6.カクテルとダンスと思い出と
「ああ、食った食った。うまかったで」
「ふふ、ピョンちゃん。お腹ぷくぷくだね」
渚が肩の上に乗ったピョンに笑いかけた。
「本当だ。とてつもなくみっともないけど、まあ、カエルだからいいよね」
アレクの嫌味にもめげずに、ピョンは渚に尋ねた。
「次はどこに行くんや?」
「え・・・と」
この後の予定は渚も聞いてなかったので、ふとアレクを見上げた。
「この先に雰囲気のいいレストランバーがあるんだけど・・・。あ、でもピョン君は子供だからもう帰って寝た方がいいね」
それを聞いてピョンは思わず顔をしかめた。2,500年と20年も生きてるワイに向かって、何を言うてんねん、こいつは・・・。
「そうね。ピョンちゃんもう疲れたでしょ?帰って寝る?」
「うっ」
急にピョンはポロポロと涙を流し始めた。
「ワイだけ先に帰るなんて、そんなん嫌や。ワイも連れてって。あーん、あーん」
「な、泣かないで。そうね。眠たくなったら鞄の中で寝ればいいわ」
そう言って渚はピョンを両の手の平で包み込んだ。アレクはもの凄く不機嫌そうな顔で、渚の手に包まれながらこちらをちらっと見て笑っているカエルをにらんだ。
“こいつ!ナギサの母性本能に訴えるとは、悪知恵の働く奴め!”
“フッ。2,500年も生きてきたワイに敵うと思てんのか。甘いわ、若造!”
まだまだ男達の無言の戦いは続くようである。
アレクの案内で到着した店は、渚が今まで入った事のないようなシックな雰囲気の店だった。豪華な装飾の付いた両扉の前に、きちっとした黒服のボーイが2人立っていて、こちらが入るようならすぐに扉を開けてくれそうだったが、渚は戸惑ったようにその前で立ち止まった。
「あ、あの、いいのかしら。私、こんなカジュアルな格好で・・・」
「大丈夫。ナギサは何を着ても可愛いよ」
アレクが手で合図すると、2人のボーイが両側から扉を開けて渚を招き入れた。彼女の後について入ろうとしたアレクにピョンは、鞄の中から顔を出して声を潜めて言った。
「お前なぁ、女心考えたれよ。ワイやったらドレスの一着も用意しとくけどな」
「うるさい、カエル。何でも金に物を言わせればいいってもんじゃないだろ?要はハートさ」
確かに心は大事だ。それに渚が何を着ていても可愛いのは間違いないし、ここは文句を言わずに付いて行く事に決めた。
女性の従業員に、中央近くのテーブル席に案内された。各テーブルの上やバーカウンターの部分に間接照明が灯っているだけで辺りは薄暗かったが、静かな音楽も耳障りではなく、とてもくつろげる雰囲気だった。
椅子を引いて渚を座らせると、アレクは軽いつまみとカクテルを3つ注文した。
「3つ・・・?」
渚が不思議そうに尋ねた。
「そう、3つだ。ピョンも飲むだろ?」
「お、おう」
いきなり“飲むだろ?”と言われて、ピョンはアレクに名前を呼び捨てにされたのも気づかなかった。酒か・・・。そういえばカエルになってから一度も口にした事はなかった。まあ、当然だが・・・。
カクテルが来ると、アレクが「じゃあ、乾杯しようか」と言って、まず渚と2人でグラスをカチンと当てた後、今度は渚とアレクが2人でピョンのカクテルグラスに「乾杯」と言ってグラスを当てた。ピョンは渚が置いてくれたグラスを逆さまにした台の上に乗ってカクテルに口を付けた。体中がカーッと熱くなるのと同時に、意識がふわっと浮いたような感覚がした。
「ピョンちゃん、大丈夫?」
渚が心配そうにピョンの顔をのぞき込んだ。
「おお、大丈夫やで。これ、うまいなぁ」
「ピョン君のはグラスホッパー。“バッタ”という意味だ。ピョン君、好きだろ?」
「ワイはバッタなんか食えへんわ!」
「おや、そうだったのかい?じゃあ“ハエ”の方が・・・」
「虫は食わへんて言うてるやろ!」
彼らの言い合いを何とか納めようと、渚が間に割って入った。
「あ、あの。アレクのはマティーニね。ベルモットの香りが素敵だわ」
「ああ、そうだよ。カクテルの中のカクテル。まさにキング・オブ・カクテルと呼ばれ、世界中の著名人に愛されている。ジンとベルモットというシンプルな組み合わせ故、かえってバーテンダーの技量が試されるんだ」
「そうなのね。奥が深いわ」
“始まったで。雑学自慢が・・・”
苦虫をかみつぶしたような顔でピョンは再びカクテルに口を付けた。
「ナギサのは同じマティーニにチェリーブランデーを加えて、全く別のカクテルになっているんだよ。飲んでごらん?」
「ほんと。甘くて・・・それにとってもきれいなワインレッドだわ」
するとアレクは渚に顔を近づけてそっと囁いた。
「そのカクテルの名は“キス・イン・ザ・ダーク”。暗闇でするキスの味だよ」
思わず渚が赤くなってうつむいた時、テーブルの上から“ズズズズズ・・・”と低い下品な音が聞こえてきた。
「ピョン君。頼むからカクテルをすすりながら飲むのは止めてくれないか?」
「すんまへんなぁ。ワイ、知識も教養も無い、ただのカエルやさかい」
「ほんとに君は口の減らないカエルだね。どうだい、ポテトは」
そう言ってアレクがピョンの口の中に大量のポテトを詰め込んだので、ピョンは話したくても話せなくなった。
「グエグエグエ・・・」
そんな風に彼らが会話に花を咲かせている(?)と、中央のホールの奥にいつのまにかバンドが現れ、ゆったりとした音楽を演奏し始めた。所々で席に座っていたカップルが立ち上がり踊り始めると、渚はそれをじっと見つめた。ピョンは渚のその瞳に見覚えがあった。いつも眠る時に渚は両親の写真を見つめて、彼らにお休みのキスをする。その時懐かしい両親を見つめる瞳と同じだった。
温かい手が自分の手を掴んだのに気が付いて、渚はハッとしてアレクを見上げた。
「踊る?ナギサ」
ピョンを振り返ると、意外にも彼は微笑んで頷いた。渚も頷き返すと、アレクと共に中央のホールに出て踊り始めた。
「昔・・・亡くなった父と良くこうやって踊ったの。パパ、とても上手だったのよ。ママとも良く2人で踊っていたの。とっても幸せそうに・・・。いつまでも、いつまでも・・・。私、そんな2人を見るのがとても好きで、ずっと見ていたかっ・・・・・」
渚の目から涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「やだ。私、お酒なんか飲んだから・・・ごめんなさい」
アレクは渚をそっと抱きしめた。
「大丈夫。いつか君にもそうやって、ずっと踊り続けたい人が現れるから・・・」
それは僕だよ・・・って言いたいけど、こんな時に言うのはあまりにも卑怯だよな・・・。
「きっと近いうちに、必ず・・・」
「はい・・・」
その様子をピョンはじっと見ていたが、ふと顔をそらすと再びカクテルに口を付けた。
「あーあ。この腕がもう少し長かったらなぁ・・・」
渚とアレクが踊り終えて戻って来ると、散々飲み食いをしたカエルは上を向いてグーグーと眠っていた。渚は微笑むとピョンを両手ですくい上げた。
「それじゃあ私、帰るわ」
「え?帰るのかい?」
せっかくうるさいカエルが眠ってくれて、これからだと思っていたアレクは驚いたように聞き返した。
「明日も学校だし、それにピョンちゃんをベッドで寝かしてあげないといけないから」
アレクは送るよと言ったが、渚は「ここからならそんなに遠くないし、それに今日は歩いて帰りたい気分だから」と断った。
「何かあったらすぐに携帯を鳴らすんだよ。すぐに行くから」
「ええ」
出入り口まで見送ったアレクに笑顔で答えると、渚は去って行った。フッとため息をついたアレクは今度はバーカウンターに座り直した。
「ウォッカをくれないか。いや、そのままでいい」
彼は一気に酒を飲み干すと、ふと苦笑いを漏らした。
「まだ、勝てないか・・・」
道の途中でピョンは目を覚ました。ここが家に向かう道だと、ピョンはすぐに気が付いた。手の中で眠っていたカエルが動いたので、渚は彼が目を覚ましたのだと分かった。
「気が付いた?もうすぐ家だよ、ピョンちゃん」
「・・・帰って来てもうて、良かったんか?」
“もう少し、あいつと一緒に居たかったんじゃないのか?”その言葉をピョンは飲み込んだ。
「うん。生徒の前で寝不足な顔して教壇には立てないからね」
「そうか。渚はプロやな」
「そう?うふふ・・・」




