第5話 ここにいる男
柴田の顔色が瞬時に失われ、紙を掴む手が激しく震え始める。そこに書かれていたのは遺族への謝罪などでは断じてなかった。それは、言葉で紡がれたおぞましい惨劇の描写だった。そしてそれは、つい先ほど外で発生したばかりの大量殺戮の手口、被害者の数、現場の情景と、恐ろしいほど細部に至るまで完璧に一致していたのだ。
「なんなんだ……これはなんなんだ僕に説明しろ!」
柴田の怒号が部屋に響き渡る。説明を聞き、柴田の手に握られた原稿を見つめるうちに、僕の頭の中にあった曖昧な霧が完全に晴れていった。
僕の書いた言葉が。僕の思考が。僕という実態を伴って、間違いなくこの世界で恐ろしい犯罪を犯しているのだと、ここでようやく完璧な確信に至った。紙の上の文字は、もはや単なる記号ではない。僕の思想が現実を書き換え、もう一つの実体を生み出して殺戮を重ねていたのだ。僕の手の中で、小説はたった今、最後のひとくくりを終えたところだった。
僕はゆっくりと顔を上げた。刑事たちの歪んだ顔、看守の怯えた視線が僕に集まっている。僕は静かに鉛筆を置き、荒廃した心の中に一筋の諦念を抱きながら、目の前に立つ柴田を見つめた。
「僕はここにいました」
その言葉は、奇しくも僕がたった今完結させた犯罪小説の、最後の結びの言葉と全く同じだった。あまりの異常さに柴田は言葉を失い、青ざめた唇を震わせながら呟いた。
「……この紙の上に、街が一つ殺されている」
だが、本当の悪夢はここからだった。僕の視線が柴田らの背後を見やるのと同時に、廊下の闇から気配もなく滑り込んできた「誰か」がいた。
閃光のような刃の軌跡が走る。次の瞬間、血の飛沫が狭い部屋の壁を赤く染めた。
「がっ……!?」
柴田の叫びは声にならなかった。湾曲したナイフが、柴田の喉元を正確かつ瞬時に切り裂いていた。間髪を入れず、傍らにいた他の刑事や看守の坂井の首筋にも鋭い刃が走り、彼らは喉を押さえたまま、大量の血を吹き出して崩れ落ちた。圧倒的な殺傷能力と容赦のない暴威。留置所の床は、一瞬にして血の海と化した。
返り血を全身に浴びたその男は、ゆっくりと倒れた体を押しのけ、鉄格子の内側にいる僕と対峙した。僕と瓜二つの顔、狂気と渇望に塗れた瞳をした「主人公の僕」だ。
男は静かに微笑むと、血に濡れた湾曲したナイフの柄をこちらに向け、鉄格子の隙間から差し出してきた。
「君が主人公の僕を殺せば、この物語は完結できるよ」
その声は、僕の頭の中でずっと響いていた思考そのものだった。小説の中の怪物が、僕という創造主に終わりを求めているのだ。彼を消し去り、この惨劇の連鎖を断ち切る方法はただ一つ。僕自身の手で、この物語の決着をつけること。
僕の胸に、激しい全能感と耐えがたい絶望が同時に押し寄せた。
「あああああっ!!」
僕は狂ったような叫び声を上げながら、差し出されたナイフの柄を力任せに奪い取った。鉄格子の向こう側に立つ、自分自身とまったく同じ姿をした「主人公の僕」の胸へ向け、渾身の力でその刃を突き立てた。
肉を断つ嫌な手応えが手に伝わる。男は血を吐きながらも勝ち誇ったように微笑み、その存在はまるで霧が晴れるように、ゆっくりと僕の視界から崩れ落ちていった。残されたのは、血の海の中に静まり返る留置所と、ナイフを握りしめて立ち尽くす大量殺戮者となった僕がいた。(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
物語が現実を蝕んでいく怖さと書き手の葛藤を描く中で、全体の構成やラストシーンの表現には最後まで試行錯誤を重ねました。
読み終えた皆様の心に、納得のいく余韻が残っていれば幸いです。
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