2.過去(中)
「ヤオディミスは魂を作るのよね。私は、言葉を作れるようになったみたいなの」
奏桜はとても嬉しそうに破顔した。相変わらず視力はないが、昼間であっても起きている時間が増えてきて、以前より活発に、そして笑顔で過ごすことが増えた。昼夜が完全に逆転することはなく、普通の人々と近しい生活リズムになっていた。
しかし、人と関わる時間の増えた奏桜はある日の昼間、複数の男たちに襲われた。昼間の奏桜に視力がないことを、彼らは知っていた。
危うく輪姦されそうになった奏桜だったが、偶然にもその現場に居合わせた一人の青年が、問答無用で奏桜から男たちを引きはがした。邪魔された男たちは青年に殴りかかったが、全員あっけなく返り討ちにされてしまった。
「あ、ありがとうございましたっ」
助けてくれた青年に、奏桜は震える声で礼を言った。
「お前は目が見えないのだろう。むやみに歩かない方がいい」
青年はぶっきらぼうに吐き捨てた。この時、奏桜はふたつのことに憤った。
「よっ、夜なら少し、視力はあります! それと、〝お前〟って呼ばないでください」
「そうか。悪かったな」
むすっと拗ねた声で言ったのに、青年はすんなりと謝った。最初に感じた愛想のなさと、思いのほか優しかった謝罪の声のギャップに、奏桜の胸は生まれて初めて高鳴った。
「あのっ!」
「なんだ」
「お、お名前……あっ、私……私は、奏桜といいます。あなたは……」
「ブランドンだ」
芯の強さを感じさせるバリトンボイス。ほんの少しゆっくりと話す、鷹揚な口調。
奏桜の目にブランドンの姿は映らないが、たくましくて頼りがいのあるブランドンの雰囲気に、奏桜は妙に緊張した。
「ヤオディミス、今日あったこと、聞いてくれる?」
奏桜は、いつもヤオディミスと語らっている夜の湖畔に来るなり、熱のこもったため息をついた。そしてブランドンとの出会いを語った。
それからも奏桜は、昼間のうちにブランドンと会話をすることがしばしばあった。
生活リズムが普通に近付いたとはいえ、昼前に物が見えない奏桜はやはりまだ、どちらかというと主な生活は夜に行い、昼間は寝ていることも多かった。そのため、ブランドンと過ごせる時間は短く、回数もそう多くなかったが、それがどんなにわずかなものであっても奏桜の胸を熱くさせた。
「ねえ、ヤオディミス。私、とても不思議な気持ちなの」
ヤオディミスが司る夜の時間がくるたびに、奏桜は切なくなった。
夜が嫌なのではない。ただ、この時間帯のブランドンは当然のように寝ている。昼間に会うことはできても、夜の奏桜は一人ぼっちだ。慣れたと思っていたはずの孤独が、日々苦しくなっていく。
そんな奏桜の変化を、ヤオディミスは少しばかり複雑に見つめていた。しかしやがて決意をすると、カオディリヒスにある相談をした。
ヤオディミスは闇の神様だ。光の神様カオディリヒスが支配する昼間には活動できない。もしも奏桜がまた昼間に襲われたとしても、ヤオディミスにできることはない。
けれど、ブランドンという青年ならば――。
彼なら、きっと奏桜を守れる。守ってくれる。ヤオディミスにはできないことを、彼ならできる。
そこでヤオディミスは、自分が奏桜に四分力を授けたように、カオディリヒスもブランドンに四分力を授けてくれないかと頼み込んだ。彼が奏桜を守れるようにと。
妙な相談をしてくるヤオディミスに、カオディリヒスは戸惑った。ヤオディミスが一人の少女に自分の力を与えたことにも驚いて呆れたものだが、またその少女がらみで、今度は自分にまで厄介なことを頼むとは。
カオディリヒスはヤオディミスに協力するためではなく、むしろその協力依頼を断るために、ブランドンという青年に接触した。明るい光の下で日々勤勉に働く彼の第一印象は、悪いものではなかった。
「光の神様カオディリヒス? あんたが?」
ブランドンはこの世界を創った神様が相手でも、堂々とした態度だった。決して低姿勢に出ることはなく、あくまでも対等であるかのように対応した。
「悪いが、遠慮させてもらう。神様の力なんて大仰なもんは受け取れねぇよ」
神の力をやる――その代わりに、こちらの頼みをひとつ聞いてほしい。カオディリヒスのその申し出を、ブランドンはあっさりと断った。それはカオディリヒスにとって、想定外の事態だった。
矮小な人間はみな、神の力を心の底からありがたいと感じ、そしてあわよくば自分も欲しいと思うものだ。そんな先入観がカオディリヒスの中にはあった。だから、ブランドンが力欲しさにあっさりと頷くようならば、カオディリヒスはその浅ましさを理由にヤオディミスに断りを入れるつもりだった。彼は奏桜という少女を守りなどしない。ただ神の力を欲しがるだけの強欲な人間だ。そんな人間に光の四分力を与えることはできないと。
「力は要らん。けど、何か困っているのか」
ブランドンのその言葉は、ますますカオディリヒスにとって想定外だった。
頼みを聞いてほしい。つまり、カオディリヒスが何か困っているとそう解釈したブランドンは、神であるカオディリヒスを心配したのだ。
その時カオディリヒスは、ヤオディミスがなぜ奏桜という少女に執着しているのか、理解できた気がした。
自分たちが創った広い広い世界にいる、これまた自分たちが作り出したあまたの生物たち。そのひとつひとつの存在は、神にとってはそう大きな意味を持たない。生物の寿命は短く、感じ取る時間の尺度も神とそれ以外の生き物とでは全然違う。
本来なら特別に気に留めることはないはずなのだが、ヤオディミスは奏桜が、そしてカオディリヒスはブランドンが、いたく気に入ってしまった。その純真さゆえか、はたまたその誠実さゆえか、たった一人の人間の個に、神たちは夢中になってしまった。
「おい!」
カオディリヒスはブランドンの返事に反して、己が力の一端である光の四分力を彼に与えた。そして、ヤオディミスと同じことを願った。どうか、奏桜を守るように。彼女と共に、神の力を持つ者として人々を守り、支えるようにと。
「ったく……仕方ねぇな」
カオディリヒスの力と想いを受け取ったブランドンは、渋い表情をしながらも頷いた。
そして、神様から力を授けられた者同士、奏桜とブランドンは以前よりも言葉を交わす回数が増えた。非力な奏桜が再び男たちに襲われることがないように、ブランドンは奏桜を守った。
二人は、自分たちは神様から力をもらったのだと、あえて吹聴することはしなかった。だが、その力をあますことなく使った。奏桜が新しい言葉を作り出し、その言葉をブランドンが実現する――想像と具現の営み。その積み重ねによって人間の文明、文化は急速に発展し、豊かで便利なものへと変わっていった。
「ブランドンさん。私、あなたが好きです」
先に告げたのは奏桜の方だった。今にも死んでしまうのではないかと思うほどに奏桜の心臓は高鳴り、緊張と恥ずかしさで頬は真っ赤に染まっていた。
「私は昼間に視力のない、欠陥品の女です。でも、あなたを好きでいさせてください」
それだけでよかった。奇妙で不自由な眼を持つ自分は、彼には不釣り合いだ。でも好きでいさせてほしい。それだけでいいから。
奏桜のささやかなその望みは、逆にブランドンには物足りなかった。
「視力なんて関係ない。いいんだ、奏桜。俺も君が好きだ。ずっと一緒にいてくれ」
ブランドンはそう言って奏桜に口付けた。思いもしなかった返事と初めての口付けのせいで、奏桜の顔は水をかけたら蒸発しそうなほどに熱を持った。
ブランドンが奏桜を「お前」と呼んだのは、後にも先にも初めて出逢った日の最初だけだった。彼女からお願いされたとおり、彼は生涯、奏桜を「お前」と呼ぶことはなかった。
「私、夜が好きです。でも、今は昼間も好き」
ブランドンと共に過ごすようになってから、奏桜はますます昼間にも生活できるようになった。夜の方が多少なりとも視力があるので活動しやすいが、昼間もブランドンが手助けをしてくれるので、見ることの能わない生活でも苦ではなくなっていた。そのため、奏桜が夜に散歩する頻度も時間も少なくなっていった。
ヤオディミスは夜の湖畔で奏桜と語らえないことを寂しく思ったが、彼女が友達だと呼んでくれた異形の生物を次々に作り出して、彼らと共に昼間の訪れをゆるやかに待った。
「私、きっと認めたくなかったんです。本当は、この眼が嫌……。夜ならぼんやりと見えるけど、でも夜に私はひとり……独りはいやなの」
ブランドンに出逢ってようやく、奏桜は己の中にあった孤独感を自覚した。誰かと一緒にいる喜びを知って初めて、誰にも気にかけてもらえない疎外感を怖いと思った。ふいにおとずれる胸の痛みを癒してくれる存在の大切さを知った。
「大丈夫だ、奏桜。君は一人じゃない。俺がずっと傍に、隣にいる」
ブランドンの大きな手のひらが奏桜の肢体を包み込む。闇の中でぼんやりとだけ見えるブランドンに、奏桜も夢中で手を伸ばした。
そして次の日、奏桜は驚きで声が出なかった。
「見え、る……私、見えてる! これが……これが、世界……っ」
外は明るく、光の神様カオディリヒスがいる時間帯だ。それなのに、奏桜の視力ははっきりと室内の物の輪郭を、外の木々の葉の瑞々しい緑色を、そして――。
「ブランドンさん!」
――愛する人の精悍な顔付きを、明かりの中にとらえることができた。
その日から、奏桜とブランドンの役割は少し変わった。互いに、これまで行使していた神様の力に変化が起きたようだった。それがどういうことなのか理屈はわからなかったが、昼間でも普通の視力で物を見ることができるようになった奏桜は、すっかり周囲の人と同じ生活リズムになった。
奏桜とヤオディミスの夜の語らいは、彼女がブランドンと親しくなってから少なくなっていたが、皆無というわけではなかった。しかし、眼が正常になってからの奏桜は普通に夜を寝て過ごし、昼間に活動した。奏桜にとっての闇は、ヤオディミスとの交流の時間ではなく、すべての生物と等しく休眠の時間になったのだ。
奏桜との逢瀬がなくなってから、ヤオディミスはやけに時間を長く感じた。異形の生物たちと戯れても、むなしさは一向にまぎれない。あまりにもつらいので、カオディリヒスに頼んで、ある一定期間は昼間の時間を長くしてもらい、夜の自分の時間を短くしてもらったほどだ。ヤオディミスも奏桜と同じように、かけがえのない存在に出会い、そしてその存在との距離が遠くなって初めて、孤独や寂寥感を知った――。
「おい、ヤオディミス。オレにも四分力をくれ。奏桜をまた、闇夜に連れ戻してやるよ」
――だから彼の口車に乗ってしまったのだ。
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