥で、そんな言葉が形になる。
「……私は」
一度、息を吸った。
「この家の収支を回しています」
父の視線が、わずかに揺れた。
「外へ出る話もなく、家の仕事を担っています。……ならば、負債も含めて把握しておくのが当然ではありませんか」
目を伏せる。
「知らないまま背負うのは……違う気がするのです」
しばらく、父は何も言わなかった。
机の上に置いた眼鏡へ目を落とし、指先でその縁をなぞる。
「……五年前だ」
低い声が落ちた。
「保証に名を貸した」
「え……」
「取引先が倒れた。連帯保証が発動した」
息が止まる。
「本来は他家の負債だったものが、この家に移った」
「そんな……」
「元本は、すぐには払えなかった。だから、借りた」
指先が冷たくなる。
「家の名を守るためだ」
「でも……そこまでして……」
「不渡りを出せば、取引は止まり、信用は落ちる」
父がこちらを見る。
「お前たちの縁談も、領地の融通も、すべてに響く」
胸が、わずかに締め付けられた。
「……だが」
父の声が、ほんの少し低くなる。
「それを背負わせるつもりはなかった」
その言葉のあと、父の肩がわずかに下がった。
机の上の灯りが、わずかに揺れていた。
◆
自領の政務室で、アーネストは書類に目を通していた。
「旦那様、お調べしました」
執事が書類を差し出す。
アーネストはそれを受け取り、目を落とした。
数行読んだところで、指先がわずかに止まる。
「……そうか」
「やはり、あの家は……」
執事が言葉を濁した。
「延命だな」
アーネストはそれだけ言って、書類を机に置いた。
やがて視線を窓の外へ向ける。
夜の闇が、領地を覆っていた。




