第1話 ブラックチェリーの誕生日
シャルロット・エバンスは、ブラックチェリーが嫌いだった。
濃い赤色の果実は見た目こそ美しいが、独特の酸味と香りがどうにも苦手だ。
幼い頃、一口食べて顔をしかめたのを家族は今でも覚えている。
だから誕生日のケーキは、いつも桃か苺だった。
「ロッテ、またクッキーを食べてるの?」
ある日の午後。
焼きたてのクッキーを頬張っていたシャルロットに、兄のヴィンセントが声をかけた。
「だって美味しいのですもの」
「夕食は?」
「ちゃんと食べます」
「本当に?」
「本当です」
シャルロットが真面目に答えると、ヴィンセントは楽しそうに笑った。
蜂蜜色に近い金褐色の髪と、澄んだ青い瞳。
社交界でも人気のある伯爵家嫡男だが、妹の前では昔から変わらない。
「まあ、ロッテは可愛いから許すけど」
「兄様」
「何?」
「そういうところです」
「事実だろう?」
悪びれない兄に、シャルロットは呆れながらも笑ってしまう。
昔からこうだった。
少しふっくらしていた頃も。
社交界デビューしたばかりの頃も。
兄だけは、一度もシャルロットを否定したことがない。
「そういえば、もうすぐ誕生日だね」
「ええ」
「今年は何がいい?」
「桃のタルト」
「了解」
ヴィンセントは即答した。
「ブラックチェリー以外だね」
「当然です」
「ロッテの天敵だから」
「大げさです」
「いや、大事件だった」
ヴィンセントは遠い目をした。
「七歳のロッテが『もう一生食べません』と宣言した日を、兄は忘れていない」
「忘れてください」
「可愛かったから無理」
シャルロットはため息をつく。
けれど、こういう時間は嫌いではなかった。
穏やかで、安心できる。
だから、この時は思ってもみなかった。
婚約者が、自分の嫌いなものを誕生日に贈ってくるなんて。
十八歳の誕生日当日。
シャルロットは婚約者のルーカス・バレットと、王都で待ち合わせをしていた。
ルーカスは男爵家の次男だ。
明るく行動力があり、人懐っこい。
少し見栄っ張りなところはあるが、それも彼の魅力だと思っていた。
何より、彼はシャルロットの初恋だった。
「シャル」
ルーカスは大きな箱を抱えて現れた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「今日は特別なものを用意したんだ」
その顔は誇らしげだった。
シャルロットは自然と笑顔になる。
「楽しみだわ」
「絶対に驚くぞ」
そう言って、彼は箱をテーブルの上へ置いた。
有名菓子店の紋章が見える。
王都でも予約が難しい高級店だ。
「まあ」
「頑張ったんだ」
ルーカスは満足そうに言う。
「伯爵令嬢への贈り物だからな」
その言葉に、シャルロットは少しだけ首を傾げた。
伯爵令嬢への贈り物。
私への贈り物ではなく?
そんな考えが一瞬浮かぶ。
けれど、すぐに打ち消した。
考えすぎだろう。
ルーカスは、自分を喜ばせようとしてくれているのだから。
「開けてみてくれ」
「ええ」
箱を開く。
そして、シャルロットは固まった。
真っ白なクリームの上に並ぶ艶やかな果実。
宝石のような深紅。
それは間違いなく、ブラックチェリーだった。
「どうだ?」
ルーカスが得意げに言う。
「王都でも滅多に手に入らないらしい。店主が、大人の女性にふさわしい特別なケーキだと言っていた」
シャルロットはケーキを見つめた。
ブラックチェリー。
よりによって、ブラックチェリー。
「あの……」
「ん?」
「私、ブラックチェリーは苦手なのだけれど」
言葉は、思ったより素直に口から出た。
ルーカスの笑顔が固まる。
「え?」
「ごめんなさい。でも昔から苦手で」
「聞いたことないぞ」
即座に返された言葉に、シャルロットは目を瞬いた。
「話したことはあるわ」
「いつ?」
「何度か」
少なくとも一度ではない。
果物の話をした時。
好きなお菓子の話をした時。
そのたびに話していたはずだった。
けれどルーカスは首を振る。
「覚えてない」
胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
覚えていない。
それは仕方ないことかもしれない。
誰だって、すべてを覚えていられるわけではない。
けれど。
誕生日の贈り物を選ぶ時くらい、自分の好みを思い出してほしかった。
そんな気持ちだけは、どうしても消えなかった。
「それに大きいわね」
思わず口にしてしまう。
「二人では食べきれないでしょう?」
ルーカスの顔が曇る。
「せっかく取り寄せたんだぞ」
「それは分かっているわ」
「普通は先に喜ばないか?」
責めるような声だった。
シャルロットは言葉に詰まる。
確かにそうかもしれない。
彼は時間もお金もかけてくれた。
その気持ちは嬉しい。
けれど。
「俺は君のために頑張ったんだ」
ルーカスは続けた。
「伯爵令嬢にふさわしいものを選んだ」
その言葉に、シャルロットは黙った。
伯爵令嬢にふさわしいもの。
高価で。
珍しくて。
誰もが羨むもの。
でも。
それは本当に、自分が欲しかったものだったのだろうか。
「いただくわ」
シャルロットは微笑んだ。
少し無理をして。
「ありがとう」
切り分けられたケーキを口に運ぶ。
やはり苦手な味だった。
それでも飲み込む。
その後の茶会は、どこかぎこちなかった。
会話は続いているのに、心だけが遠い。
そんな感覚だった。
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