『 目が覚めたらゾンビです 』
ふと気がつくと、カエデは目を閉じて立っていた。
頬に風があたり、頭に熱を感じる。どうやら、外に居るらしい。
(あれ? なんで?)
なんだか、頭の中が徹夜明けをしたみたいにもやがかかっている気がする。
(えっと……今日は……。そう、そうです。日本への引越しです。
それで、この間壊しちゃった、リーチェのデータが直って戻ってくるのです。
だから、朝から急いで片付けて……。
そして……えっと……)
そこから先が、よく、思い出せない。
疑問に思っていると、ふと鼻がいやな匂いを嗅ぎ取る。
夏場に生サカナを、うっかりテーブルの上に出したままにした時のような匂いだ。
(ん……っ。 なんの臭いです?)
あまりの刺激に、思わず閉じていた目をぱっと開く。
人が目の前に立っていた。
身体に着ている服は、ぼろぼろに傷んでいて、腐汁や血で汚れている。
手足は、肉がそげて白い骨がむき出しに見えていた。
髪の毛は、右半分しか残ってない。
なぜなら左半分の頭がごっそりとなくなっていて、中身が見えているからだ。
「え……?」
動く死体
カエデは、その言葉を連想した。
ゲームや映画、お化け屋敷で見たことがある、ソンビそのものが目の前にいた。
「……つくりもの、ですよね?
死体が動くわけが……」
腐りかけている、死体の右足が、前に出されて地面を踏みしめた。
ぐちゃり
生肉と石が混ざり合って擦れたような、湿っていやな音がなる。
目の前の死体が、一歩前に歩いたのだ。地面に不潔そうな汁が、振りまかれる。
その動きは、緩慢で不自然で、見ているだけで胸の奥から吐き気がこみ上げてくる。
「……ひっ!?」
風が吹き、鼻につんと新鮮な臭いが漂ってきた。
「けふっ!? けほ、けほっ」
あまりの臭いにむせて咳き込む。おもわず、手袋で口元を押さえた。
涙までこぼれてくる。
(ゆ、夢じゃないのです!? 本物なのですか!?)
何がなんだかわからない。周りを見る余裕さえない。目の前のものから意識を外せない。
にちゃり。
立ったまま動くことが出来ないカエデに、ゾンビがもう一歩と近づいてきた。
すでに手を伸ばせば、触れることができそうな距離だ。
――襲われる
「う、うわ!? わわわわ!?」
そう気がついた瞬間、膝から力が抜けてしまい、冷たい石の床に、すとんと座り込む。
ばさっ
「ひっ!?」
座ったときの服の違和感に、びくりと背筋が伸びた。恐る恐る自分の格好を見る。
腕には藍色の長手袋。下を向いて足を見ると、白いローブの裾がひろがって、足を隠している。
いや、見えた。裾には、大きな切れ目があり、そこから白い太ももと、グローブと同じ色の長靴下らしきものがちらりと見える。
履いているのは、踝まである皮製のショートブーツだ。
「な、ななに、これ?」
見覚えがない格好をしていることで、混乱に拍車がかかる。
一体何が起きているのか、わからない。
いや、それを考える余裕すらない。
「ヴゥアァア」
低く重い声をゾンビが発した。映画とかで聞く、あの不快で気持ち悪い声だ。
「あ、ああ……」
膝に力が入らない。座ったまま立ち上がれない。だが、ゾンビは近づいてくる。
それでも、離れようと、カエデは座り込んだまま、ずりずりと手とおしりをつかって後ろに下がる。
手を着く場所が唐突に消えた。
「きゃっ!?」
そのままバランスを崩して、まるでベッドから落ちた様に、一段低い場所へ落下する。
どうやら、今までいた場所は、石でできた一段高いステージのような場所だったらしい。
「うう……」
だけど、そのお陰で目の前のゾンビから、離れることができた。
呪縛から逃れたように、ようやく周りを見る余裕が、カエデに戻る。
「こ、ここは……」
立ち上がりながら、左右を見渡した。
遠くの山々と、まばらな森、岩だらけの荒野が広がっていて。目の前には、石でできたステージがあり、そして。
ゾンビがいた。
右のほうにも。
左の方にも。
遠くにも。
近くにも。
もちろん今、落ちた舞台の上からもゾンビが見下ろしている。
「……っ!?」
ぞくっと背筋に、寒気がはしる。
ゾンビの一匹が、人間の腕を加えていた。まるで犬が骨をくわえる様に。
カエデは、すぐに視線をそらさなかったことを後悔した。
その腕は、とても細くて白く、おそらく若い女性、自分と同じくらいの少女の腕だと、気がついてしまった。
思わず右腕を左手でつかみ、そこにあることを確認する。
「あ……あ、ああ……」
喉が急激に渇いていく気がする。耳元でごうごうと血が流れる音がしてうるさい。
ごきゅり。
ゾンビがくわえていた、腕が噛み砕かれて二つに折れた。
「わぁぁぁっ!?」
感情が爆発した。
とにかく走る。
(ありえない、ありえない、ありえない、ありえない……っ)
頭の中で声がこだまする。
それは自分自身の声だ。
現実にゾンビなんていないわけがない。
死体は動かない。
動かないから死体だ。
だが、目の前にいる。動く死体がいる。
そいつらは、汚い口をあけて、襲い掛かってくる。
「うあぁぁぁぁぁっ」
逃げる。ひたすら逃げる。
膝がふるえる。
冷たい汗が止まらない。
それでも、必死に走る。
「だ、だれか……たす、け……」
見えるのは、荒れ果てた荒野と山々だけ。
人どころか、電話ボックスも、アスファルトの道もない。
どこからも助けは無い。
どちゃ
「ひうっ!?」
舞台下の曲がり角を曲がったときに、湿った音を立てて、何か冷たいものにぶつかる。
ぐじゅうぅ
もつあうかのように一緒に倒れこみ、右手が何かを潰した。
顔に何かの汁が飛び散ってくる。
「あう、う……」
カエデは、身体を起こしながら、何にぶつかったのか、確かめた。
ゾンビだ。ゾンビがつぶれている。手が、その頭をつぶして。目玉がこぼれていて。
「うぷっ!?」
思わず口から、戻しそうになる。
けれど、後ろから他のゾンビが追いかけてきているのだ。
戻す暇などない。
「に、にげ、にげ……」
必死に吐き気をこらえて、這うようにたちあがり、また駆け出す。
がりゅごり。
後ろから、食事の音が聞こえてくる。
(ボクも……追いつかれたら……食べられるっ)
走りながらも、涙が、よだれが、鼻水がこぼれる。
腕で顔をぬぐうけれど、その腕自体が、汁で汚れていた。顔がまだらに汚れてしまう。
だけど、それを気持ち悪いと思う余裕も既にない。
「ひっは……っ」
後ろのゾンビを気にしながら、必死に走る。
それが不味かった。前に何かがいたことに、気がつかなかったのだ。
ドンッ。
何かにぶつかり、そのままカエデは、地面に転がる。
さっきのゾンビとは、明らかに違う。もっと丈夫で弾力がある何かだ。
「はあ……はあ……」
恐怖と急激に走り回ったことで、息が上がっている。胸が痛い。足が痛い。
それでも、目の前にいる何かへの恐怖から、カエデは、ゆっくりと顔をあげて見上げた。
巨大だった。
巨大な人間がいた。
いや、人間じゃない。なぜなら、その頭は牛そのものだったのだから。
(ミノタウロス……!?)
ゲームで、見慣れたモンスターだ。何度も何度も戦ってきた。
だが……目の前にいるのは、作り物なんかじゃない。ゲームでもない。肉体からは、生命の鼓動が、目からは殺意をこめた意思が湧き出ている。
見つめているだけで、嫌悪と恐怖で身体が、震えて止まらない。気持ちが死んでいく。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
絶叫。金切り声。黄色い悲鳴。カエデは、喉が裂けそうになるほど叫んだ。
そんな叫びを気にもせず、ミノタウロスは、たくましい腕を伸ばしてきた。
カエデは、叫びながら四つんばいにはって、逃げようとする。
「あぁぁぁっ!?」
間に合わない。カエデの細い足が、少女の腰よりも太い腕でガッチリとつかまれた。
そのまま、まるで砲丸投げをするかのように、ぶうんっと、振り回される。
「ひぃあぁぁぁ!?」
カエデの視界が激しく動き、青い空が見える。
ミノタウロスの頭上にまで、振り上げられたのだ。
『汝に挑戦の資格なし。出直すがいい』
そんなバリトンの声が聞こえた気がした瞬間、カエデの身体は宙に舞った。
ミノタウロスの後ろにあった、崖へめがけて、放り投げられていた。
「きゃあぁぁ~~~!?」
ぐるんぐるんと体が回る。ゾンビたちの上を越えて、崖へと飛んでいく。
「ああぁぁぁぁぁぁ」
やがて彼女の体は、下へと引っ張られる。崖下の地面めがけて落ち始める。
人間は空を飛ぶことはできない。それは、当たり前の現象だ。
その当たり前にカエデは、どこか安心を覚えた。
ここは、けしてルールも何も無いめちゃくちゃな場所ではないのだと。知っているルールがある場所なのだと。
だがそのルールゆえに、カエデは地面にぶつかり、死ぬことになる。
助かるような高さでは無かった。
(……死んじゃうのですね)
一度、そう考えてしまうと、なぜか真っ白だった頭の中がすっきりと晴れる。
諦めに似た、覚悟が出来たのかもしれない。
落ちながら、身体がゆっくりと回転して、周りの風景が見える。
なだらかに続く山々。生えている木々は低くうっそうとしていて、岩だらけの山肌が白い。
それは、どこか懐かしい風景。
(ああ、そうでした……)
小さいころに、家族でキャンプに出かけた国立自然公園に良く似ている。
これが走馬灯なのかもしれないと、カエデは思った。
だんだんと近づいてくる地面。
そこには、かすかに光るキノコが輪を作って生えている。
その不思議で、どこか神秘的な様子に思わず笑みが浮かんだ。
(あれは、公園には無かったですね。
あれじゃ、まるで〈妖精の輪〉なのです)
その輪をくぐると異世界に行くことができる、そんなおとぎ話を最後に思い出して。
カエデの意識は途切れた。