8.取り戻せた友情
そうして2人は一気に門を抜けた。マリアンヌはまるで夢を見ているような気持ちで、自分の手を引いて前を歩いている渚の背中を見た。
「ナギサ。私、泊まる用意を何もしてないわ」
「全部用意してあるよ。着替えもパジャマもそれから・・・送迎車もね!」
ふと見ると、石畳の向こう側の道路に一台の車が止まっていて、中からアレクが「やあ!」と爽やかな笑顔を向けて手を振っている。
「ア、アレク先生?」
真っ赤になっているマリアンヌの背中を押して、渚は笑いかけた。
「さあ、乗って。私の家に案内するよ!」
けたたましく鳴り響くインターホンの音に、ソファーの上でうとうとしていたピョンは驚いたように目を覚ました。玄関まで行くと、外からウィディアの声が響いてきた。
「ナギサ-!居ないのー?ったく、どこ行ったんだろう。せっかく料理作るの手伝いに来たのに・・・」
ブツブツ言いつつ、彼女は鞄の中から鍵を取り出した。
「まっ、いいけどね。合鍵もらっているから。キャッ、私ってナギサの彼氏みたい」
冗談を言いつつ鍵を開け家に入ると、玄関にピョンがふてくされた顔で座っていた。
「なんだ。あんた、居たの?ナギサは?って聞いても答えられないか。カエルだもんねぇ。あははははっ」
ウィディアの嫌味にピョンは本当に憎たらしい女だと思った。
“なんで渚、こんな奴に合鍵わたすんや”
ピョンにとってウィディアとアレクは天災のようなものだった。
キッチンに入って手を洗うとウィディアは袖をまくり上げ、やる気満々で持ってきた袋の中から材料を取り出した。
「さあて、何から作るか。って私が作れるの、フライドチキンと照り焼きチキンとタンガリーチキンくらいだけどね」
“鶏ばっかりやがな・・・”
ピョンは後ろのアイランドテーブルに乗って心の中で呟いた。ウィディアは鼻歌を歌いながらチキンを揚げ始めた。
「さて・・・と。フライドチキンはこんなもんかな」
ウィディアは油を切ったチキンを皿に盛り、ピョンの座っているテーブルの上に置いた。握りこぶしほどの巨大で熱々のチキンでは、さすがのピョンも食らいつく事は出来ず、黙って横目で見ている他はなかった。
「さて次は日本の味、照り焼きチキンね」
もうチキンはいいだろうとピョンが思っていると、彼女は冷凍庫を開けフライドポテトを見つけた。
「あら、いい物見つけた。これなら揚げるだけだから私にも出来るわ」
「・・・って、揚げ物ばっかりやん」
小さな声でふとピョンが呟いた言葉を、ウィディアは聞き逃さなかった。彼女は手からポテトの袋を放すと、ギロッと光る目をピョンの方に向けた。
「今・・・揚げ物ばっかりって言った・・・」
“ヤバイ・・・!”
思わず後悔したが時はすでに遅く、跳び上がって逃げようとしたその身体をウィディアの手は逃さなかった。
「あんた、やっぱりしゃべれたのね」
がっしりと両手で掴まれ逃げる事も叶わず、カエルは涙目になりながら首を振った。
「大体、人の言う事を理解しているってのもおかしいのよね。で?どうして黙ってたのかしらぁ?」
ギラギラと光る大きな目を近づけられたが、ピョンは恐怖で何も答えられなかった。
「そう。しゃべらない気ね」
ウィディアはにやりと笑うと、遠くを見つめた。
「そうね。まずはテレビね。名前が知れ渡ったら、雑誌の取材。ロンドンタイムズの表紙になるかも。そうなったらガッポリ儲かるわ。次は本ね。“カエルのピョン吉の一生”なんてどうかしら。それでもって飽きられて売れなくなったら・・・」
“やっぱりサーカス?”
「カエル料理を出している店に売っぱらっちゃおう。きっと高く売れるわ。ククク」
ウィディアの酷い言葉に、とうとう我慢できなくなったピョンは叫んだ。
「お前って奴はなんちゅう奴や。それでも人間か!誰がお前の思い通りになんかなるか!」
「あら、やっとしゃべる気になったのね。それで?どうしてしゃべれるようになったのかしら。放射能汚染?環境ホルモンの異常?」
渚と同じ事を言われがっくりしたが、それでも果敢に反撃に出た。
「そんなん知らんわ!どうでもええけど下ろさんかい。無礼やぞ!」
「まあ、カエルに無礼って言われるなんて思わなかったわ」
そう言いつつもウィディアはピョンをテーブルに下ろした。
「あんた、まさか本当は人間の王子様で、魔女にカエルになる呪いをかけられたってんじゃないでしょうね」
図星だ。意外に鋭いウィディアに、ピョンは内心冷や汗をかいた。
「まあさかね。どう見たって王子ってがらじゃないし!アッハハハッ!」
全く失礼な女だ。過去の自分だったら、むち打ちの刑くらいにはしてやりたい。
「お前なぁ、性格悪すぎるんちゃうか。ようそんなんでシスターなんかやっとったな」
「あたしはもう自分を抑えるのは止めたの。あの憎たらしい鉄の檻の中で14年間も縛り付けられてきたのよ。やっと解放されたんだもの。好きなように生きなきゃ損じゃない」
「そりゃそうやけど、お前のその性格の悪さがナギサに悪影響を及ぼさへんか心配になるわ」
「何言ってるのよ。あんたこそカエルの分際で、ナギサに惚れてるんじゃないでしょうね」
「だ、だっだっ誰が、何でそんな事!」
「やっぱりそうなのね!売っぱらってやる!」
「違うって言ってるやろ!」
言い合いをしながら飛び跳ねて逃げようとするピョンをウィディアが追いかけ回している所に、渚がマリアンヌとアレクを伴って戻ってきた。普通にしゃべっているピョンを見て、マリアンヌはかなりショックを受けて倒れてしまった。信仰心の強いマリアンヌには、やはりピョンが悪魔の化身のように思えてしまったのだ。
しばらくしてマリアンヌが目を覚ました時、ウィディアが心配そうな顔をして自分をのぞき込んでいる事が分かった。
「ウィ・・・ディア?」
「良かった、マリアンヌ。あのアホガエルは思いっきりぶん殴っておいたからね」
その友の笑顔が夢ではなく本物だと分かった瞬間、マリアンヌの目には涙があふれてきた。あなたとあんな別れ方をしてから、どれだけ後悔しただろう。毎晩ただ泣く事しか出来なかった。
「ウィディア、ごめんなさい。私、私は・・・」
もう許してもらえないかも知れない。それでも・・・。
「私のせいで、あなたが・・・」
「馬鹿ね。あたしは一度だってあなたのせいだって思った事はないわよ。ミシェル・ウェールズを出られて、清々しているんだからね」
「ウィディア、ごめんなさい、ごめんなさい。ずっと会いたかった」
「うん。私もよ」
涙ながらに抱き合う彼女達の様子を見ながら渚は微笑んだ。そしてピョンはウィディアに殴られて真っ赤に腫れ上がった顔をリビングでアレクに冷やしてもらっていた。
「何でお前なんかに介抱されなあかんねん」
「うるさい。僕だってやりたくないんだ。ナギサにお願いって言われなきゃね」
すっかり仲直りをしたウィディアとマリアンヌ、そして渚は3人そろってパーティの料理を作り始めた。ウィディアは照り焼きチキンを焼きながら、リビングで料理が出来るのを待っているアレクをちらっと横目で見て渚に言った。
「ところで、あの彼。結構イイ線行ってるじゃない。いつの間にあんなイケてる男、見つけたのよ」
「え?ええ?」
びっくりして答えられない渚に変わってマリアンヌが答えた。
「アレク先生はミシェル・ウェールズの先生なのよ。ナギサと同じ期間講師なのよね」
「ほお?で、2人はどういう関係?友達以上恋人未満。恋人同士。恋人以上結婚秒読み状態。さて、どれ?」
「やだぁ、ウイディアったら。アレク先生はすごく大人なのよ。私みたいな子供を相手にするわけ無いじゃない」
女の子達のひそひそ話というのは本人達にとっては秘密の話だが、他人には良く聞こえる物だ。例に漏れずリビングに居る一人と一匹の耳には、すぐ隣のキッチンから聞こえるおしゃべりは丸聞こえであった。
アレクは大きくため息をつくと、呟くように隣に居るピョンに言った。
「ほんとにナギサって鈍いっていうか・・・。(こんなにアピールしているのに)君の涙ぐましい努力にも全く気づいてないんだろうね」
「やめ。お前に同情されたら余計惨めになるわ」
その後はパーティをみんなで楽しんだ。マリアンヌはまだ少しピョンの事を怖がっていたが、アレクやウィディアがピョンと普通に話をしているのを見て安心したらしい。パーティの中盤には自分からピョンに話しかけていた。
そして皆でウィディアの揚げた巨大なフライドチキンを頬張ったり切り分けたケーキを食べたり、そしてシャンパンやワインがなくなった頃、ウィディアとマリアンヌはソファーの上で一緒に眠っていた。ピョンも自分用のベッドで大きなお腹を上に向けて寝ている。そんな彼らを微笑んで見ながら渚はアレクの為に紅茶を入れ、ソファーに腰掛けた。
「今日は来てくれてありがとう、アレク。とても楽しかったわ」
そう言った後、渚は次の言葉を少し言いにくそうに顔を伏せた。
「さっきウィディアとマリアンヌにも白状したんだけど、実は今日は私の誕生日じゃなかったの。マリアンヌを外泊させる理由を思いつかなくて・・・」
それで殊更、誕生日プレゼントは持って来ないでと言っていたのかとアレクは思った。
「構わないさ。イギリスには『White lie(白い嘘)』という言葉もあるし、それに何よりこのパーティは自分の為に開いた物じゃないんだろう?シスター・マリアンヌの為かい?」
渚はアレクの顔を見た後、手に持った紅茶に目を移した。
「ウィディアがミシェル・ウェールズを出て行ってから、マリアンヌはずっと自分を責めていたの。でもウィディアは最初からマリアンヌの事を怒ってなかったし、ウィディアが手紙をくれて今彼女が幸せに暮らしていると知った時、マリアンヌを会わせなきゃって思ったの。でも2人とも本当の事を言ったら気まずくって会えないんじゃないかとも・・・。だから私のバースデーパーティって言えば来てくれるかなって思って。2人の友情を利用しちゃったわ」
そう言って微笑んだ渚をアレクは、たまらなくかわいらしく、そして愛しく思えた。
ー やっぱり好きだよ。僕は君を・・・ ー
「ナギサ。君の本当の誕生日はいつ?」
「2月7日よ。随分先でしょ?」
渚は嘘をつくのが慣れていないのか、そんな先の誕生日なのに10月に誕生日と言った事を少し後悔しているようだった。そんな姿もアレクには、ただ心を揺さぶられる存在だった。
「亡くなった父が言っていたの。君の生まれた日は、まるで空から白い羽が舞い落ちてくるような真っ白な軽くて柔らかな雪が降っていたと・・・。それは本当に天使が舞い降りて来るようで、本当に優しくて静かで温かい夜だったと。だから私は・・・もう両親は逝ってしまったけど・・・みんなにとって、温かな存在になれたら嬉しいな。私の周りに居るみんなが、幸せになってくれるように・・・」
その時アレクは自分の中に、切なくて愛しくて、そんなどうしようもない感情が走っていくのを感じた。
「ナギサ・・・。君って人は・・・」
彼はすうっと渚の頬に手を伸ばすと、びっくりして目を見開いた彼女に顔を近づけた。
しかし・・・。
彼の唇には渚の温かい唇ではなく、ヒヤッとした冷たい何かが張り付いていた。アレクはそれを口から剥がすと、本当に嫌そうな顔でそれを見つめた。
「ピョン。どうして僕が君のお腹とキスしなきゃいけないのかな?」
「あれえ?おかしいなあ。ワイ、寝とったはずやねんけど。ちょっと酔っぱらったみたいやなぁ」
「そうかい。じゃ、ついでにカエルのアルコール漬けにしてあげるよ!」
「やかましいわ!ナギサとキスしようなんて10億光年早いんじゃ!」
「あの、ピョンちゃん、アレク。ウィディア達が起きちゃうわ・・・」
つかみ合いになっている彼らを、渚はおろおろしながら止めていた。
White lie(白い嘘)とは、罪のない嘘を意味し、相手を思いやって付く嘘、社交辞令などを指します。
日本で言う所の“嘘も方便”という事ですね。
作中でアレクがイギリスには・・・と言っていますが、イギリスだけでなく色々な英語圏でよく使われます。




