16-4
エトは居ても立ってもいられず外へと飛び出した。
まだ朝を迎えたばかりの町は人がまばらで、走る彼女の姿が際立った。それでも構わず走り続ける。
古谷がいつ頃出て行ったのかは推定すらできなかった。部屋は立つ鳥跡を濁さずの要領で綺麗になっており、手掛かりらしい手掛かりもない。だが仮にあったとして、それでもう間に合わないと判明したとしても何もせずにはいられなかっただろう。
大通り、路地裏。どれだけ駆け回ってみても彼の姿は一向に見つからない。
やがて体力が底をついてくると、気持ちも引っ張られていく。どれだけ探しても無駄なのではないかという考えが頭をもたげてきた。
狭い路地の壁に手を突き、呼吸を整える。朦朧とする意識の中で、期待と諦めの間に揺れた。
と、その時。彼女の目の前の通りを人影が横切る。
「フルヤ!」
彼女は駆けだす。
すぐに見つかった。彼女が角を曲がると、悠然と歩く後姿がある。
エトは必死に追いかけた。
「フルヤ! 待って!」
それはかつての彼女の姿と重なった。ラムーベの町で父の背中を追いかけた時の、幼き日の面影が蘇る。
「待って! 待ってよ!」
声を枯らさんばかりに叫んで、必死に追いすがる。小さい手を可能な限り伸ばした。
「置いて行かないで!」
もう二度と届くことのないと思われた背中に、伸ばした腕が徐々に迫っていく。やがてその手が服を掴んだ。
「お願いだから……もう、一緒に戦うなんて言わないから……」
呼吸を整えながら、懇願を繰り返す。
振り払われるようなことはないが、一向に返答もない。気になって顔を上げてみると。
「あ……」
それは古谷でも何でもない、見知らぬ男性だった。
「えっとー?」と、彼も困惑した様子。
「ご、ごめんなさい……」慌てて、手を離して身を引いた。「人違いでした……」
男性は何といったらいいのかわからないのか、「ああ」とか「うん」とか曖昧に言うと、そそくさと去っていった。
夢中で走り回っているうちに、町は普段の喧騒に包まれていた。人通りは多く、用事でもあるのかせかせかと行き交っている。誰もが、エトに一瞥もくれることなくすれ違っていく。
彼女はただ一人、行き場を失って、立ち尽くしていた。
*
ジュンが見つけたのは、そんな抜け殻のようになっているエトだった。
通行の妨げになることも厭わず、往来の真ん中で呆然としている彼女。時折、人とぶつかってはよろめくも、辛うじて転ばないだけの意思はあるらしく、姿勢を持ち直す。しかし謝罪も何もなく、また立ち尽くすだけだった。
ぶつかった人も、侮蔑と怪訝を織り交ぜた視線を無遠慮に投げかけて去っていく。
このまま放置はできないので、ジュンは慌てて引き連れて宿屋に戻った。それでも彼女は、まるで目の前の光景など見えていないかのようだった。椅子に座らせても、どこを見ているのか。虚空を見つめて、ぼんやりとしている。
「大丈夫?」
大丈夫ではないのは明らかだったが、他にどう声を掛けたらいいのかわからなかった。単なるとっかかりのつもりだった。
が、返事すらない。
(あの馬鹿)レンが毒づく声が頭に響く。
ジュンはそれを無視して、エトに声をかける。
「もし、故郷に帰るならレンに送らせるけど」
今度も返答はない。
「エトちゃんは、どうしたい?」めげずに話し続けた。
それが功を奏したのか、彼女はついに口を開いた。
「……わかりません」呟くように言う。
しかし、ただ一言だけ。
それが本音なのだろう。先に問いかけた二つの質問も、答えられないから答えなかったに過ぎない。故郷に帰りたいかわからないし、自分が大丈夫なのかすらわからない。
そして、これから自分がどうするべきなのかも。
「私たちは、クライカを追いかけようと思ってるの。レンの要望でね」ジュンは言った。「ね、古谷くんを追いかけたいとは思わない?」
(姉御)レンはすかさず窘める。(それは残酷ってもんだぜ)
今度も彼の発言を無視して、返事を待った。
やがて億劫そうに口を開く。
「……いいんでしょうか、追いかけても」
「いいに決まってるじゃない。ずっと二人でやってきたんでしょ?」
「でも、置いて行かれました」
「だからこそ追いかけなきゃ」ジュンは努めて明るく言った。「追いかけて、一言言ってやらなきゃ。でしょ?」
(ついでにぶん殴ってやろうぜ)と、先とは違い乗り気のレン。
しかし、打って変わってエトの反応は鈍かった。俯き気味に虚空を見つめ、黙然としている。
そしてやはりこう言うのだった。
「……わかりません」
*
その晩、エトは夕飯を摂らなかった。一日中、部屋の中に閉じこもり、かといって何をするでもなく、ぼんやりとし続けた。
父がいなくなったばかりの頃も、同じようにしていた。ラムーベの町の離れにある湖畔の家で、ひたすらベッドに寝転んでは、いたずらに時間が過ぎるのを待っていた。
別に時間が解決すると期待していたわけではない。ただ、何もしたくなかっただけだった。何も考えたくなかっただけだった。
そのため、寝ているのか起きているのか。自分でもわからなくなるくらいに、夢と現との間を行き来し続けた。
ジュンはそんな彼女をそっとしておく方針にしたようで、既にその場にはいない。だが、何かあった時にすぐに駆け付けられるようにか、隣に部屋を取っている。最悪の場合は、強硬手段も打って出ないだろう。
が、今のところエトにその兆候はなかった。
元より、彼女に自殺願望はなかった。希死念慮を抱いたことがあるとはいえ、どちらかというとそれは受け身の姿勢に近い。特別、死にたいと思っているわけではないが、いつ死んだって構わない。そう思っていた。
かつて故郷にて、魔獣に襲われる心配などせずに森の中をうろついていたのもそのためだった。
しかし、幸か不幸か彼女は今尚生きている。そして、その月日の分だけ孤独感に苛まれた。
大自然はある意味ではそんな彼女の慰めになった。生き物や植物などを観察していれば、余計なことを考えずに済む。さらに現実から逃れるようにして、偽りの探求心を燃やした。のめりこむように調べ出す。
そうして知識が増えていくと、今度は想像力が培われていく。気になることがすぐに調べられるような環境にないので、真相を知るまでは類推を重ねるしかなかったからだ。
古谷と過ごす日々は、そんな彼女の過去を肯定するかのようだった。
まるで箱入り娘のように世界の事柄に無知な彼を、自らの知識でサポートしていく。それだけに留まらず、持ち前の推理力でも彼を補助する。
そのようにして、古谷の願いの手助けをする。それが自分の役割なのだ。
しかし、そう思っていたのは自分だけだったのだと思い知らされた。
もう何度目になるか、鬱々とした気持ちが湧いてきたので彼女は目を開けた。ただ起き上がるわけでもなければ、何をするわけでもない。目を閉じているよりかはマシという理由からそうしただけなので、相変わらず横たわったままだった。
そんな彼女なので、ノックの音にも反応示さなかった。
どの道、鍵など掛かっていない。入りたければ、入ればいい。そうとだけ考えて、じっとしていた。
果たして来訪者が誰かなど気にもかけていない様子。これでジュンではなかったら、どんな目に合うか知れたものではない。
事実、尋ねてきたのはジュンではなかった。かといって、見ず知らずの他人というわけでもない。
「どうやら取り込み中みたいね?」クエシオンが正面から堂々現れたのだった。
彼女の皮肉めいた言葉には耳も貸さず、エトはその姿を認めると眠るように目を閉じた。
シオンの嘆息するような息遣いが聞こえる。それから、こちらに歩み寄ってくるヒールの足音。
「何も言わないのね? 大歓迎ってことかしら?」
「ジュンさんに見つかったら、大変ですよ」
返事をしなければ、いつまでも居座られそうな気がしたので仕方なく返した。用件があるのなら、さっさと切り出してほしかった。
「すぐ済むわ。エトちゃんの返答次第だけれど」
「……何でしょう」
「彼、追いかける気はない?」
「……彼」
誰のことを言っているのかはすぐに分かった。
が、返答しないでいると。
「エトちゃんが協力してくれるなら」シオンがさらに言った。「すぐにでも再会できるわ」
「どういう風の吹き回しですか?」
「どういう意味かしら?」
「どうして、急にそんなこと言うようになったんですか?」
「急じゃないわ、前々から私は彼に興味を持っていたの」
「では、名前を言ってください。いったい誰の話をしているんですか?」
「わざわざ言わなくとも、わかっているんじゃないかしら?」
「わかりません。教えてください」
シオンは返事に詰まったように言葉を止めた。わざわざ表情を見なくとも、彼女が今どんな顔をしているかは容易に想像がついた。
立ち込めた気まずい空気などなかったかのように、仕切り直してこう言った。
「彼に用事があるのは本当よ。つまり、私たちは利害が一致しているの。どう? 協力してみないかしら?」
何が目的か知れたものではない。エトは返事をしないでいると、シオンは諦めたように嘆息した。
「……気が変わったら、教えて頂戴」
そう言い残して、部屋を出て行く。
再び元の静寂を取り戻した夜の室内で、エトは一人思う。
(どうして、みんな同じことを言うんだろう)
誰も彼もが古谷を追いかけるべきだと言う。だけれどそれでは、彼の気持ちはどうなるというのだろうか。
夜更けの出来事だった。ジュンは隣の部屋で爆睡していたので、宿敵の気配に気づくことすらなかった。
*
街外れの丘。聳える一本の大木の足元に、長年放置されていたであろう墓石がある。誰の手入れもなく風雨にさらされ続けたおかげで、土汚れがこびりつき、それだけに飽き足らず蔦が絡まっている。
もはやそのほとんどが覆われており、そこに何が刻まれているのか、判読不可能になっていた。
しかし、その墓前にしゃがみ込み、静かに弔うものの存在がある。
黙祷を捧げるために静かに閉じられた切れ長の瞳。鼻筋の通った顔立ち。陶器を思わせる白い肌に、金糸のような髪。それらは今、月明かりに照らされて艶やかに輝いている。
一人のエルフが、祈りを捧げていた。
実に長く、ご無沙汰だった期間を埋め合わせるように。
やがて気が済んだのか、男は立ち上がる。
その時、冷たい夜風が吹いた。生えそろう草が一斉に揺れ、木も枝葉を騒めかせる。短く刈り込んだ彼の金髪も微かに乱した。
「しばらく見ないうちに」クライカは誰に言うでもなく、ぼそりと呟く。「この世界もすっかりと変わっちまったみたいだ」
彼の声は、風にかき消された。
これにて第四章完結です。第五章へと続きますが、書き溜めのため少し間を空けます。
引き続きよろしくお願いします。




