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黒翼の英雄〜羽撃け名もなき空へ 〜  作者: ぺぺ


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30/47

アレン陸軍省に行く

重厚な扉が閉まる音とともに、部屋の空気が静まり返った。

窓の外では、帝都の冬空が薄く霞んでいる。

陸軍省本部――石造りの巨大な建物の奥深く。

無駄な装飾のない執務室には、地図と軍旗、そして古びた勲章の額縁だけが飾られていた。

机の向こうに座る男は、静かにアレンを見ていた。

短く刈られた灰色混じりの髪、軍服の肩には少将の階級章、鋭い目つきは老いてなお猛禽のようだった。

その視線を受けながら、アレンは自然と背筋を伸ばしていた。

「はじめましてかな、白翼」

少将が口元をわずかに緩める。

男は肩をすくめた。

「どうも少将」

「英雄様がこんなところになんの御用が」

「俺の連れが、あの戦争の黒翼について知りたがっている」

男は顎でアレンを示した。

「俺はアイツの情報が欲しい」

少将の視線がゆっくりアレンへ向く。

「君が?」

「……はい」

「ずいぶん物好きなんだな」

「アイツを追って夫婦で世界中を旅する暇人だからな」

男が横から茶化すように言う。

少将は小さく笑った。

「なるほど」 

そして椅子へ深く腰掛け直す。

「で、なにが知りたい」

アレンは少し迷ったあと、静かに口を開いた。

「あなたたちにとって、あの人はどんな人だったんですか」

一瞬だけ、部屋の空気が止まった気がした。

少将は目を細める。

「……そんなことか」

その声には、どこか拍子抜けしたような響きがあった。

「彼は英雄だよ」

即答だった。

「そして、私の命の恩人だ」

アレンの指先がわずかに動く。

「あの戦争で……」

少将は窓の外を見た。

その目は遠いものを見る目だった。

「あの頃の東部戦線は地獄だった」

「毎日、何万の人が死んでいた」

「砲撃で消える部隊。補給の尽きた陣地。雪の中で凍死する兵士。空襲で焼ける街」

「勝っても死ぬ。負けても死ぬ」

少将は静かに続ける。

「当時、」私も前線にいた」

「あの時の私は、ただの一兵卒の新兵だったがな」

少将は窓の外を見たまま語り始めた。

「入隊してすぐ前線に送られた」

「最初は帝国のために戦うことを誇りに感じていたよ」

「軍服を着て、銃を持って、“祖国を守る”んだとな」

だが、と少将は小さく息を吐く。

「現実は違った」

「毎日毎日、両軍の高射砲が撃ち乱れる」

「塹壕は吹き飛ばされ、昨日まで隣にいた友は肉片になった」

「雪に血が混ざるんだ」

「白かった地面が、少しずつ赤黒く染まっていく」

「砲撃が止んだと思えば、次は機銃掃射だ」

「泥の中へ顔を押し付けながら、“次は自分か”と震える」

「勇敢さも誇りも、あっという間に消える」

「残るのは、生きたいって本能だけだ」

少将の指が机を静かに叩く。

「ある日、私の部隊は敵戦車隊に包囲された」

「補給も尽きかけていた」

「対戦車砲も壊れ、弾薬も残り少ない」

「終わったと思ったよ」

苦笑が漏れる。

「皆、死ぬ覚悟をしていた」

「すると司令部から、たった一つ無線が届いた」

少将の声色がわずかに変わる。

『飛びきりの応援を向かわせた』

「それだけだった」

「私には意味がわからなかった」

「たったそれだけで何が変わるんだ、と」

「その瞬間だ」

「隊の先輩たちが突然立ち上がった」

少将の目に、若き日の戦場が映る。

「塹壕を飛び出していったんだ」

『来るぞ!!』

『黒翼の英雄が来るぞ!!』

『突撃だ!!』 

狂気じみた歓声。

「皆、笑っていた」

「ついさっきまで死を待っていた連中が、だ」

少将は静かに言った。

「その時、初めて知ったよ」

「“希望”ってものは、人を狂わせるんだとな」

アレンの胸がわずかにざわめく。

「空が鳴った」

「最初は雷かと思った」

「だが違った」

「真っ黒な戦闘機が、空から落ちてきた」

少将の声が低く響く。

「本当に“落ちてきた”ように見えたんだ」

「雲を突き破って、真っ直ぐ地面へ向かって降下してきた」

「敵の対空砲火が空を埋め尽くしていた」

「普通なら近付くだけで蜂の巣になる」

「なのにアイツは、その真ん中へ飛び込んだ」

少将は拳を握る。

「次の瞬間」

「敵戦車が吹き飛んだ」

「爆炎が一直線に走った」

「まるで地面そのものが裂けたみたいだった」

 アレンの脳裏に、黒い機影が浮かぶ。

「敵兵たちは混乱した」

「どこから撃たれているのか理解できていなかった」

「その間にも、次々と戦車が燃えていく」

「対空砲火?」

少将は小さく笑った。

「そんなもの、まるで通じていなかった」

「黒い機体は煙の中を突っ切り、あり得ない角度で旋回し、また敵陣へ突っ込む」

「まるで空に棲む化け物だった」

部屋が静まり返る。

「その時だ」

「私は初めて、“黒翼”を見た」

少将の目が細くなる。

「恐ろしかったよ」

「味方なのに、震えた」

「人間があんな飛び方をしていいはずがなかった」

「だが同時に――」

少将の口元がわずかに上がる。

「敵軍を圧倒しているという高揚感があった」

「自分たちは勝てるんだと、本気で思えた」

「生きて帰れる保証なんてどこにも無いのに、皆走っていく」

「ここは地獄だというのに」

少将はゆっくりアレンを見る。

「それが英雄だ」

「ただ強いだけじゃない」

「絶望の中で、“まだ戦える”と思わせてしまう」

「それがカイ・ラグナーだった」

少将は小さく息を吐いた。

「あと数分遅ければ私は死んでいた」

「だから命の恩人だと言ったんだ」

静かな沈黙が落ちた。

机の上の灰皿へ煙草を押し付ける。

「私はあの時、本気で“空の怪物”を見たと思ったよ」

少しの沈黙。

「だがな」

少将の表情が変わる。

「カイ・ラグナーという男の恐ろしさは、強さじゃない」

「……?」

「アイツは、自分が死ぬことをまるで恐れていなかった」

部屋が静まり返る。

「え?」

「普通の人間はな、“ここで死ぬ”という線を持っている」

「ここから先は危険だ、と無意識に判断する」

「だがアイツにはそれが無かった」

「仲間がいるなら飛び込む」

「味方が取り残されれば戻る」

「撃たれようが、燃えようが、関係ない」

少将は低く言った。

「まるで、自分の命を最初から勘定に入れていないような飛び方だった」

男が苦い顔で煙を吐く。

「……昔からそうだった」

「だから皆、アイツの後ろを飛びたがった」

少将は頷く。

「不思議な男だったよ」

「誰より恐ろしいのに、誰より安心できた」

「彼の後ろを進んでいると、生きて帰れる気がした」

「皆、口々にこう言った」

『英雄殿』

『英傑殿』

『卓越した戦闘機パイロット殿』

「誰もが憧れた」

「空軍だけじゃない」

「陸軍も、海軍も、整備兵も、補給兵も」

「前線にいた帝国軍人なら、一度は彼の名を口にしたことがあった」

少将の指先が写真の端を撫でる。

「今でも思う」

「彼は素晴らしいパイロットだった」

その声には、純粋な敬意があった。

「我々は前線に従軍した」

「多くの仲間を失った」

「勝つために、大勢を殺した」

「そんな戦争の中で、それでも彼は味方を守ろうとしていた」

少将は静かにアレンを見る。

「全ての帝国軍の総意として」

一拍置く。

「彼は英雄だった」

窓の外で風が鳴った。

「だがな」 

少将の声が静かに沈む。

「英雄っていうのは、綺麗なもんじゃない」

「……」

「アイツは大勢を救った」

「同時に、大勢を殺した」

「それも事実だ」

アレンの胸がわずかに重くなる。

「敵から見れば悪魔だったろう」

「実際、連邦じゃ黒翼の名は恐怖の象徴だった」

「夜空に黒い尾翼を見ただけで部隊が崩れることもあった」

男が苦笑する。

「盛りすぎだ」

「いや、本当だ」

少将は即答した。

「敵を殺し、味方が敵に殺される」 

少将は静かに言った。

「そんな狂った世界の中で、彼の存在は――私の、いや我々帝国軍全員の希望だった」

そして視線を男へ向ける。

「安心してくれ、君もだよ」

男は露骨に嫌そうな顔をした。

「やめてくれ、俺はそんなもんじゃない」

煙草を咥え直し、肩をすくめる。

「それに何度も言うが、俺にはそんなもん向いていない」

「俺はアイツの隣で戦っただけさ」

少将は小さく笑った。

「それがどれだけ凄いことか、あの時代を知る者から見ればわかる」

「君も十分英雄なんだ」

「勘弁してくれ……」

男は疲れたように頭を掻いた。

部屋の空気が再び静まる。

少将はゆっくり立ち上がった。

君は黒翼を追っているんだったな」

「……はい」

「なら、まだ引き返せるぞ」

アレンは顔を上げる。

少将の眼差しは鋭かった。

「彼を知れば知るほど、おそらく君は苦しくなる」

「英雄譚だけでは済まない」

「地獄も見ることになる」

それでも、アレンは静かに答えた。

「それでも知りたいんです」

少将はしばらくアレンを見つめ――やがて、小さく頷いた。

「……そうか」

「だが、白翼、君の知りたがっている情報は、あいにく我々も今は持っていない」

男の目がわずかに細くなる。

「やっぱりか……」

「戦後、彼は表舞台からも裏からも忽然と姿を消した」

「追跡は困難だ」

少将は低く続けた。

「軍の記録にもほとんど残っていない」

「存在そのものが薄れていくように消えた」

「まるで最初からいなかったみたいにな」

アレンは静かに息を呑む。

あれほどの英雄が、世界中に名を轟かせた男が、戦後、跡形もなく消えた。

「しかし」

少将ははっきり言った。

「彼を探すなら、我々陸軍は全力で協力しよう」

男が眉を上げる。

「……いいのか?」

「彼に恩を返したい者は、この陸軍にも大勢いる」

少将は即答した。

「命を救われた者」

「家族を守られた者」

「絶望の戦場で生き残れた者」

「数え切れん」

そして少将は少し笑う。

「中には、黒翼の名前だけで酒を奢り始める古参兵までいる」

「容易に想像できるな……」

男が苦笑した。

「海軍省には私から話を通しておこう」

「皇帝陛下にも、できることなら話を通す」

「どんどん大事になっていくな」

「今さらだろう」

少将は静かに返す。

「彼を、黒翼を追うというのは、そういうことだ」

部屋の空気が静かに揺れる。

窓の外では帝都の旗が風にはためいていた。

アレンはふと思う。

黒翼を追えば追うほど、自分は“ひとりの男”ではなく、“時代そのもの”を辿っているのではないかと。

英雄、悪魔。

地獄を飛び続けた空の怪物。

だが、その名を語る人々の声には、皆どこか同じ熱があった。

恐怖ではない、憧れでもない。

もっと深く、もっと重い感情。

失われた何かを想う声だった。

少将は古い写真を見つめながら、小さく呟く。

「……本当に、どこへ行ったんだろうな」

その声は、まるで戦友を探し続ける兵士のものだった。

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