第2章 月
1
「それで、公爵様はあなたをどうなさいましたの?」
「もちろんそのまま、寝台に押し倒されてしまいましたわ。あの方ときたらそれはもうお激しくて、こちらが気絶してしまいそう」
「わたくしもですわ。あの方、澄ました御顔で、あちらの方は結構お好きでいらしゃるから」
「公爵様が、寝台に引き込んだ御婦人は数知れず。そのくせどなたとも、長続きなさった例はないのですから、あの方と結婚しても、心配の種は尽きないことでしょうね」
三人の貴婦人達は聞こえよがしに、アウグストの噂話を続けている。
そばの長椅子に腰掛けているマリアの手は、先程から震えが止まらなかった。その日、王妃専用の応接間に集まった、高位の貴婦人達の視線は、やはりマリア一人に集中していた。
「お待たせさせてしまってごめんなさいね、皆様。さあ、お茶会の続きを致しましょう」
所用で呼ばれていた王妃カロリーネが、ようやく戻ってきた。貴婦人達が慌てて腰を屈め、マリアも立ち上がった。
「ああ、マリア。あなたはいちいち、挨拶しなくても宜しいのよ。まだ御身体が本当ではないのだし、それにあなたは、わたくしの妹なんですもの」
カロリーネはマリアを促して、一緒に長椅子に腰を下ろした。
「あなたに、余計なことを吹き込む輩がいるようね」
扇越しに、王妃に睨まれた三人の貴婦人は、こそこそと部屋を出て行った。
「気にすることなくてよ、マリア。あの人達は、あなたが羨ましくて仕方がないだけ。あなたを妬む前に己自身が、アウグスト様の御相手になるような価値もないということを、よく覚えておくことね」
俯いたままのマリアに、カロリーネが言った。
「あの人達が何を言おうと、アウグスト様の今の御心を占めているのはマリア、あなただけ。だからわざわざわたくしのお茶会にまで、あなたの送り迎えをなさる」
マリアが顔を上げると、そこにいつの間にか、アウグストが佇んでいた。
「もうマリアをお連れしてしまうの? アウグスト様はひどい御方ね」
「申し訳ありません、マリアの身体が心配で」
「マリアを心配する前に、まずは御自分の身辺を、綺麗にしておく方が大事ではないこと? 可哀想に、マリアはあなたの過去の悪行を聴かされて、すっかり打ちひしがれてしまったわ」
アウグストは、貴婦人達の方をちらりと見返すと、マリアを立ち上がらせて、その腕に抱きしめた。
「お前に逢うまで、恋などただの遊びだった。女も、抱いてしまえばそれで終わりだ」
「まあ、ひどいことを仰いますこと。女を何だと思ってらっしゃるの?」
「だがマリアに逢った時、この娘だけは永遠に、わたしのそばに留めなければと思いました。このわたしに、そう思わせたのはマリアだけです。今のわたしには、マリアしか眼に入りませんよ」
「その御言葉を信じましょう。でも危険な遊びは、今後慎むことですわね」
アウグストはにやりと笑って、
「マリアの肌を知ってしまったら、他の女を抱く気はしませんよ」
「まあ」
カロリーネの頬が赤く染まった。
「王妃様も陛下には、随分と大切にされていらっしゃるではありませんか。恋になどおよそ関心もなかった、昔の淡白な陛下を知っている身としては、今の陛下は別人に見えますね」
「仰いますこと。ねえマリア、賭けをしましょうか。わたくしとあなたと、どちらが先に赤ちゃんが出来るか」
「それなら負けませんよ、王妃様」
「でも時々は、わたくしにマリアをお貸し下さいませね。わたくしの可愛い妹なんですもの。そうだわ、今度は御二人でお食事にでもどうかしら」
「申し訳ない、マリアは病気以来、殆ど食べることが出来ないのです」
「まあいいえ、こちらこそごめんなさい。そうね、だったらオペラなどいかがかしら。観劇もいいわね」
「それでしたら喜んで。お気遣い有難うございます」
「今度は御二人で、ゆっくりいらしてね」
アウグストに、抱きかかえられたまま廊下に出ると、マリアは思わず、深い溜息を漏らした。
「疲れたか」
ゆっくり歩きながら、アウグストが囁いた。
「あの王妃も気の毒だな」
言葉とは裏腹に、嘲るような表情が、アウグストの顔に浮かんだ。
「夫に裏切られているとも知らず、夫の恋人だったお前を、妹と呼んで可愛がっている。つくづく罪作りな男だ、テオは」
マリアはずっと、震えが止まらない。
「お前が罪悪感を持つ必要はない、悪いのはテオなんだからな」
不意にアウグストは立ち止まって、マリアの顎を上向かせると、いきなりその唇を奪った。マリアが息も出来ないほど、深く、熱く。舞踏会の夜以来、アウグストの口付けはいつも激しかった。
「これはこれは、昼間からお熱いことで」
マリアがアウグストの腕の中で振り返ると、果たしてそこには若い貴公子や大臣達に囲まれた、国王テオドルの姿があった。にやにやしながら二人に声をかけてきたのは、その取り巻きの一人だ。
「国王陛下だよ、マリア。御挨拶なさい」
アウグストに促されて、マリアは腰を屈めたが、テオドルの顔を見ることはない。
「本当に可憐な御方だ、マリア殿は。公爵は片時も、マリア殿を手離せないと見えますな」
「ええ、その通りです」
冷静な声で、アウグストは答える。
「わたしの妃となる、大事な娘ですから。王妃様も、マリアのことがすっかりお気に入りのようですが、わたしとしては、王妃様にもマリアを渡したくはないですね」
「数多くの貴婦人方を、虜になさったあなたが、今や、マリア殿の虜となられたわけだ。変われば変わるものですな」
「それならば陛下もでしょう。以前の陛下を知っている、わたしから見たら別人のようだと、王妃様にも申し上げたところですよ」
「陛下も公爵も、御二人揃って、お美しい女人の虜になられるとは。いや、しかしこれは、我が国にとっては良い兆候だ。何しろ御二人の肩には、我が国の将来がかかっておられる。以前はいつになれば、御二人とも身を固められるのかと、気が気ではありませんでしたからな。ところで、式はいつ頃の予定です?」
「年明けには。今、大急ぎで準備をしている処です」
「楽しみですな。マリア殿の花嫁姿、さぞかしお美しいことでしょう」
「大丈夫か、マリア。また脚が痛むのか」
「おお、これは。御顔の色が真っ青だ。これは少し、わたしがからかい過ぎましたかな」
「何しろ、病み上がりなものですから。御前を失礼致します」
まだ震えの止まらないマリアを護るように、アウグストは足早に、テオドル達の前を立ち去った。
「震えておりましたな」
取り巻きの男達は、尚もマリアから眼を離せないようだ。
「蒼ざめた顔も、また一段と美しい」
「もともと病弱で、生まれた館でひっそりと育てられたため、あまり、他人と関わることが少なかったとか。内気で臆病な処も魅力的だ」
「あなたも、マリア殿をじっと見詰めておられましたね、陛下」
「……いや、あまりにも美しいので見惚れてしまって」
「いけませんね、国王陛下。王妃様に言い付けますよ」
男達は笑いながら、アウグストとは反対の方へ、ゆっくり歩いて行った。
2
「言っただろう、お前がテオに、罪悪感を感じる必要が何処にある」
マリアの首筋に口付けながらアウグストは、マリアのドレスを手早く剥ぎ取っていく。
「いくらでも、テオに見せ付けてやればいい。裏切ったのはあいつなのだから」
そうして再び、マリアの唇に自分の唇を重ねながら、一糸纏わぬ身のマリアを抱き上げて寝台に運んだ。
「震えているな」
眼を閉じて横たわるマリアの肌に、アウグストは指を辿らせる。
「だが、こうしていても逃げようとはしなくなった。逃げることを諦めたか、それとも快楽の味を覚えたか」
怖かったのに。初めてここで、思いがけなくアウグストに肌を許したあの時には、アウグストが怖くて怖くて堪らなかったのに。実際、今でもマリアの肌は震えが止まらず、眼からは涙が溢れて止まらなかった。
「快感を感じる自分を、恥じることはない。わたしとこうしていることは、なるべくしてなったことだ」
あの夜、気付くとマリアはいつの間にか、自分の部屋に戻っていた。一瞬、夢を見ていたのかと思ったのに、マリア自身は変わらず、アウグストの腕の中だった。遅れて目覚めたアウグストは、怯えるマリアに口付けながら、その掌に新しい言葉を書いた。
「『結婚』だよ」
アウグストの言葉を聴きながら、マリアは、その腕の中で再び気を失った。
「お前は、わたしの妻になったのだ。テオのことなど、じきに忘れる」
次に目覚めた時には、アウグストの姿はなかった。代わりに顔を赤らめたアンナが、マリアの顔を覗き込んでいた。
「おはようございます、マリア様。アウグスト様との御婚約、おめでとうございます」
そしてアンナは、茫然としているマリアを促し入浴させた。
「アウグスト様が昨夜、気絶なさっているマリア様を抱いて帰っていらした時は、初めてマリア様をお館に連れていらした時と、同じくらい驚きましたけれど、あの時のアウグスト様、何とも言えない気迫があって、とても素敵でしたわ」
アンナはそう言いながら、アウグストがマリアの部屋で一夜を過ごした後、ニコラウスとグスタフ夫人を自室へ呼び、マリアとの結婚を宣言したことを教えてくれた。
「朝から館中、結婚式の準備で大騒ぎですわ。何しろ年明けでは、あまり時間がありませんものね」
まるでこうなることが当然だったように、アンナも、他のメイド達もすっかりはしゃいでいた。マリア自身は、たった一夜でアウグストに変えられた、自身の身体の変化に衝撃を受けているというのに。夜になってアウグストが、再びマリアの部屋を訪れた時も、マリアは怯えて逃げようとしたのに。
「今は、わたしが怖くて堪らなくても、いずれは、わたしを受け入れるようになる。愛するようにもなる」
アウグストはそう言って、この夜も容易くマリアを抱いた。それからは毎夜のように、アウグストはマリアの部屋で過ごすようになり、朝になれば、アンナ達がその跡もまざまざと残る、マリアの肌を丁寧に洗った。マリアの戸惑いをよそに、いつしか館では、これが習慣となってしまった。
3
「わたしの前では素直になれ」
アウグストの愛撫に力が入り、マリアは、身体を大きく仰け反らせた。自然に息遣いも荒くなる。
「……素直になって」
アウグストが優しく繰り返す。マリアはそっと、涙に濡れた眼を開けた。
「お前はすでに、わたしのものだ。わたしを受け入れ、応えてくれ」
躊躇いがちにマリアは、アウグストの背中に、震える腕を伸ばした。
「そうだ、それでいい。何度でも言う、お前が自分を恥じる必要も、罪の意識を持つ必要もないのだから」
アウグストが服を脱いで、己の肌を重ねてくる。マリアの肌の震えが大きくなったが、拒みはしなかった。
「忘れるな、お前はわたしのものだ」
アウグストは繰返しながら、部屋のドアをちらりと見やった。
4
「どうなさいました、国王陛下。御顔が真っ青です」
部屋に入って来たテオドルを見た途端、侍従は慌ててそばに駆け寄った。
「御気分でもお悪いのですか、お医者様を呼んで参りましょうか」
「いや、大丈夫だ。有難う」
「しかし……」
「少し酒を飲み過ぎただけだろう、しばらく休んでいれば治る」
そう言って、テオドルはどさりと椅子に身を投げ出した。侍従は急いで水を運ぶ。
「有難う、何かあれば呼ぶから、一人にしておいてくれ」
尚も案じる侍従を部屋から出すと、テオは深く長い溜息を漏らした。
「マリア……」
眼の前に真っ先に浮かんできたのは、アウグストの腕の中のマリアの姿だった。その透き通った滑らかな素肌を晒し、アウグストの激しい愛撫を受け入れているのを、ドアの隙間から見てしまった。自分が愛した人魚が、自分ではない他の男と交わる姿を。
見ようとして見たわけではない。思いがけない再会からひと月、マリアはいつもテオドルに怯え、挨拶はしても、眼を合わすことは決してなかった。先程のようにわずかでも、そば近くいる時間が長くなれば、アウグストの腕に逃げてしまって、話しかけることも出来ない。テオドルは、マリアと話をしたかった。ずっと、あの哀れな人魚に謝りたいと思っていた。だから覚悟を決めて、公爵家の控室に行った。そこで思いがけず、愛する者の一番見たくない姿を見てしまった。
「マリア……マリア……」
愛していた。今も心から、あの美しい人魚を愛している。決して、裏切ろうとして裏切ったわけではない。王妃は生まれた時からの婚約者で、婚礼の日に初めて逢った。結婚は、逃れられるものではなかったのだ。そしてまさか人魚が、本当に人間になれるなどとは、夢にも思っていなかった。
いや、今更何を言おうと、言い訳にしかならない。自分は人魚ではなく、王妃の方を選んだのだ。そんなことは露知らずあの人魚は、裏切った自分のために生まれた海を捨てたというのに。
だがそれでもマリアが、アウグストに肌を許しているということが、こんなにも耐えがたく、苦しいものとは思わなかった。かつて自分が助けられ、優しく愛しんだマリアの白い胸が、今はアウグストに、あんなにも激しく貪られている。そしてマリアは逃げることもなく、それを受け入れているのだ。やめてくれ。アウグスト、お願いだからやめてくれ。マリア。マリア、わたしを赦してくれ。
「……赦してくれるはずがない。マリアは、アウグストを愛している。わたしは、マリアを捨てたのだ」
深い溜息と共に、テオドルはいつしか、苦しい眠りに落ちて行った。
5
「さあどうぞ、マリア様」
グスタフ夫人はそう言って、マリアを、小さな聖堂の中へ導き入れた。
「お身体の具合は、いかがでございますか。御気分は、お悪くございませんか」
マリアは頷いて、大丈夫だと言うように笑顔を見せた。しかしその顔色は、あまり良いとは言えなかった。
「そちらにお座りになって下さい。お疲れが出たのでございましょう。アウグスト様も、今日はゆっくり休ませるようにと仰せでございました」
本来であれば今日も、マリアはアウグストと共に、城へ上がるはずだったが、朝の寝台の中で、マリアの頬に手を伸ばしたアウグストは、思わず顔をしかめた。
「ひどい顔色をしている」
マリアは、大丈夫だと指で書こうとしたが、アウグストはそれを止めた。
「王妃は、何かと口実を設けて、お前をそばに呼びたがるからな。お前があの女に、そんなに気を遣う必要はない」
その王妃の隣には、いつもテオドルの視線がある。その視線に怯えながら、慣れない社交界で気苦労を重ね、マリアは、心身共にすっかり疲れ果てていた。アウグストは、マリアを寝台に残して、今日は一人で城に出掛けた。マリアは食事も摂らずに、ずっと横になっていたが、早速王妃からは、大きな花束が届けられてきた。マリアが、ぼんやりとその花を見詰めていると、いつの間にか、枕元に来ていたグスタフ夫人が、そっと声をかけてきた。
「もし御気分が宜しいようでしたら、お起きになってみてはいかがですか」
そして夫人は、マリアを館の中の、小さな聖堂に案内したのだった。
聖堂の椅子に、腰を下ろしたマリアは、中央に花で飾られた、美しい女性の像を不思議そうに眺めた。
「マリア様でございます」
マリアは驚いて、グスタフ夫人を振り返った。
「そう、あなた様と同じお名前でいらっしゃいます。神の子イエス様を御産みあそばした、貴き聖母様でございます」
そして夫人はイエス=キリストと、聖母マリアの話を始めた。二人にまつわる、神という存在について。
「神は、この世のすべてをお創りになられた、貴き存在でございます」
マリアの横にすわって、優しい声で語りかける。
「今、わたくし達がいるこの大地も、あなた様の故郷の海も、すべて天上におられる神が、お創りになられたのでございます。イエス様はその神の御子、わたくし達人間が、生まれながらに負っている罪を、贖って下さる御方でございます」
初めて聴く神と神の子の話に、マリアは驚きと共に聴き入っていたが、やがてふと、小さな疑問が浮かんだ。どうしてグスタフ夫人は、マリアにそんな話をするのだろうか。
「お城では、辛い想いをなさっていらっしゃるのではございませんか」
マリアの顔に疑問の色が浮かぶと、夫人は話を変えた。
「舞踏会以来、王妃様はすっかりマリア様がお気に入りで、毎日のようにお城へお召しあそばします。今日もあのように、大きな花束を贈って下さって、今頃はきっと、マリア様の御身体を、案じておられることでございましょう。それにアウグスト様も、驚くほど性急に、マリア様との結婚をお決めになって、お式の準備を急いでおられる。確かに初めから、マリア様をとても大切にされておいででしたけれども、やはりそれも、舞踏会の時からです」
マリアの身体が震えている。
「もしかすると、マリア様はあの舞踏会の時に、恋人だった御方に再会なさったのではございませんか。でもその御方には、すでに新しい恋人がいらしたのではありませんか」
俯いたその瞳から、涙が次々とこぼれ落ちてきて、マリアは両手で顔を覆った。グスタフ夫人は、マリアの細い肩に腕を廻した。
「やはりそうでしたか。お可哀想に、どんなにお辛かったことでございましょう」
夫人の手の温かさにも刺激され、マリアはそのまま泣き崩れた。だがその小さな唇からは、決して泣き声は聴こえない。自分と同じ名前の、聖なる女性の像の前で、マリアは静かに泣き続けた。
6
「アウグスト様から、お聴きでございましょう。あの御方は三年前、たった一人の妹姫を亡くされて、とても孤独な日々を過ごしていらっしゃいました。次から次へと恋人を替えて、色事に現を抜かしておいでだったのも、少しでも哀しみを忘れるためだったのでしょう。そんなアウグスト様の前に、突然、お伽話のように現れたのがマリア様、あなたです。輝くように美しく、しかも人魚という、夢の中の存在でいらしたマリア様を、アウグスト様のお妃にと、館の者達が望むようになったのは、むしろ当然の成行きでございました」
ようやく泣き止んだマリアは、俯いたまま、グスタフ夫人の話を聴いていた。
「アンナも他のメイドも、年頃の若い娘達ですもの。内心では皆、アウグスト様に憧れている者ばかりです。マリア様が、アウグスト様のお妃になられることが、アウグスト様のおためと信じて躍起になり、御二人の上に、ロマンティックな夢を描くようになったのも、致し方のないことなのです。ましてや、多くの女性の間を渡り歩いていたアウグスト様が、今ではマリア様ひとすじでいらっしゃるのですから。もちろんわたくしも、御二人の一日も早い御結婚を望んでおります」
マリアは小さく頷いた。そんなことはよくわかっている。王妃もテオドルとマリアの関係など、全く気付く様子もなく、心からマリアのことを可愛がっている。だからこそ苦しいのだ。未だに、テオドルへの想いを捨て切れないくせに、流されるまま、アウグストに身を任せている自分が。
わたしは、テオに裏切られたのだ。テオは、わたしを捨てたのだ。それを、嫌と言うほど思い知らされているのに、どうして、テオのことを忘れることが出来ないのだろう。いっそのことテオを忘れて、アウグストを愛するようになれば、こんなにも苦しい思いをしなくてすむのに。
「恨んでおいでではありませんか。愛した御方を忘れて、アウグスト様と結婚しろと言うわたくし達を」
マリアは首を振った。そんな権利が自分にあるとは思えない。
「マリア様は、お優しい御方でございます。裏切られた御方のことも、御自分のせいだと思っていらっしゃるのではありませんか。そして、何もかもすべてに責任を感じて、御自分一人を責めておいでなのでは」
夫人の言葉に、マリアは初めて顔を上げた。
「決して、そんなことはございませんのに。でも、わたくしがいくらそう申し上げても、マリア様はきっと、それをやめることはないのでしょう。ですがそれでは、いずれマリア様は、御自分の身を滅ぼしてしまうことにもなりかねません」
グスタフ夫人は、マリアの手をそっと握りしめた。
「わたくし共は、アウグスト様のお幸福を願う気持ちと同じくらい、マリア様のお幸福を心から願っております。けれどマリア様は、御自分がお幸福になることを拒んでおられる。どうしてなのでしょう。誰でも皆、自らの幸福を望むものではありませんか。マリア様御一人が望んではいけないなどと、そんなことがあるはずはございません。そして、マリア様をお幸福に出来るのは、アウグスト様の他にはいらっしゃいません」
夫人の言葉は素直に嬉しい。けれど。
「ここにお連れ致しましたのは、マリア様の御心を、少しでもお慰めしたかったからでございます」
マリアは、聖母の像を見上げた。
「どうぞ聖母様に、マリア様の御心の内を何もかも打ち明けられて、お救い下さるようお祈りなさいませ。聖母様におすがりになれば、マリア様のお苦しみもお哀しみも、すべて洗い流して下さることでございましょう」
しかし、マリアは人間ではない。海を捨てた人魚であっても、聖母はマリアを救ってくれるのだろうか。
「御自分と同じお名前をお持ちのあなたを、拒むような御方ではございません。心を込めてお祈りになれば、必ず聖母様はお聴き届け下さいます」
するとマリアは、自分の唇にそっと触れる仕草をしてみせた。
「声が出なくても、御心の中でお祈りするだけで良いのです。お祈りする御心がまことのものであれば、聖母様に必ず届きます」
聖母の像から、ずっと眼を離さなかったマリアは、無意識のうちに両手を組み、祈り始めた。その様子を確かめて、グスタフ夫人はそっとその場を離れた。夜遅くアウグストが館に戻ってきた時にも、マリアは聖母像の前で微動だにせず、一心に祈り続けていた。
7
「何をぼんやりしている、テオ」
執務室に入って来たアウグストは、机に書類を積み重ねたまま放り出し、窓辺に立って外を眺めているテオドルを咎めた。
「国王が国事に無関心でいては、貴族達に示しがつかないだろう。何を見ているんだ?」
そう言いながらアウグストも窓から外を覗くと、王妃とマリアが、並んで中庭を散歩しているのが見えた。数人の貴婦人達も一緒だったが、二人からは少し後ろに下がっていて、王妃も、そちらの方にはさほど関心がないように見えた。
「……マリア殿は、もう大丈夫なのか」
庭に視線を向けたまま、テオドルが口を開いた。
「ああ、有難う。少し疲れが出ただけだ。王妃様も随分御心配されたようで、時には日光浴も必要だと、ああしてマリアを散歩に連れ出して下さっている」
アウグストも、テオドルを見返すことなく、同じように庭を見詰めたまま答えた。すると、二人の視線に気付いたのか、王妃が振り向いて手を振った。マリアも、振り向いて腰を屈める。やがて王妃がマリアを促して、再び庭を歩き始めた。
「王妃様は、本当にお優しい御方だ。お前もすっかり魅了されてしまったようだな、テオ」
「違う。わたしは、カロリーネを見ていたのではない」
そのやや強い口調に、アウグストは初めて、テオドルの顔を振り向いた。
「……マリアは人魚だ。お前も知っているだろう」
アウグストは答えなかった。
「あの船の爆破の時、海に投げ出されたわたしを、助けてくれたのがマリアだ。わたし達は愛し合った。マリアは、心からわたしを愛してくれたし、わたしもあの人魚を、何とかしてそばに留めたいと願った。だが、人魚が人間になれるなんて、夢にも思っていなかった。ましてやわたしには、カロリーネという婚約者がいる。国王にとって結婚は、国と国との条約だ。断りたくても断れない。それにカロリーネも、美しく優しい女だ。傷付けるような真似は出来ない」
「選びたくても選べなかったというわけか。相変わらずの優柔不断だな、テオ」
「アウグスト」
「お前のような男を、どうしてマリアが忘れることが出来ないのか、俺にはわからない」
「え?」
「お前はいつもそうだ、テオ。お前のその優柔不断のせいで、妹もどれだけ傷付いたことか」
「妹……クリスティーネのことか。クリスティーネがどうして……」
テオドルは混乱した。テオドルを見詰めているアウグストの眼は、いつになく厳しかった。
「クリスティーネはお前を愛していたんだよ、テオ。お前にとってはクリスティーネなど、妹のようにしか思えない幼馴染みの従兄妹に過ぎなくても、あの子は、妹は本気でお前を愛していたんだ」
「クリスティーネが? クリスティーネがわたしを? まさか……」
アウグストの顔に、初めてテオドルへの侮蔑の表情が浮かんだ。
「そうだな。恋愛に興味もなく、結婚も、国王としてなさねばならぬ国事としか考えてはいなかった、あの頃のお前に、あの子の繊細な恋心など、気付くことは出来なかっただろう。だが、お前がせめてあの子を妹ではなく、一人の女性として見ることが出来ていれば、クリスティーネが、自ら生命を絶つことはなかったんだ」
「何だって? クリスティーネは事故で死んだはずじゃ……」
「自殺したんだ、妹は! お前のそのつれない態度に耐え切れず、崖から飛び降りたんだよ!」
テオドルの顔は蒼ざめ、動揺していた。これまで従兄弟として幼馴染みとして、心から信頼していたはずの男が、今はこうして、憎悪に満ちた眼を自分に向けている。アウグストは続けた。
「もちろんクリスティーネも、お前と結婚出来るなどとは夢にも考えなかった。生まれながらの婚約者もいるお前に、そんな子供のような駄々をこねる、愚かな娘ではない。それでも、子供の頃からお前のことを思い続けていたその気持ちを、せめてお前が少しでもわかってくれていたのなら、あの子はあんなにも、自分を追い詰めたりはしなかった」
「アウグスト……」
「あの時の、俺の気持ちがお前にわかるか、テオ……この手で、お前の首を絞め殺してやりたいと、本気で思ったよ。だが、それでは物足りない。どうせ殺すならすぐには殺さず、じわじわと苦しめて、追い詰めるように殺せばいい」
「まさか……まさかお前、あの船の爆破は……」
「そうだ、俺がやった。それだけじゃない、狩りでお前の銃が暴発したのも、行幸中の馬車が崖から転落しそうになったのも、すべて俺の仕業だ」
「アウグスト!」
「そんな時、お前の前に現れたのがマリアだ。お前がマリアに夢中になるのを見て、殺すよりもお前をもっと苦しめる、いい方法を思いついたよ。簡単だ、お前からマリアを奪えばいい」
「アウグスト、貴様!」
「憎いか、俺が。憎めばいい、だが、お前も俺と同じだ。マリアを愛しながら、平然とカロリーネと結婚した、そんなお前に俺を責める資格はない」
アウグストはテオドルを睨み、テオドルはアウグストを睨み返した。子供の頃から、兄弟のように仲睦まじかった二人が、今は互いに、憎悪の籠った眼差しを向けている。けれど耐え切れずに、先に視線を外したのはテオドルの方だった。
「マリアは、清純無垢な娘だ。内気で臆病で、だが何より、恋にはひたむきで。そんなマリアを、お前はいとも簡単に裏切った。お前のために、マリアは生まれた海を捨て、一時は生死の境を彷徨い、声すら失って尚、痛みに耐えながら歩く練習もしたというのに。それが今では、裏切られた男の妻の、一番のお気に入りとは皮肉なものだ」
アウグストも視線を窓に戻し、城の中に戻って行くマリアと王妃を見詰めた。
「心配するな、俺はお前とは違う。あの哀れな人魚を、不幸になどしない。それに、人魚の肌とは格別な味わいだ、人間の女など比べ物にならない。あの滑らかな透き通った肌が、俺の腕の中で乱れる姿を見ているのは、実に快感だよ。ただ、喘ぐ声を聴くことが出来ないのは残念だがな」
「アウグスト……!」
憤るテオドルには眼もくれず、アウグストはドアに向かった。
「マリアはもう俺のものだ。今更、お前がマリアを取り戻そうとしても、マリアはお前を受け入れない」
その言葉を残して、アウグストは執務室を後にした。
8
アウグストが控室に入ると、マリアはすでに部屋に戻っていた。窓辺の椅子に腰掛けて、虚ろな表情を浮かべて外を眺めている。ひと目見て、痩せた、と思う。その姿はいかにも寂しそうで儚くて、今にも何処かに消えてしまいそうだ。それに。
「笑わなくなった」
呟くようなその声に、マリアが初めてアウグストに気付いた。椅子から立ち上がって、アウグストを待つその姿も、倒れそうなほど細い。
「気分はどうだ?」
マリアの顎に、指をかけて持ち上げながら、アウグストはその顔を見詰めた。マリアは大丈夫だと言うように、少し笑ってみせる。
「無理に笑おうとしなくていい」
マリアは訝しげな表情を浮かべて、アウグストを見返す。
「館に来た頃は泣いてばかりいた。それでも少しずつ元気を取り戻すうちに、はにかみつつも笑顔を見せてくれるようになった。なのに最近は、寂しそうに俯いたきりだ」
そんなことはないと言うように、マリアはもう一度笑顔を浮かべようとしたが、
「作り笑いなどするな」
いつになく強い調子で、アウグストが遮った。戸惑うマリアを抱きすくめ、荒々しく唇を奪う。アウグストの口付けは常に激しかったが、いつもであれば感じられる、マリアへの労わりと優しさが、今日は全く感じられない。そのまま、寝台に押し倒される。
「何故だ? どうして、お前は」
アウグストは、マリアが怯えるのも構わずに、乱暴にドレスを引き裂き、その肌を貪って行く。
「こうして何度も、肌を重ねてきたというのに……いつになればお前は、テオを忘れることが出来るのだ?」
いたぶるような愛し方に、マリアが思わず逃げようとすれば、アウグストはますますいきり立つ。
「忘れろ、忘れてしまえ、テオのことなど」
ようやく、アウグストがマリアの身体から離れた時には、マリアは、激しく息を乱しながら力なく横たわり、その眼からは、涙が止め処もなくこぼれ落ちていた。
「わたしの方が訊きたい。何故お前は、そんなにもテオを忘れられないのだ?」
どうしてこんなひどいことを、とマリアが潤む眼で問いかけると、アウグストはやはり息を乱しながら、マリアに同じ質問を繰返した。
「頼む、テオのことなど忘れてくれ。マリア。マリア、愛している。わたしはお前を愛している。お願いだ、わたしを愛すると言ってくれ」
アウグストは、茫然と自分を見詰めているマリアを抱き起こした。
「正直に言う。わたしは、お前を利用するつもりだった。お前がテオの恋人であったことは、初めから知っていた」
思いがけない告白にマリアは思わず眼を瞠り、涙さえ止まってしまった。
「妹が死んだのは、テオのせいだ。わたしは、テオに復讐する時を狙っていた。お前を助けたのは、テオからお前を奪うためだった。けれどお前は、そんなわたしを疑うことなく信じ切っている。無理矢理身体を奪っても、嘆きはするがわたしを責めたりなどしない。むしろこうして、わたしを愛せない自分を責めている。どんなに汚そうとお前自身は、清らかで美しいままだ」
いつもの、アウグストらしからぬ姿だった。少し強引ではあるが、常に冷静な態度を崩さなかったアウグストが、縋りつくようにマリアを抱きしめ、切ない声で、その愛情を得ることを求めている。
「わたしが赦せないか、マリア。復讐のために、お前を利用した男を。所詮わたしも、テオと同じだ。カロリーネという婚約者がいながら、お前と通じた男と、わたしも同罪だ。だが信じてくれ。お前が館の者達を、瞬く間に魅了したように、わたしもいつの間にか、お前に魅せられた。何人もの女と関係を持ったわたしが、本気で恋などしたことのないこのわたしが、今はお前に本気で恋している。復讐のためなんかじゃない、本気でテオからお前を奪いたい。いや、奪ってみせる。お前はすでにわたしのものだ、今更テオになど渡さない。お前を愛している」
マリアは、気が遠くなりそうだった。何が何だかわからない。ただされるがままに、アウグストに何度も口付けられる。
「愛してくれ、マリア。わたしを愛してくれ。こんな想いは生まれて初めてだ。かつてこんな風に、たった一人の女に溺れたことはない。恋などただの遊びだった。利用出来るものは何でも利用した。だが、お前は違う。お前は復讐や権力のために、容易に穢していい女ではない。お前は美しい、美しすぎる。愚かな男の欲望など、お前の前では塵となって消える」
再び押し倒され、激しい愛撫を受けながらその一方で、マリアはカロリーネの言葉を思い出していた。
「わたくし達、いつまでも仲良く致しましょうね。国王陛下とアウグスト様はこの国を担う方々、わたくし達は、その御二人の手助けをしなくてはいけないのですもの。でもわたくしは、本当に心からあなたが好きなのよ、マリア。あなたは本当に、信じられないほど清らかで美しくて、触れれば今にも消えてしまいそうなくらい、儚くて可憐で。あなたのような方がわたくしの妹になって下さって、本当に嬉しいわ」
「愛している。愛している、マリア。お前をテオには渡さない」
狂ったように自分を愛撫する、アウグストの声を聴きながら、マリアも気が狂いそうになっていた。わたしが清らかで美しい? 嘘だ、わたしは清らかでもなければ、美しくもない。アウグストもカロリーネも、わたしを買いかぶり過ぎている。もはやわたしは、何も知らずに気儘に海を泳ぎ回っていた、無垢な人魚ではない。今のわたしは、人魚でもなければ人間でもない、ただの穢れた生きものに過ぎないのだから。
自分の心がわからない。誰を愛しているのかわからない。ただ流されるまま、求められるまま、揺れ動いているだけ。テオとアウグストとの間を、水に漂う花びらのように。
お助け下さい、聖母様。引き裂かれそうなこの心を、どうかお救い下さい。それとももう、わたしのように穢れている生きものは、救いを求める資格もないのでしょうか。生きる価値も、ないのでしょうか。
9
王妃付きの女官だと、確かにそう名乗っていた。王妃の女官は沢山いて、マリアも、幾人かは顔を知っているけれど、全員を把握していないから、誰かがそう名乗っても、疑問は感じなかった。その女官に、王妃が呼んでいるからと、見知らぬ部屋へ案内されても、初めは王妃が、何か新しい遊びを思い付いたのかと思っていたくらいだ。だから不意に、その部屋にテオドルが姿を現した時は、全く気が動転してしまった。
「逃げないでくれ、マリア」
テオドルが入って来た方と反対のドアは、固く閉ざされてしまっていた。しかしテオドルが近付こうとしても、マリアは真っ青になって身体を震わせ、狂ったように部屋中を逃げ回った。声を失っていなければ、大きな悲鳴を上げていただろう。
「わたしがそんなにも怖ろしいのか、マリア。お願いだ、そんな眼でわたしを見ないでくれ。頼む、逃げないで話を聴いてくれ」
部屋の隅に追い詰められると、まるで魔物でも見ているかのような眼で、マリアはテオドルを見詰めていた。
「こうでもしなければ、君はわたしと眼を合わそうともしない。わたしはずっと、君と話をしたかった。頼む、お願いだからわたしの話を聴いてくれ」
悲痛な声だった。アウグストと同じように、テオドルは、切ない眼をしてマリアを見ていた。マリアは戸惑った。再会以来、テオドルと眼を合わすことは極力避けてきたが、今までもこの男は、マリアをこんな眼でずっと見詰めていたのだろうか。
「赦してくれ、マリア。わたしはまさか君が、本当に人間になれるなんて、夢にも思っていなかった。結婚も避けられなかった。カロリーネは、お互い生まれた時からの婚約者、わたしが拒めば、国をも裏切ることになる。君を心から愛してはいたが、君を選ぶことはどうしても出来なかった。いずれは君に、別れを告げなければいけないことはわかっていた」
マリアは俯くしかなかった。それをもっと早く告げてくれていたら、わたしは、大切な姉様達を裏切らなくてすんだのに。
「わかってはいても、君にそう告げる勇気は、わたしにはなかった。君をそばに置きたいと、願っていたのも事実だからだ。そうだ、アウグストの言う通り、わたしは優柔不断の男だ。優柔不断で、自分勝手で、臆病で。こんなわたしのために、君は生命を賭けて、その姿になったというのに。赦してくれ、マリア。でもわたしは、今でも君を愛している。君の行方がわからなくなった時も、秘かに君を捜すこともした。本当なんだ、それだけは信じてくれ」
テオドルは、何を考えているのだろう。そんなことを告げたとて、今更どうすることも出来ないのに。
「アウグストから離れろ」
思いがけないその言葉に、マリアは思わず顔を上げた。
「あの男は、君を愛してなんかいない。わたしへの復讐心から君に近付き、利用しているだけだ。あの男と結婚しても、君は幸福にはなれない。一刻も早く、アウグストから離れた方がいい」
マリアは再び俯いた。離れて、それでどうするの? どうしてテオは、わたしに無理ばかり言うの?
「聴いているのか、マリア」
テオドルは、マリアの腕を掴んだ。
「アウグストから離れろ。わたしは、君が不幸になるのを見たくない。それともまさか君は、アウグストを愛していると言うのか」
愛している? わたしがアウグストを? マリアは眼を瞠った。
「お前を助けた頃は、お前の心が汲み取るようにわかった。なのに、今はわからない。何度こうして肌を重ねても、お前が誰を愛しているのかわからない」
アウグストもそう言っていた。けれど、アウグストに助けられてからの日々、ずっとマリアは、アウグストの腕の中にいたのだ。あの腕に支えられながら生活習慣を覚え、歩く練習をし、文字を書き……初めて逢った時には、アウグストの暗い灰色の眼が何より怖ろしかったのに。舞踏会の夜、初めて肌を奪われた時にも、恐怖しかなかったのに。けれど今では、毎夜のように肌を重ね、あの眼に見詰められながら、与えられる愛撫に快感を感じている。今更あの腕から、離れて生きることなど出来るだろうか。マリアの顔に、動揺の色が拡がった。愚かな。何という愚かなわたし。愚かで、浅はかで、汚れたこの心。テオのみならず、アウグストをも愛してしまうなんて。
「マリア! マリア、駄目だ。アウグストに騙されるな。わたしは、君が不幸になるのを見たくはない」
テオが声を上げた。
「愛している。愛しているんだ、マリア。君をアウグストには渡さない」
我に返ったマリアは、慌ててテオドルから逃げようとしたが、椅子に足を取られてそのまま倒れた。テオドルはマリアの襟元を引き剥がし、かつて優しく愛しんだその白い胸に、無我夢中でかぶり付いた。マリアの声なき悲鳴が上がった。
10
月が出ている。
あの時と同じ、人間になることを決意して、海から上がったあの時と同じように、光り輝く大きな月が、誰もいない夜の海を照らしている。
帰りたい。
今すぐ、海に帰りたい。出来ることなら、テオドルにもアウグストにも出逢う前の、何も知らなかった頃に戻って、姉様達と気儘に海を泳ぎ回っていた、あの頃の自分に帰りたい。
出逢わなければ良かった。テオドルにもアウグストにも、出逢わなければこんなことは、二人を同時に愛してしまうなどということはなかったのに。
どうやって国王の私室から、ここまで来たのか覚えていない。ふと気付けば、しばらく忘れていた脚の痛みがぶり返し、脚の運びを重くしている。マリアの頬には涙が流れ、乱れた髪は風に吹かれるままだ。
「あんたに幸福になる資格はない」
魔女の言葉が甦る。わかっている、わたしはその覚悟をもって、地上に上がったのだ。幸福になどなれなくてもいい、ただテオのそばにいたい。それだけを心のよすがに海を捨て、姉達を捨て、人魚としての何もかもを捨てて、ただテオドルのためにこの脚を手に入れた。けれどようやく再会したテオドルのそばには、すでにあの王妃が、優しいカロリーネがいたのだ。ああ、聖母様、これは罰なのでしょうか。海を裏切ったわたしへの、これは罰なのでしょうか。「愛している。今もわたしは君を愛している」狂ったようにわたしを抱きしめて、あの人はそう言った。その言葉を、あなたはあの優しい王妃様にも言うの? いいえ、わたしにテオを責める資格はない。わたしもテオと同じ、テオとアウグスト、二人に肌を許しながら、尚もどちらを選ぶことが出来ない。なんて汚らわしい。わたしのように、愚かで汚れた生きものの何処が、清らかで美しいと言うのか。
帰りたい!
声なき声で、力の限りマリアは叫んだ。姉達一人一人の顔が、走馬灯のように眼の前に浮かんでくる。帰りたい、帰りたいの、姉様達!
「マリア!」
……夢を、見ているのだと思った。もう二度とその声を聴くことも、顔を見ることもないと思っていた、懐かしい姉達が今、禁じられていたはずの海岸に一人残らず集まって、涙を流しながら声を限りに、マリアの名前を叫んでいた。セレスティアがいる。イリスも、フィオーネもいる。愛しい十四人の姉達の懐かしい顔に、マリアもその時だけは脚の痛みも忘れて、力いっぱい姉達のもとへと駆けた。
「あなたは馬鹿よ!」
マリアが岸辺に辿り着いた時、爆発したようにイリスが叫んだ。
「そんなに後悔するくらいなら、どうして人間になんかなったの!? わたし達があんなにも反対したのに、馬鹿な子! 本当に馬鹿な子!」
「おやめなさい、イリス。もう終わったことだわ」
怒りに震えるイリスを、一番優しい姉のセレスティアが抑えた。以前の、懐かしいやりとりがそのまま繰り返される。あの時もこうして、マリアの我儘に怒り狂うイリスを、セレスティアが宥めていたのだ。
だが二人の姉の、変わり果てた姿はどうしたことだろう。イリスとセレスティアだけではない、フィオーネも、他の姉達も一人残らず、その長く美しかった髪が、ばっさりと切り落とされていた。
「……わたし達、あなたが海に帰れる方法がないかと、魔女の処へ相談に行ったの」
セレスティアが、マリアの痩せた手を握りしめながら説明した。
「そんな方法などないと、きっぱり言われたわ。でもあなたが、地上で作られた薬で人間になれたのなら、わたし達の持っているもので、あなたを人魚に戻す薬も作れるのではないかと考えたの。だから魔女に頼み込んで、わたし達の髪を切ってもらったのよ。構わないわ、これで可愛いあなたを、取り戻すことが出来るのなら」
マリアが再び、激しく泣き出した。優しい、あくまでも優しい姉様達。臆病なマリアを、常に護り愛しんでくれたこの優しい姉達を、どうしてああも簡単に、裏切るような真似が出来たのだろうか。
「大丈夫よ、マリア。わたし達は必ず、あなたを取り戻してみせるわ。きっとすぐに、懐かしい海へ帰れるわよ」
妹の涙を拭いながら、セレスティアが優しく言う。フィオーネは先程から、顔も上げずにただ泣き続けている。口にせずとも、フィオーネがマリアを海上に連れ出したことが、今のこの状況を招いてしまったことを、激しく悔いていることは、マリアにも十分伝わった。
「手を出しなさい、マリア」
イリスがおもむろに、黒く光り輝く短剣を差し出した。
「これは、わたし達人魚の間で受け継がれてきた、護身用の剣よ。わたし、あなたをたぶらかした男が憎いわ。出来るのならばこの手で、男を八つ裂きにしてやりたいわ! そしてあなたのことも、わたし赦せないの。あんなにも反対したわたし達を、簡単に裏切ったあなたが」
「そんな……ひどいわ、イリス」
セレスティアの顔が蒼ざめた。
「だから、あなたが男を殺しなさい。わたし達の処に帰りたいのならあの男を殺して、もう二度とわたし達を裏切らないと、誓いを立てなさい」
「やめてイリス、あんまりだわ。そんな怖ろしいこと、優しいマリアに出来ると思うの? お願い、もうこれ以上マリアを責めないで」
「出来るはずよ。あの男のせいで、マリアは身も心も変わり果ててしまったわ。憎みなさい、マリア。あなたをこんな風にしてしまった、あの男を憎みなさい。そして男を殺すのよ!」
震えるマリアの手に、イリスは剣を無理矢理押し付けた。
「あの男は、あなたを滅茶苦茶にしたのよ。その剣でひと思いに、男の胸を刺すのよ!」
「それはいいな。テオを殺すのなら、わたしも喜んで手を貸そう」
マリアは驚いて振り返った。一体、いつからそこにいたのか。アウグストは気配もなく、月明かりの下に佇んでいた。
「お前達が、マリアの姉か」
無表情のまま、アウグストはマリア達の前に立った。
「テオはわたしにとっても、死んだ妹の仇だ。殺しても殺し足りないほど憎い。喜んで、お前達に手を貸そう」
「あなたは一体……」
イリスは思わずたじろいだ。ずっと泣いていたフィオーネも、初めて顔を上げた。
「こんな処にいては風邪を引く。部屋に戻りなさい、マリア」
蒼ざめ、震えているマリアを抱きしめて、アウグストは姉達の面前で、マリアに口付けた。
「お前達には悪いが、マリアはすでにわたしの妻だ。今更、海に帰すつもりはない」
「何ですって!」
「駄目よ、その子はわたしの妹よ! 返して、マリアを返して!」
イリスとセレスティアが叫び、フィオーネも続いた。
「マリア、マリアどういうことなの!? その人は誰なの!? あなたが愛しているのは、あの男ではないの!? 答えて、マリア! マリア!」
「マリア! マリア!!」
他の姉達も、力の限りマリアの名を叫ぶ。だがアウグストは、姉達の必死の願いにも耳を貸さず、マリアを抱え上げて立ち去った。
嫌よ、離して。わたしは帰りたいの。姉様、姉様達。
初めてマリアが、アウグストの腕の中で抗った。姉達に向かって、懸命にやせ細った腕を伸ばしもした。だがその抵抗も空しく、視界から姉達の姿は、涙と共に無残に消えた。
「テオに呼ばれたか」
その言葉に、マリアの顔が凍り付く。
「その剣で、テオを殺すか。お前の愛した男を」
剣を握りしめるマリアの手は冷たく、小刻みに震えていた。
「愛する男を殺して海に戻れるのなら、そうすればいい。だが、お前が本当に殺すべきなのはテオか、それともわたしか」
マリアの眼から、再び涙が溢れる。出来ない。わたしには出来ない。テオも、アウグストも、わたしには殺せない。悪いのはわたし。本当に悪いのは、二人を共に愛してしまったわたし自身なのだから。
11
「王妃様は、今日は御具合が優れなくて、お逢い出来ないとのことです」
女官の言葉に、マリアは戸惑った。
「申し訳ございませんが、しばらくマリア様には、お城に御出でになるのを、控えては頂けないでしょうか」
丁寧なお辞儀をしながらも、女官の声は冷たかった。仕方なく、公爵家の控室へ戻ろうとすると、貴婦人達が冷たい視線を向けて来た。
「清純無垢な御顔をして、公爵様のみならず、国王陛下まで虜になさるとは、怖ろしい姫君だこと」
「よくものうのうと、何も知らない振りをして、王妃様にお逢いしようとするなんて、大したものね」
マリアは、そこから逃げるように去らねばならなかった。すでに、マリアとテオドルのことは、城中の噂になっていた。
「貴族どもは、本当に地獄耳だな。たった一日でこの様だ」
椅子に身体を投げ出しながら、アウグストがあきれるように言った。
「だがテオめ、自業自得だ。今頃は王妃の御機嫌取りに、必死になっているのだろう」
アウグストが嘲笑っても、マリアは椅子の上で小さくなって、身体を震わせるばかりだ。
「気にするな。貴族どもの方こそ、普段は上品振った顔をして、裏では女も男も、浮気や不倫ばかりやっているような連中だ。お前は何も悪くない、連中の前では堂々としていろ。大丈夫だ、わたしがお前を護るから」
そう言って、アウグストはマリアを抱きしめ、唇を重ねてくる。マリアは不思議だった。こんなことになってもこの人は、わたしのことを愛し続けてくれるのだろうか。
「むしろこれで、しばらくの間は城に上がらずにすむな。わたしも公務から離れられるし、お前もゆっくり休むことが出来る。アンナ達が喜ぶだろう」
そしてマリアを急き立てて、帰宅の用意をした。アウグストが部屋から出てくると、以前と変わらずマリアを大事そうにエスコートしながら、むしろ自信に満ちた様子をしていることに、貴族達は戸惑いの色を浮かべた。
「姉上達のことは、すまないと思っている」
囁かれたその言葉に、マリアの身体が震えた。
「だがわたしは、お前を海に戻すつもりはない」
姉様。赦して、姉様達。あんなにも、海に帰りたいと願っていながら、その反面わたしは、この人のそばにいたいと思う気持ちを捨て切れない。それに。
「お前も、お腹の中の子を残してまで、海に帰ることは出来ないだろう」
そう言ってアウグストは、マリアの腰に腕を廻して、大切そうに抱きしめる。あの後、マリアは身体の不調を訴え、館で倒れた。急ぎ医者が呼ばれ、間もなく館中が、歓喜の渦に巻き込まれることになった。
「三ヶ月だそうでございます」
グスタフ夫人が厳かにそう告げた時、アウグストは長く深い息をついてから、マリアを、これまでにないほどの力強さで抱きしめた。
「これはきっと神様が、マリア様が人間になられたことを、お赦し下さった証でございます」
涙を浮かべながら、グスタフ夫人も、些か興奮したように続けた。
「おめでとうございます。神様はマリア様に、アウグスト様の御子をお授け下さったのですよ。マリア様も聖母様のように、お母様になられるのでございますよ」
息も出来ないほどに抱きしめられながら、マリアは混乱するしかなかった。子供……子供? わたしのお腹に、子供が?
「式を早めなければな。これでテオも、お前を諦めざるを得ない」
マリアは、アウグストが羨ましかった。何ものにも動じることなく、どうしてそんなにいつも、自信に満ちていられるのだろう。
「お前とわたしの子だ、大切にしてくれ。男でも女でもいい、きっとお前に似た、美しい子が産まれてくる」
貴族達の噂など意にも介さず、人目も構わずに優しく囁き、抱きしめる。マリアの動揺と混乱を、包み込むかのように。
無事に子供を産むことが出来たら、わたしもアウグストのように、自信を持てるようになれるだろうか。テオから逃げることも、カロリーネに気遣うこともなく、この言い知れぬ恐怖からも、いつしか解放されるのだろうか。
12
「何事だ!?」
廻廊の辺りに、貴族や侍従達が集まっていた。皆、奇妙な表情を浮かべて海岸の方を見詰めている。海岸にも衛兵達が集まっていたが、やはり、その顔には戸惑いの表情があった。それを認めた途端、マリアは怖ろしい予感に囚われた。アウグストも、慌てて侍従に詰問すると、
「バルト伯爵様が、何でも人魚を捕えたとかで……」
非常な勢いで飛び出して行くマリアを、アウグストは止めることが出来なかった。ああ、何ということだろうか。あの人魚達は、アウグストがマリアを連れ去った後も尚、妹の身を案じ、人魚達にとって危険極まりない海岸を、一晩中彷徨い続けていたのだ。アウグストを、生まれて初めて激しい後悔が襲った。
「マリア! 待ちなさい、マリア!」
だが、マリアが無我夢中で、衛兵達の間を潜り抜けたそこには、姉達の無残な光景が拡がっていた。網をかけられ、地上に引き上げられ、そのままずっと放置されていたのだろう。しかしマリアとは違い、その姿のまま海から引き離された人魚達は、地上で長く生き続けることは出来なかったのだ。フィオーネも、イリスもすでに息絶えていた。蒼ざめ、崩れ落ちそうになるマリアの身体を、アウグストがかろうじて抱きかかえた。
「……マリア……」
不意に、か細く弱々しい声が響いた。その腕も震え、持ち上げる力もなくなっているはずだろうに、それでもセレスティアは、十四人の妹の中で、一番愛していたマリアに、今も優しい笑顔を浮かべて、手を伸ばしていた。
「……ごめんなさい、マリア……」
アウグストの腕からすり抜けて、マリアは姉のそばに跪き、その手を取った。
「……助けてあげたかったのに……あなたを連れて、海に戻りたかったのに……ごめんなさい、マリア……」
どうして姉様が謝るの? 悪いのはわたしなのに。こんなことになったのは、何もかもわたしのせいなのに。
「……愛しているわ、マリア……あなたは今もわたしの……わたしの大切な妹……」
姉様! セレスティア姉様!
声なき声でそれでも必死に、姉の名前を叫ぶ。だがセレスティアは、愛する妹の腕の中で、消え入るように息絶えた。
「これは公爵、あなたも人魚を見にいらしたのですかな」
太った身体を揺らして、呑気に姿を現したのは、人魚達を捕えた張本人、バルト伯爵だった。テオドルの取り巻きの一人だが、もともと身持ちの良くない、評判も悪い男だった。
「ははあ、みんな死んでしまいましたか。いやいや、これは残念なことを」
「伯爵……!」
「昨夜、愛人……いやいや、知り合いの女人とここを歩いておったら、人魚達が泳ぎ回っているのを見付けましてねえ。いやもう、驚いたのなんの。急いで夜番の衛兵どもを呼んで、捕えさせたのですよ。朝になったらぜひ、国王陛下の御眼にかけようと、楽しみにしておりましたのに。まさか、人魚がこの世に実在しているとは、夢にも思いませんでしたからねえ。しかし、呆気なく死んでしまうものだ」
「衛兵! 伯爵を捕えろ!!」
すさまじいほどの勢いで、アウグストが叫んだ。
「な、何をなさる、公爵!」
「痴れ者!」
まるで木の葉のように、伯爵の身体はアウグストに殴り飛ばされた。
「己が何をしたのかもわからぬとは、言語道断の奴だ! こんな酷い真似をしておきながら、せせら笑うとは! 恥を知れ!」
伯爵は衛兵達に拘束され、急いでその場から引きずり出された。
「マリア……!」
マリアは、狂っていた。姉達の無残な姿を前に、狂ったように泣いていた。その哀れな姿に、周囲の衛兵達も直視出来ず、ある者は俯き、他の者は眼を逸らしていた。アウグストは、マリアを力強く抱きしめたが、マリアはもはや我を忘れて、その腕の中でも抗うように泣き続けていた。
マリアの涙が、声なき声が、海岸の空気を切り裂くように響き渡っていく。姉様、わたしの姉様達。赦して。
「……赦してくれ、マリアが悪いんじゃない。わたしの責任だ。わたしがあの時、お前達にマリアを返してやっていれば」
アウグストもマリアを抱きしめて、セレスティアに謝罪する。だがもうその声は、セレスティアにもマリアにも届かない。
城の方から見守っていた貴族達も、マリアの悲痛な声なき叫びに、ただ押し黙るしかなかった。
「……マリア……」
王妃カロリーネも、女官や取り巻きの貴婦人達と共にテラスに佇み、激しく泣き続けるマリアを見詰めていた。
「マリア、あなたは……」
蒼ざめ、囁くように言葉を洩らし、耐え切れず手すりにしがみ付いた。しかしふと顔を上げると、いつの間にかテオドルも、テラスに姿を現していた。
「マリア……マリア、赦してくれ……」
テオドルの身体は小刻みに震え、その眼には涙が光っていた。
「わたしだ……わたしが、あの人魚達を殺した……わたしがマリアを愛さなければ、マリアは……あの人魚達は……」
そう言って、手すりに顔を伏せた。泣いている。国王が、肩を震わせて泣いている。いつしかカロリーネの頬にも、涙が光っていた。
13
マリアがようやく眠りについたのを見届けると、アウグストは、椅子に放り投げてあった上着を手に取り、静かに部屋の扉を閉めた。そこに思いがけなく、カロリーネが一人佇んでいるのを見て、アウグストは眼を瞠った。
「王妃様ともあろう御方が、こんな処にいらして宜しいのですか」
「……マリアは?」
「心配して下さるのですか、あなたから愛する夫を奪った女を」
「意地悪なこと仰らないで」
アウグストの顔に、嘲りの表情を認めて、カロリーネの顔が赤くなった。
「マリアは、わたくしの妹よ。姉が妹を心配して何が悪いの? ……あの人魚達のように」
「……お赦し下さい。わたしに、あなたを罵る資格はなかった」
アウグストはそう言って、深い溜息を漏らした。
「御心配なく、マリアはよく眠っています。しばらくは眼が覚めないでしょう」
「国王陛下にバルト伯爵への、厳しい処分をお願いして参りました。伯爵は爵位剥奪の上、財産も没収されるとのことです」
「そうですか」
二人の間に、重い沈黙が立ち込めた。マリアの、あれほどの深い嘆きを見た後では、すべてが空しかった。
「わたしが、テオへの憎悪を捨てられなかったことが、すべての始まりでした」
アウグストが再び口を開いた。
「わたしが船を爆破させなければ、マリアは、テオを助けたりはしなかったはずだ。そうすれば、二人が恋に落ちることも、マリアが地上に上がって、人間になることもなかった。人魚達を本当に殺したのは伯爵ではなく、このわたしです」
「……国王陛下も、御自分のせいだと仰って、泣いておいででした。自分がマリアを愛さなければ、と」
カロリーネは、手を組み合わせながら答えた。
「でもマリアは、国王陛下のことも、アウグスト様のことも責めたりはしないのでしょうね。きっと今も夢の中で、自分一人を責めているのでしょう。マリアはそういう子です。だから誰も、マリアを自分のものには出来ない。あなたも陛下も、マリアを本当に手に入れることは出来ない」
「マリアは、わたしの子を身籠ったのです」
アウグストが声を荒げた。
「これでわたしは、マリアを手に入れられると思いました。子を身籠った以上、もはやマリアは海には帰れない。テオも、マリアを諦めざるを得ない。あとはどんなに時間がかかろうと、いずれマリアは、身も心もわたしのものになると」
「ならないわ」
カロリーネの声は冷たかった。
「ええ、あなたの仰る通りです。何をしても、マリアは誰のものにもならない」
「……わたくしに、マリアを預からせて下さらない?」
アウグストは驚いて顔を上げた。
「結婚の御祝いに国王陛下から頂いた、わたくし所有の離宮がありますの。森の中にある、とても美しい離宮ですわ。以前からマリアを、そこへ連れて行ってあげようと思っておりましたのよ。マリアの心と身体が癒されるまで、陛下も他の者達も、決してマリアに近付けさせは致しません」
「あなたはお優しいのですね、王妃様」
初めて、アウグストがカロリーネに笑顔を向けた。
「申し上げましたでしょう、マリアはわたくしの妹です。亡くなられた、マリアのお姉様方の分まで、わたくしがあの子を護ります」
「わかりました。しばらくの間、マリアをあなたに預けましょう」
「アウグスト様」
カロリーネもまた、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「……憎もうと思いましたの。でもわたくし、マリアのあんな姿を見ているのは、とても耐えられない。マリアは優しい子です。優しくて純粋で、でもこの世で生きていくには、あまりにも清らか過ぎて。憎しみのような汚れた感情など、あの子の前では霧のように消えてしまうの」
「幸福にしてあげたい。いや、そうしなければ。今は、心からそう思います」
「大丈夫、そのお気持ちがまことのものであれば、マリアにもきっと通じますわ。だって、地上に上がったマリアを、今まで護っていらしたのはアウグスト様、あなたなんですもの」
14
「気分はどう、マリア」
いつものはしゃいだ明るい声で、カロリーネが寝室に入って来た。
「アウグスト様は、もうすぐお着きになるそうよ」
寝台に横になっていたマリアは、王妃の姿を認めると笑顔を浮かべた。カロリーネは、寝台の隅に腰を下ろし、お盆を運んできた女官を手招きしながら、
「スープよ。アウグスト様から、あなたが館では、どんな物を食べているのか教えて頂いたの。あまり食べられないといっても、あなたは今、大事な身体なのだから、少しは何か口にしなくてはね」
女官達に手伝わせて、マリアの身体を起こすと、お皿の蓋を取って自ら、マリアの口にスプーンを運ぶ。だがマリアは、なかなか口を開けようとしない。
「ひと口だけでも、口に入れなくちゃ駄目よ、マリア。ね、生まれて来る赤ちゃんのためと思って」
「わたしがやりましょう」
ちょうどそこへ、姿を現したアウグストが、カロリーネと入れ替わる。
アウグストはマリアを抱きかかえ、女官達が顔を赤らめているのも構わずに、口移しでマリアにスープを与えた。だがスープは、マリアの口から殆どこぼれ落ちてしまう。
「どうしても飲めないか」
「マリア……」
アウグストとカロリーネが顔を覗き込むと、マリアはアウグストの掌に、『大丈夫』と書いてみせた。けれども、その笑顔は笑っているというよりも、泣いているように儚く見えた。
マリアは、あの事件の翌日には、早くも王妃の離宮へ移された。王妃はマリアのために、自分の部屋の隣にマリアの寝室を用意させ、大勢いる自分の女官の中から、特に信頼のおける者を選んで、マリアに付けた。それだけではなく、自分の侍医を離宮に呼び寄せることまでした。
「アウグスト様ったら、あなたを眠らせるために、ワインを半分も飲ませたと仰るのよ。いくら落ち着かせるためだったとはいえ、おかげであなたは、三日も眠り続けていたの。全く、お酒に慣れていないマリアに、そんな無謀な真似をなさるなんて」
ようやく目覚めたマリアに、カロリーネは、そんなことを言っておどけてみせたが、不意に神妙な顔になって、寝台のそばの椅子に座ると、マリアの手を取った。
「話しても、いいかしら……」
静かな声で、ゆっくりと話しかける。
「国王陛下とアウグスト様が、あなたのお姉様達を鄭重に弔って下さったの。沢山のお花と一緒に、お一人ずつ海に流したのよ。皆とても、とてもお綺麗だったわ」
マリアの身体が震える。カロリーネは、その手を握りしめた。
「でもしばらくすると皆、泡になって消えてしまったの。それを見て、アウグスト様が仰ったわ。『人魚は海の泡から生まれ、泡になって消えていく生きものなのだろう』と」
共に涙にくれながら、王妃はマリアを抱きしめた。
「泣かないで、マリア。泣かないで、わたくしがいるわ。わたくしがあなたのお姉様達の分まで、あなたのことを護ってあげる。わたくしとアウグスト様が、必ずあなたを幸福にしてあげるから、だから泣かないで」
アウグストは毎日のように離宮を訪れ、病床のマリアを腕に抱いた。自ら床に入って添い臥すこともあれば、膝に上げて、赤子のように胸に抱きしめたりもする。暖かい日にはテラスに寝椅子を出して、マリアの日光浴に付き添った。マリアは、アウグストの腕の中で眠っては目覚め、目覚めては眠るという有様だったが、女官達が感心するほど長い間、アウグストはマリアに寄り添い続けた。
「館へ帰る度、アンナ達が玄関に飛び出してきて、矢継ぎ早にわたしに訊ねてくるよ。『今日のマリア様はいかがでしたか、少しは良くなっておられましたか』とね」
マリアが眼を覚ましている時には、館の様子などを語り聴かせた。
「お前を愛し、大切に思っているのはわたしだけじゃない。王妃様も、館の者達も、皆がお前の身を案じている。それだけは忘れないでくれ、マリア」
マリアも微笑んで頷く。
「王妃様が、この子の名付け親になって下さるそうだ」
時折マリアの腹部を撫でて、その存在を確かめる。
「結婚式は、子供を抱いて行うことになるな。死んだ父が聴いたら卒倒するだろうが、それもまた一興だ」
そしてアウグストは、マリアに少しでも生気を与えようとするかのように、唇を重ねるのだった。
「王妃様、そのようなことはわたくしどもが」
一方、女官達は、離宮へ来てからの王妃の行動に、仰天させられる毎日を送っていた。
「いいのよ。妹の世話は、姉であるわたくしの役目ですもの」
楽しそうにカロリーネは答えるが、王妃ともあろう者が、マリアの身体を拭くことまでするのだから、お付きの者達にすればとんでもないことである。しかし、女官達がどんなに慌てふためいてみせても、カロリーネ自身は一向に気にも留めず、積極的に身体を動かしてマリアの世話をした。
「前にも話した通り、ここは静かで綺麗な処でしょう、マリア。ここなら、あなたを傷付けようとする者なんて、一人もいないわ。国王陛下さえ、わたくしの許可がなくてはここには入れないのですもの。だから安心して養生して、早く元気になってね」
一時は、王妃に嫌われたと思っていただけに、マリアも、カロリーネに介抱されることを喜んだ。
そう、マリアはいつも微笑んでいた。事件以来、マリアの身体はすっかり弱って、床から起き上がることもままならなかった。言葉を話せないマリアには、微笑むことで感謝の気持ちを表すしかなかったが、アウグストもカロリーネも、嫌と言うほどよくわかっていたのだ。マリアの心が、すでにここにないということは。
姉達の死が、マリアのガラスのような心を、粉々に砕け散ってしまったのだ。マリアの微笑みは、マリアの涙そのものだ。マリアの心は、すでに死んでしまっているのだ。
「やめて!」
カロリーネが叫んだ。
「どうして、そんな怖ろしいことを仰るの? アウグスト様は、ひどい御方だわ」
「すみません。言葉が過ぎました」
窓辺に寄りかかりながら、アウグストが呟くように言った。
「時々、心が折れそうになるのです。あなたは何をしても、マリアがわたしのものになることはないと仰った。それでもいいと、わたしも思っていた。だがあんな状態のマリアを、いつまでも見ているのは、この世の何よりも辛い。このまま、マリアを失ったらと考えると」
「いけません、あなたがそんなことでは、マリアはますます弱ってしまうわ」
カロリーネは、アウグストの腕を掴んだ。
「信じましょう、マリアは必ず回復するわ。マリアをこのまま、死なせたりなんかさせるものですか。わたくし達でマリアを護らなかったら、誰があの、可哀想な人魚を護るの?」
「あなたは強い方ですね、王妃様。テオやわたしよりも、ずっと強くて優しい。わたしはあなたを、見くびり過ぎていたのかもしれない」
アウグストが、穏やかな笑顔を浮かべた。
「見直して下さったの?」
「ええ」
「あなたに褒めて頂けるなんて、光栄だわ」
カロリーネも笑顔になった。
「でもアウグスト様だって、毎日のように王宮とここを往復して、ずっとマリアに付き添っていらっしゃるわ。マリアも喜んでおりましてよ」
「テオが、君にもう迷惑をかけないようにするからと、早々にこちらへ寄越してくれるのです」
「陛下と和解出来まして?」
その言葉に、アウグストの顔が真顔になった。
「子供の頃から仲が良かった分、一度でも憎み合えば、そう簡単には元に戻れないでしょう」
「でも、王宮には顔を出して下さっている。それでいいと思いますわ」
「……テオは、マリアの見舞いに来たいと言っているのです」
「駄目よ!」
カロリーネが再び叫んだ。
「駄目よ、何故そんなことを仰るの!? どうしてマリアを、そっとしておいて下さらないの!? 本当に、マリアにすまないと思うのなら、もう二度と逢おうなんて思わないで!」
「テオもわかっているのです。けれど、それでも」
「まだ愛しているというのね。どうして、あの方は」
首を振り、溜息を漏らす。
「ともかくわたくし達、マリアを護ることだけを考えましょう。どんなに時間がかかっても、マリアの心を取り戻せると信じて」
「ええ」
森の離宮では、時間が静かに流れていく。やがて、白い雪が森を包む季節が来て、そして、花咲く春がめぐってきた。けれど、いつになってもマリアの身体は、起き上がることすら出来なかった。
「怖くはないか」
いつものように、アウグストがマリアを抱いて、産み月が近付いた腹部を撫でながら訊ねると、マリアが頷いた。
「本当か」
重ねて訊ねると、少し戸惑った様子を見せる。
「人魚が、人間との子を産むのだ。怖ろしくないはずはない。正直に答えていいのだよ」
躊躇いながらマリアが頷くと、アウグストは、マリアを抱く腕に力を込めた。
「赦してくれ。わたしが、お前の身体を無理矢理奪ったりしなければ、お前は今頃、海に戻ることが出来たはずだ。わたしを恨みたければ恨んでもいい」
その言葉に、マリアは驚いてアウグストを見詰めた。
恨むとか憎むとか、そういう負の感情を受け入れるには、マリアの心は、あまりにも疲れ果てていた。アウグストや王妃の、心の籠った介抱は素直に嬉しい。でも、わたしはどうしてここにいるのだろう。姉様達が死んでしまったというのに、わたしは何故生きているのだろう。わたしはこれから、何をすればいいのだろう。
15
「……マリア」
躊躇いがちに、自分を呼ぶ懐かしい声に、マリアは、深い眠りから呼び覚まされた。
「わたしだ、マリア。わかるか」
ようやくテオドルだと認めても、マリアは、ぼんやりとその顔を見詰めていた。
「驚かせてすまない。アウグストと王妃には、君に逢うことを固く禁じられていたが、一度でいいから、わたしは君に逢いたかった。逢って、君に直接謝りたかった。だから、二人が不在の時間を見計らって、急いでここまで来たんだ」
カロリーネは王妃たる身、いつまでもマリア一人に、かかりきりになっているわけにもいかない。出席しなければならない公式行事も、それこそ山のようにある。
「すまなかった。君の姉上達が死んだのは、わたしのせいだ。わたしが君を追い詰めたせいで、あの人魚達は死んでしまった。もちろん、謝ってすむことではない。けれど一度だけ、ひと言だけでも君に……マリア?」
マリアは、テオドルを前にしても、以前のように怯えた様子は見せなかった。泣き出すこともなかった。その顔には何の感情もなく、ただ、テオドルを見詰めているばかりだった。
「マリア。どうしたんだ、マリア。大丈夫か」
思わずテオドルが、マリアの肩を抱いた時、マリアは無意識のうちにゆっくりと、黒光りする短剣をテオドルに向けた。
それは今ではもう、たったひとつの、姉達の形見となってしまったものだ。だが、大切にしまわれていたはずのそれが、一体いつからマリアの手元にあったのか。マリアも初めて我に返り、驚いて自分の手を見詰めた。途端に、涙がどっと溢れてきた。
「マリアから離れろ、テオ!」
突然、怒りに身を震わせた、アウグストが飛び込んで来た。
「テオ、貴様……!」
だが、ゆっくりとそちらに振り返ったテオドルの顔は、真っ青になっていた。アウグストも、マリアが短剣を握っているのを見て、思わず口をつぐんだ。そしてテオドルは、何かに打ち砕かれたような表情を浮かべ、茫然としたまま部屋を出て行った。
マリアの手から、短剣が落ちた。涙が止まらなかった。でも、マリアの心を占めているのは、哀しみなどではなかった。忘れられる。これでわたしは、テオのことを忘れられる。マリアの心の中にあったわだかまりが、今、水のように流れ出て行く。さようなら。さようならテオ、そして有難う。今初めてわたしは、怒りでも哀しみでもなく安らかな気持ちで、あなたにそう言うことが出来る。
「マリア……!」
アウグストが寝台に駆け寄り、マリアを抱きしめた。
「すまない、お前を一人にしていたばかりに……!」
言いかけて、その唇がマリアにふさがれた。初めてマリアが、自分からアウグストの背中に腕を廻し、口付けてきた。更に、その背中に書かれた言葉に、アウグストは眼を瞠った。
「『愛している』……確かに、そう書いたのか。マリア、マリア本当に? 本当に、わたしを愛してくれているのか」
その言葉の文字を、マリアがいつ知ったのか。アウグストに、教えた覚えはなかった。だが、アウグストが覗き込んだマリアの顔は、涙に濡れてはいても輝いていた。信じられない思いで、マリアの顔を見詰めていたアウグストは、今度は自分からマリアの唇を貪った。
「マリア、マリア……愛している、わたしもお前を愛している」
マリアも、アウグストの背中に廻した腕に力を込めた。涙は後から後から、止め処もなく溢れてくる。テオドルへの想いが水のように流れ去った今、ようやくマリアの心は、アウグストへの想いだけでいっぱいになれたのだ。
テオドルの馬車とすれ違ったカロリーネは、マリアの寝室に繋がる階段を、急いで駆け上がって行った。
「マリア! アウグスト様!」
寝室に飛び込んだ、カロリーネがそこに見たのは、ようやく、本当の恋人同士になれた二人の姿だった。しかし。
「マリア! 大丈夫か、マリア!」
「マリア、しっかりして!」
マリアが突然、激しく苦しみ始めた。
16
「産気付かれたようでございます」
侍医の言葉に、流石に二人とも言葉を失った。
「陛下だわ。陛下のせいだわ、産み月にはまだ間があったのに!」
「おやめ下さい、今更言っても仕方ないことです」
カロリーネが涙混じりに叫び、アウグストが諌めた。
「落ち着き下さい、王妃様。マリア様のお腹の御子は、ただいま八ヶ月になられる。たとえわずかでも、無事に生まれる可能性はございます」
「頼む。だが、人魚が人間の子を産むのだ。以前からマリアも、出産を怖がっていた。何とか、マリアと子供を助けてくれ」
「全力を尽くします」
実直な侍医は、真剣な眼差しでお辞儀をし、急いで産室へ戻って行った。
「こんな時、父親というのは歯がゆいものですね」
力なく、椅子に腰を沈めた王妃を前に、アウグストもゆっくりと、椅子に腰を下ろしながら言った。
「マリアと子供が苦しんでいるというのに、父親であるわたしは、二人を助けてやることも出来ない。情けないことこの上ない」
「信じましょう」
カロリーネが、アウグストの手を握った。
「大丈夫、御子はきっと無事に生まれるわ。マリアも、神様が必ず助けて下さるわ。だってあなたはやっと、マリアの心を取り戻すことが出来たのですもの。このままマリアが死ぬなんてこと、赦されていいはずがない」
「……ええ」
しかし、子供はなかなか生まれなかった。陽が暮れて夜になっても、マリアの苦しみは続いた。アウグストもカロリーネも、食事を摂ろうともせず、隣室でその時を待ち続けていたが、やがて居ても立ってもいられなくなって、二人揃って産室に飛び込んだ。
「マリア、マリア大丈夫?」
「そばにいる。わたしも王妃様も、そばにいるから頑張るんだ、マリア」
普通なら、王妃と公爵たる者が産室に待機するなど、眉をひそめられる行為だ。けれど、二人を諌めようなどと思う者はいなかった。苦しむマリアを間に挟んで、二人とも、マリアの手をしっかりと握りしめた。しかしそれでも、子供が生まれる様子はなかった。
長い、誰にとっても長く苦しい時間が、ゆっくりと過ぎて行った。マリアは、経験したことのない激痛のために、のた打ち回ったり、度々意識を失ったりを繰返した。
「生きて、マリア。死なないで。あなたやっと、やっと幸福になれるのよ。あなたの、お姉様達の分も生きなくちゃ駄目よ。だから死なないで」
涙に曇った声で、カロリーネがマリアを励ます。
「しっかりなさいませ、マリア様! もうすぐ、もうすぐでございますよ!」
「お気を確かに! あと少しの辛抱でございます!」
助産婦と侍医も叫ぶ。だが時間は更に、じりじりと流れて行った。長い、長い夜が、やがて静かに明け染め始めたその時。
「マリア!」
アウグストが叫んだのと時を同じくして、赤子の泣き声が、離宮の中に響き渡った。
17
「ほら、あなた達もこの子を見てごらんなさい。髪と眼の色はアウグスト様譲りだけれど、顔はマリアにそっくりだわ。大きくなればきっと、お父様やお母様のように、多くの貴婦人方を魅了してしまうことでしょうね」
カロリーネは先程から、赤子を抱いて離さない。女官達も次々と、赤子の顔を覗き込んだ。
「本当に。こんなお美しい公子様を、他に見たことはございません」
「公子様の御将来が、今から楽しみですわ。きっとお父様のように、立派な公爵様におなりでございましょう」
王妃を囲んで、女達がはしゃいでいると、痺れを切らしたように後ろから、アウグストの声がかかった。
「王妃様、いい加減、息子を返して頂けませんか。まるで、あなたが息子を産んだようだ」
「まあ、アウグスト様ったら」
カロリーネは、アウグストの方に振り返りながら、
「だってあなたはこの十日間、マリアをずっと独占しているのですもの。この子まで取られたら、わたくしの立場がなくなるわ」
「しかし、その子は我々の子供なのですよ」
アウグストはいつものように、病床のマリアに寄り添っていた。マリアは、頭をアウグストの胸に預けて、以前より穏やかに、美しい微笑みを浮かべている。カロリーネは、いそいそと寝台に戻りながら、
「ね、それよりもこの子の名前だけど」
「考えて下さいましたか」
「もちろんですわ。すでに国王陛下にも、お許しを頂いておりますのよ。ユリウスというのはいかがかしら」
「ユリウス、いい名前だ。お前もそれでいいな、マリア」
マリアは、微笑みながら頷いた。マリアはまだ、子供を抱けるほどの力もないため、カロリーネが、マリアの横にユリウスを寝かせると、マリアは、我が子の寝顔を覗き込んだ。その微笑みが更に輝くのを確かめて、カロリーネは、アウグストを部屋から誘い出した。
「良かったですわね。一時は、どうなるかとも思いましたけれど」
「ええ、まだ起き上がれる状態ではありませんが、少なくとも、以前よりはずっと良くなった」
二人にとって、まるで夢を見ているかのようだった。特にアウグストにとって、マリアの愛と息子のユリウスを、ほぼ同時に手に入れたことは、天にも昇る心地がした。
「マリアがもう少し良くなれば、館に戻すつもりです」
「まあ、そんな!」
「お赦し下さい、もう半年以上、マリアは館に帰っていないのです。メイドを初め、館の者達が痺れを切らして、マリアの帰りを待っている。館では、あなたは相当恨まれておりますよ、王妃様」
「ま、失礼ね。でもそうね、子供は、自分のおうちで育つべきですものね。ところで、アウグスト様にお願いがあるのだけれど」
「何です?」
「今すぐでなくてもいいの。でも、ユリウスが十六になった暁には、陛下の跡継ぎとして、わたくし達の養子にさせて頂きたいの。もちろん、陛下もそれをお望みです」
「王妃様!?」
思いがけない申し出に、流石のアウグストも唖然となった。
「わたくし、賭けに負けてしまったわ。ほら、わたくしとマリアと、どちらが先に赤ちゃんが出来るかって賭け」
「王妃様!」
「わたくし、もう陛下と半年以上、褥を共にしていないの」
くすくす笑っていたカロリーネの顔が、不意に真顔になった。
「いいえ、陛下と別れるつもりはないわ。一生、あの方に添い遂げる覚悟は出来ています。でもわかるでしょう、もうわたくし達夫婦は、元には戻れない」
「……お赦し下さい。わたしが、あなたを不幸にしてしまったのですね」
「違うわ、そんな風にお考えになっては駄目よ。わたくし、自分を不幸だなんて思っていないわ。それに陛下のことも、わたくし護ってあげたいの。自分勝手で優柔不断で、わたくしやマリアを、振り回すような御方だけれど、それでもあの方は、わたくしの夫ですもの」
カロリーネは、再び笑顔を浮かべた。
「いいえ、夫というより仲間とでも呼ぶべきかしら。共にこの国を統べる者として、わたくしはこれからも、陛下を支えていくわ」
「あなたは、本当に強い女性だ。あなたになら安心して、テオをお任せすることが出来る」
18
マリアは、何かの気配を感じて、ふと眼を覚ました。
ユリウスの顔を見詰めているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。周囲には女官も誰もおらず、ユリウスはよく眠っている。マリアは不思議な思いで、我が子の顔をもう一度見詰めた。本当にこの子は、つい十日前まで、わたしのお腹にいた子なのだろうか。人魚のわたしが、子供を産んだ。出産は、想像していた以上の激痛で、本当に生命がけだった。こんな怖ろしい苦しみを経験しなければ、子供を得られないなんて、人間とは、なんと不思議な生きものなのだろう。あれほどの苦しみを与えられた後では、子供を可愛いなんて、到底思えないと思っていたが、深い眠りから目覚めて、枕元にユリウスを連れて来られた時、何とも言えない感動と喜びで、涙が止まらなかった。
今もすやすやと眠る、我が子の顔から一時も眼が離せない。こんな小さな生きものが、何よりも愛おしい。もしかしたらわたしは、この子を産むために人間になったのだろうか。テオと出逢ったことも、アウグストに助けられたことも、すべては、この小さな生命を得るために課せられた、わたしの運命だったのだろうか。
誰もがユリウスの顔は、マリアにそっくりだと言う。けれどマリアには、姉達一人一人の顔が、ユリウスに映って見えた。もし、姉様達が生きていらしたら。マリアの思いは、どうしてもそこへ行ってしまう。もし、姉様達がこの子をご覧になったら、なんて仰るだろう。お前はもう人魚ではないと、罵られるだろうか。それとも、よくやったと褒めて下さるだろうか。
最期の瞬間までマリアを、『大切なわたしの妹』と呼んでいたセレスティア。テオドルを刺せと、短剣を与えたイリス。そしてマリアに、人間になるきっかけを与えたフィオーネ……。我儘を通したマリアを尚も案じ、危険を冒して海岸に近付き、そのために生命を絶たれた、愛しい姉達。
――出来ない。
マリアの頬には、いつの間にか涙が伝わっていた。出来ない、わたしには出来ない。姉様達の死を代償に、自分一人が幸福になるなんて、そんなことは絶対に出来ない。マリアは枕に顔を埋めて、激しく泣き出した。
「その子が、あんたが産んだ子供かい……?」
しばらくそうして泣いていたマリアが、突然の声に振り向くと、開け放たれた窓のそばに、あの魔女が佇んでいた。
「おばあさん……!?」
マリアは再び驚いた。思わず自分の口を抑えたが、魔女は驚きもせず、優しい微笑みを浮かべながら寝台に近付いた。
「声を取り戻したんだよ、あんたは。さあさあ、あたしにも、あんたの赤ちゃんを見せておくれ」
マリアの戸惑いをよそに、魔女は嬉しそうにユリウスを抱き上げ、その顔を覗き込んだ。
「まあ、なんて綺麗な子だろう。本当にあんたにそっくりだ。その上、あんたの姉さん達の顔にも見えてくるよ。流石は、人魚の血を受け継いだ子だねえ」
「おばあさん……おばあさん、一体どうして……」
「突然驚かせて、すまなかったね。どうしてもあんたに直に逢って、謝りたいと思ったからさ」
ユリウスを寝台に戻しながら、魔女が言った。
「謝る……?」
「あたしはあんたに、ひどいことを言ってしまった。姉さん達を裏切ったあんたに、幸福になる資格はないと」
「そんなことはありません。おばあさんの言うことは正しいわ。わたしは、幸福になんてなってはいけないの」
ゆっくりと首を振りながら、マリアは答えた。
「わたしは、犯してはならない罪を犯したの。人魚はやっぱり、人間になってはいけないの。わたしが罪を犯さなければ、姉様達は死なずにすんだのに」
「それじゃあんたは、この子を産んだことも間違いだと言うのかい」
魔女の問いかけに、マリアは大きく眼を瞠った。
「いいえ、そんな。ユリウスは違うわ。わたし、わたしはこの子の父親を、アウグスト様を心から愛しています。わたしは今まで、テオを愛していると思っていた。だってテオのために、わたしは人間になったのですもの。でもアウグスト様は、わたしが地上に上がってからずっと、わたしを護って下さっていたの。初めは復讐のためにだったけれど、今は本当に心から、わたしのことを愛して下さっているのよ。そしてわたしも、そんなアウグスト様に少しずつ惹かれていったのだわ。だから、だからユリウスは、この子は、わたし達の愛の証として生まれたのです」
「それならあんたは、これからやっと幸福になれるんじゃないか。愛する夫と子供と、幸福に生きていけるんじゃないか」
「おばあさん、わたし疲れてしまったの。身体も、心も、本当に疲れてしまったの。今は歩くことはおろか、起き上がることも出来ない。こんな身体でこれ以上、生きていけるとは思えない」
マリアの眼から、再び涙がこぼれる。
「人間の世界で生きることは、人魚にとって、想像以上の苦しみと哀しみが伴うの。でももうわたしには、それに耐えて行けるだけの、力も勇気も残っていないの」
「ああ、こんな偶然ってあるんだねえ。この離宮の森は、昔あたしが住んでいた処じゃないか。ほら、あんたに渡したあの薬、あたしが人間だった時に作った、薬の薬草を取った森だよ。今初めて気が付いた、懐かしいねえ」
魔女は突然話題を変え、懐かしそうな表情を浮かべながら窓辺に戻った。
「あんたの姉さん達に頼まれた薬は、結局出来なかったよ」
森の風景に視線を移したまま、呟くように魔女は話を続ける。
「姉さん達が、自慢の髪をばっさり切って、あんたを人魚に戻す薬を作ってくれと頼んできた時には、あたしも本当に驚いた。そんな方法はないと、何度も断ったんだけど、あんたも姉さん達も、苦しんでいたのは知っていたから、あたしも出来るだけの努力はしたよ。だけど殆どの髪は、姉さん達が泡になったのと同時に、残らず消えてしまったのさ。わずかに煎じていた一部も、見てごらん、真珠になってしまったんだよ。あんた達人魚は本当に、最期まで清らかで、美しい生きものなんだねえ」
そして魔女は、小さな水晶の瓶に入った真珠を取り出した。
「そう、あんた達人魚は、この世で最も美しい場所で、美しく生きよと定められた生きものなんだ。到底、こんな穢れた人間の世界では、生きていけない。これまであんたが無事だったのも、不思議なくらいなんだよ。きっとそれは、あんたと同じ名前を持った御方が、あんたのことをずっとお護りして下さったからだろうね」
魔女から渡された真珠を、マリアは涙と共に抱きしめた。
「幸福になってはいけないなんて、そんなことがあるものか。今更だけど、あたしは自分の言葉を訂正するよ。そして、あんたに謝るよ。人魚も人間も、この世に生まれてくる生きものは皆、幸福になるために生まれてくるのだから。あんただって、すでに幸福を手に入れているじゃないか」
「ええ……ええ、幸福だわ。アウグスト様に愛されて、ユリウスを産んで、わたしは今、とても幸福だわ。本当はわたし、もっと生きたい。ずっとこのまま、アウグスト様のおそばで生きて行きたい! だけど、姉様達を裏切って人間になった罪を、わたしは償わなければいけない」
「どうしてそんなにも、自分一人を責めるんだい。何でも物事は、誰か一人だけの責任で起こるものじゃないんだよ。だからあんたは純粋なんだ。この人間の世で生きて行くには、あまりにも清らか過ぎて美しい」
魔女は、溜息を漏らした。
「だけど、良かったよ。あんたはもう、自分の限界が来ていることを知っていた。あたしももうこれ以上、あんたにあれこれ言うのはやめるよ。本当はね、あたしはあんたを助けに来たんだ。あんたの姉さん達は助けてあげられなかったけど、少しでもあんたの役に立ちたいと思ってね」
「有難う、おばあさん……」
マリアは、隣ですやすやと眠り続けるユリウスの顔を見詰め、そして呟いた。
「……アウグスト様……」
赦して下さい、アウグスト様。これ以上、あなたのおそばで生きていけないわたしを。最期まで、あなたに「愛している」と言えなかったわたしを。
19
アウグストが寝室に戻ると、ユリウスが眼を覚ましており、父親の姿を見て笑顔を浮かべた。だが赤子の頬を撫でながら、その母親の顔を見詰めた時、アウグストの顔は途端に凍り付いた。
「……マリア?」
マリアは眠っていた。微笑みを浮かべて、とても、とても幸福そうに。それはアウグストが、今まで見たことがないほど美しく、そして清らかな微笑みだった。
「マリア……!」
アウグストが抱き上げても、何度呼びかけても、マリアの眼が開かれることは、二度となかった。
20
「お父様!」
黒髪の男の子が、勢いよく部屋に飛び込んで来た。
「王妃様がね、珍しいお菓子を沢山用意したから、お父様と一緒にお茶にいらっしゃいって、御使いを寄越して下さったよ。行ってもいいでしょう?」
「やれやれ、王妃様は相変わらず、お前を甘やかすことしか考えていないのだな」
アウグストは溜息をつきながら、息子を振り返った。
「だって今日は、僕の五歳のお誕生日だよ、お父様。国王陛下も、贈り物を沢山用意して下さってるって」
「御夫妻揃って、お前を眼に入れても痛くないほど、可愛がって下さっているんだからな。困ったものだ」
「王妃様も陛下も、僕のことだけじゃなく、お父様のことも心配なさってるんだよ。だってお父様は、僕のお誕生日の頃になると、お母様のお部屋に籠ってしまうんだもの」
「お母様にお前がどれだけ成長したか、報告しなければいけないからね、ユリウス」
アウグストが腰掛けている椅子の前には、夢のように美しい人魚の絵が飾られていた。
「アンナもエリゼもみんなして、時々、僕の顔を見て泣くんだよ。『お母様は、本当にお美しい御方でした』って」
「アンナ達はお母様に心酔していたし、お前はお母様に生き写しだからね」
「でも『公子様は、お母様を御存知ないんですね』って、言って泣くんだ。僕は、『お母様のことなら何でも知ってるよ』って、いつも言ってるのに!」
ユリウスは父親の膝にもたれながら、顔をふくれてみせた。
「お父様は信じてくれるでしょ? 僕、嘘なんか吐いてないよ。お父様がお母様のこと、大切そうに護っているところ、何度も夢に見たんだよ」
「ああ、もちろん」
アウグストは、微笑みながら頷いた。この子は、ユリウスは、不思議な処のある子供だった。生前の母親の姿を、何度も繰り返し夢に見ているのだ。アウグストも初めは信じられなかったが、「お父様は王宮の海岸で、お母様を助けたんだね」「舞踏会に出席した時のお母様とお父様、光り輝いてるみたいだった」「お母様は足が痛かったのに、あんなに沢山、歩く練習してたなんて」などと、まるでその場にいたかのように、ユリウスが知るはずのないことを話すので、今ではそれを聴くのを、楽しみにしているくらいだった。
「やはり、お前は人魚の子だから、他の人間にはない能力があるんだろう。ところで昨夜は、お母様の夢は見なかったのか」
「そうそう、それを真っ先に、お父様にお話ししなくちゃいけなかったんだ。お父様、お母様は死んでなんかいないよ。僕、今のお母様に逢ったんだよ!」
「今の……?」
「お父様は、伯母様達もお母様も、海に流して弔ったって言ってたよね。僕も前に見たよ。お母様が沢山のお花に囲まれて、海に消えてったところ」
「それはいい。それはいいからユリウス、今の話を詳しく聴かせなさい。お母様が死んでいないとはどういうことだ?」
アウグストは、息子の小さな肩を掴んで、真剣な眼差しで訊ねた。
「あのね、僕、海の底にいたんだ。お日様の光が差し込んで、お魚がいっぱい泳いでいて、とってもとっても綺麗な処だったよ。僕嬉しくて、お魚と一緒に遊んでいたの。そしたらそこに、お母様と伯母様達が来てくれたんだ」
ユリウスは、眼を輝かせながら答えた。
「伯母様達が『あなたがマリアの子ね!』って言って、僕を囲んで歓迎してくれたよ。名前も教えてくれた、セレスティア伯母様、イリス伯母様、フィオーネ伯母様……」
「マリアは? お母様はどうした?」
「初めはにこにこしながら、伯母様達が僕と遊んでくれるの見てたの。でも僕がちょっと疲れてきたら、すぐに抱きしめてくれたんだ。『ここまで来てくれて有難う、ユリウス。あなたからお父様にお伝えして、お母様はここにいるからって』」
アウグストは息子の顔を見詰めながら、しばらく茫然としていた。
「……他には? 他には何か言っていなかったか」
「うん、そしてね、『あなたがわたしに逢いに来てくれたのだから、わたしもいつか必ず、あなたとお父様に逢いに行くわ。お父様に必ずお伝えしてね、わたしは、マリアはアウグスト様を、今までもそしてこれからもずっと、永遠に愛しています』……お父様?」
ユリウスは驚いて、父親の顔を見詰めた。アウグストの頬に、涙が光っていた。
「大丈夫? お父様、大丈夫? 何処か痛いの?」
「ユリウス……!」
アウグストは、息子を力強く抱きしめた。
「ごめんなさい、お父様。僕、何か、お父様を哀しませるようなこと言ったんだね。ごめんなさい」
「……違うよ、ユリウス。そうじゃない。お前はむしろ、素晴らしいことをしてくれた」
戸惑う息子に、アウグストは優しく笑いかけ、そして、おもむろに自分の首にかけていた、真珠の首飾りを外して、息子に渡した。それは金の台座に、大粒の真珠玉をはめ込んだ、見事な品だった。
「お前にあげよう。これからはお前が、肌身離さず付けるようにしなさい」
「いいの? だってこれ、お母様がお父様に残した、大事な物なんでしょう?」
「いいんだよ。お父様とお母様からの、お前への贈り物だ。わたしが身に付けているより、お母様の子であるお前が、持っていた方がふさわしいだろう」
そう言いながら、息子の小さな首にその首飾りをかけてやった。
「さあ、王宮に上がる支度をしておいで。そして王妃様にも、今のお母様のお話を聴かせて差し上げなさい」
「うん、でも王妃様、信じてくれるかな」
「もちろんだとも。王妃様は地上での、お母様のお姉様だった方なのだから」
「そうだね!」
部屋を飛び出して行く息子を見送ると、アウグストは、椅子から立ち上がって絵の前に佇んだ。
「マリア……」
いつか必ず、あなたに逢いに参ります。あなたと、わたし達の息子に逢いに。
「愛している……わたしもお前だけを、今までもそしてこれからもずっと、永遠に愛している……」
そうしてアウグストは、息子と王宮へ上がるために、静かに部屋を後にした。
人魚姫が人間になった時のカルチャーショックは、相当なものだったんだろうなあなどと考えたのが、この物語を作るきっかけとなりました。
アンデルセンの原作では、そのあたりのことはあっさりと、人魚姫が人間の、特に王宮の世界にすんなり馴染んでいたように思えたのですが、ほんとはもっともっと苦しんでいたはずでしょ! などと考えているうちに、いつの間にかマリアという、わたしの人魚姫が生まれていました。
この物語を考え始めた頃に、鬼塚ちひろの「月光」が流行っていて、ちょうど物語のイメージにぴったりだと、迷わずタイトルを借りてしまいました。でも、実際書き始めてみると、自分でも意外な展開を見せて、特に後半は、初めに考えていたのとはだいぶ変わっています。前回書いた「ニャロメ」の物語とは反対に、随分官能的な物語になってしまって、その点でも驚いています。でも人魚姫というお伽話自体が官能的なので、まあいいかなとも思っていますが。
だけどやっぱり、哀しい物語というのは童話でも寂しいですね。もしまたいつか、シンデレラや眠り姫など、わたしのお姫様の世界を書く機会があったら、コメディとはいかなくても、出来るだけ楽しい物語にしたいと思います。
ここまで読んで下さった方に、感謝を込めて。