5.離別(下)
もう、あたしは傍にいられないけど。
あなたを守ることも、あなたのために戦うことも、何もできないけど。
ピラーオルドのこともまだ、終わっていないけど。
(ごめんね……最後まで……一緒に、いられなくて)
馬龍たち三人は逃げた。オリジーアを襲うつもりだ。なんとかして彼らを止めないと、きっと良くないことが起きる。アルソーの村、自分の故郷。そういえばそこにも怪魔がたくさん押し寄せたと言っていた。家族は無事だろうか。
不思議だ。紀更といる時は紀更のことで頭がいっぱいだったのに、紀更と別れた今になってようやく家族のことを思い出すなんて。
(薄情かな……でも、紀更様があたしの……すべて、だった)
だから祈らずにはいられない。
ピラーオルドのことをすべて無事に終わらせて、どうか怪魔の存在しない世界になって、それでも紀更が、操言士として頼られて愛されて、幸せに生きていってほしいと。
(ああ、あたし……言従士で……よかった)
紀更のために過ごせた。最期に紀更を守って死ねた。なんて、なんて幸せに生きられたんだろう。紀更を残してしまうことはとても心配で寂しいけれど、きっと大丈夫。紀更の言従士なら、まだマークがいる。
(それに、傭兵さんも……)
忘れもしない、ポーレンヌ城下町でのこと。紀更という、自分が求めていた操言士を見つけて喜ぶ一方で、彼女の近くに我が物顔で立っている黒髪の男に嫉妬のような気持ちを抱いた。
――あなた、紀更様の何なんですか。
――なんだよ、その質問。訊いてどうする。
思えば、あの時からきっと気が付いていた。
この男は紀更を好きで、そしてきっと紀更も彼のことが好きで、二人の間に自分の入る隙間はない。操言士と言従士だけれど、紀更が本当に必要とする人生の伴侶は自分じゃなくて彼なんだと。
(ああ……だから似てる、って……思ったのかな)
何かを、誰かを、わけもわからず探し求めていた衝動。
それを見つけられた喜び、出会えた幸せ、もう迷わなくていい心強さ。
魂が求めていた主。言従士にとってたった一人の操言士。
彼もそうだった。似ていた。同じだった。
それは、なぜ?
――それ……要らない……。
忘れたもの。
どこに。何を。
持ってくるはずだったのに。
それでもいいのですか。
――いいよ。だってきっと、それでも幸せに生きることができると思うから。
神様の力に頼らないあなたの尻拭い。
過酷で悲しい役目だと言われたけれど、全然構わなかった。
だって幸せに生きられると、そう思えたから。
(そう……そっか……)
形を失い、透明になって消えゆく寸前に紅雷はやっと気が付いた。
(あたしが……生まれた、わけ……本当の、役目は……)
でも、それにはまだ足りない。あたしは半分しか持っていない。
(そっか……じゃあ、きっと……――も……)
紅雷は黒髪の傭兵を思い描き、強く願った。
ピラーオルドをなんとかしたいと望む「操言士紀更」の意志を、どうか自分の代わりに支え助け、彼女と共に終着点へ行くことを。そしてその先もずっと、紀更を守ることを。
(あたし、の……紀更様の……ために……)
あげるから。
あたしが持っていた、この力を。
あなたに……。
◆◇◆◇◆
「っ……くっ……紅雷……こうらいっ」
紀更の涙と嗚咽は止まらない。静かに息を引き取った紅雷の顔には、幾粒もの紀更の涙が落ちていく。
ユルゲンは紀更には声をかけず、腰鞄から小さなナイフを取り出すと、紅雷にかけた自分の外套を適度な大きさに裂いた。それから、紅雷のツインテールの片方を掴み、なるべく根元から長く切る。
「なっ……何するんですか!?」
ユルゲンが突然暴挙に出たように見えて、紀更は悲鳴にも似た声を上げた。しかしユルゲンは無表情のまま、裂いた外套で紅雷の髪の毛をくるむ。そして決して中身が飛び出ないように慎重に外套を結んで、それを腰鞄の中にしまい込んだ。
「行くぞ、紀更。ここを出るんだ」
「出るって……でも、紅雷が」
「紅雷は置いていく。早くしないと俺たちが生き埋めになるだけだ」
「そんな……っ」
紅雷が――仲間が目の前で死んだというのになぜ眉ひとつ動かさず、動揺せずにいられるのだろう。いつもなら落ち着いて冷静に見えるユルゲンの態度が、今の紀更には冷酷に見えて仕方なかった。
「おっ、置いてなんかいけません!」
「君は紅雷を抱えて走れるのか。無理だろう? 俺にも無理だ。君を守りながら脱出するなら紅雷は連れていけない」
「でも……でもっ!」
自分をかばって亡くなった紅雷を、どうして異国の地下に置いていかなければならないのだろう。彼女の故郷であるアルソーの村は無理でも、せめてオリジーアに連れ帰って弔ってあげたい。そう思うことはいけないことだろうか。
「ユルゲン、隠し通路があった! 坂道だから、たぶん地上に出られるはずだ!」
そこへ、退路を探しに行っていたマークが戻ってきた。
「行くぞ、紀更」
「い……いやです!」
紅雷と、そしてライオスの遺体も無視してユルゲンは紀更をうながす。しかし紀更は首を横に振った。
「いか、ない……紅雷とっ」
――ガシャアアアアン!
その時、ひときわ大きな音がして玉座の間の天井の一部が崩落した。地響きが鳴り、体重の軽いマークの身体はいとも簡単に揺れの衝撃でふらついた。
「紀更!」
「だめっ! 紅雷を置いていけない!」
「紅雷が最期になんて言ったか、聞こえなかったのか」
怒りに震えたユルゲンの低い声に、紀更ははっとして息を止める。
「止まるな、敵をなんとかしろ。紅雷はそう言って死んでいった。紅雷が死んだのは、ピラーオルドを止めたいという君のその意志を守るためだろうが!」
座り込んでいる紀更を見下ろして、ユルゲンは唾を飛ばしながら怒鳴った。
ユルゲンに怒鳴られた衝撃か、それとも紅雷の最期の言葉を思い出したからか、紀更は嗚咽を呑み込み、目を閉じた紅雷の安らかな死に顔を見つめた。
「カギソや馬龍、奴らがどこに向かったか忘れたか! オリジーアだぞ! ライアン王を殺して四分力を手に入れるつもりだ! 君はそれを止めるためにここまで来たんだろう! 操言士としてオリジーアを守るために! 立て!」
ユルゲンは紀更の二の腕を掴むと、無理やりに引っ張り上げた。地べたに横たわっている紅雷と紀更の距離が、一気に遠くなる。
「紅雷っ」
「マーク、案内しろ。地上へ出るぞ」
「あっ、お、おう。こっちだ」
紅雷の死と、紀更の涙。それと、紀更に怒鳴りつけるユルゲンの迫力。そのすべてに気圧されて、マークは心ここにあらずといった表情で頷いた。それでも、見つけた道へと二人をしっかり案内していく。紀更はユルゲンに腕を掴まれたままなので、まるで悪人が連行されているように見えた。
階段を上り、玉座の椅子を無視してそのうしろに進むと、上った以上に深く下りるための階段がそこにはあった。
「下りか?」
「この下りた先を進むと上り坂に出るんだ」
ユルゲンが訝しげに階段を睨むと、マークは弁明するように早口で答えた。
「マーク、先に行け」
ユルゲンにうながされて、マークは階段を下りる。そのあとを、ユルゲンは足取りのふらつく紀更の二の腕を掴んだまま慎重に下りた。
マークの言うとおり、下りた先には細い通路があり、しばらくしてその通路はゆるやかな上り坂になった。その坂道を上っていると、時折、ピラーパレスが崩れ落ちていく音が聞こえてくる。崩壊の揺れによって三人の身体はたびたびふらついた。しかし、ユルゲンは気を抜かずにまっすぐ進んだ。紀更は、涙は止まったようだが喋る気力はないらしい。ユルゲンがかなり強く腕を掴んでいるにもかかわらず、文句もなくとぼとぼと足を動かしている。
ほどなくして、上り道の先から新鮮な風が吹いてきた。とはいえ、それはサーディア国内にただよう、息苦しさを覚える重苦しい風だ。
「無事に出たな」
薄曇りの空は暗い。体感では日没までまだ少し時間があるはずだが、もとより暗いサーディアの空はどんよりとしており、陽が沈んでもう夜になってしまったように感じられた。しかも、あたりの不気味な暗さはどんどん増している。
ユルゲンが周囲を見渡すと、徐々に濃くなっていく暗闇の中、だいぶ離れた場所にサーディアの王城が見えた。自分たちが入ったピラーパレスの入り口の扉と城の位置を考えると、ここはイェノームの西の外れにあたるようだ。
「王黎たちと合流したいが、どうするか」
ユルゲンが険しい表情で呟いたその時だった。




