エピローグ
駒井は上着を左手にかけると立ち止まり、右手に持つハンカチで額の汗をぬぐった。周囲の緑がいくらか熱を奪っているはずだが、猛暑日の日差しが駒井の老体を締め上げる。
「駒井さん」霊園の奥から成川が手を振った。
「やあ。お久しぶりです」
駒井と成川は示し合わせて、初盆の前に遠江笑結の墓参りをすることにした。離れた別々の場所にある菊池翔空と松村美々の墓参りもこっそりとする予定なので、時間の都合をつけるのが厳しかったためだ。
「痩せられましたか?」
「はい。警備の仕事が色々と忙しいもので。あとは松久保君の件で色々と」
駒井は今、松久保の起こした事件の加害者弁護団に協力している。検察の取調べに対して非協力的な態度を崩さない松久保は、このままでは放っておくとかなり重い量刑になってしまう。
笑結の死後、田鳥の顔写真が出回った。それと同時に非道の噂が尾ひれをつけて広まり、今や田鳥の悪事は広く世間に知られている。その点を利用して、松久保は悪人を討った多くを語らない正義の味方として祀り上げるつもりだった。事実そうなのだから。
初審は未成年である上に裁判員裁判のため、そういった悲劇のストーリーは効果的だ。某大手週刊誌が扇動的な報じ方をしている点も追い風になっている。田鳥の親族は裁判にかなり消極的だ。うまく立ち回れば執行猶予を勝ち取ることも可能かもしれないと、駒井は考えていた。
「駒井さん」
線香に火をつけて線香立てに差し、手を合わせようとした駒井に声がかけられた。
振り向くとそこには地味なワンピースに身を包んだ相良環がいた。
ゆったりとした服なのではっきりとは分からないが、以前に彼女の家で会った時よりも遥かに痩せて美しくなっていた。
相良は両手で水の入った手桶とひしゃくを持っている。
「やあ、お久しぶりです相良さん。お元気そうですね」
「はい。あたし暑いの好きなんですよ。体力には案外自信あるんです」桶を片手で持ち直すとひしゃくで中の水を掬い、遠江笑結の墓にかけた。
「あの時はほんと、色々失礼なこと言ってすみませんでした。あたしも頭がぐちゃぐちゃになってて、酷い状態だったっていうか」
「なあに。私は頭がボケているので、昔言われたことなんてとんと忘れていますよ」
駒井の言葉を聞いて相良は一瞬ぽかんとしたが、自分が以前に駒井をボケ老人扱いしたことを思い出したようだ。頭を抱えて「あああ……」と唸り始めた。
「あんまり相良のことをいじめないであげて下さい」と、これまた成川が以前口にしたことのあるセリフを言って、駒井を笑わせた。
駒井は結局、事件について知った真実の一部を除いて、大半は墓の中まで持っていくことにした。
松村家の家族は円滑な人生を送っている。駒井の推測通り、優太と健二が就職する際に、山口元大臣が口利きをした痕跡も見つかった。
菊池家は夫婦で建築事務所を経営していたが、翔空が亡くなる直前は経営がかなり傾いていた。それが、翔空が亡くなって以降は中型の仕事が継続して入り、先日は男女共同参画センターの拠点となっているビルの移転に伴う大型工事を受注した。彼らの家族にも手心が加えられているのだろう。
成川との第一の約束も果たさなければならない。相良の心はまだ不安定で危うい。
拘置所で初めて松久保と面会した時、相良についていくつかした質問により、彼女は自分の身を守りたいためではなく、親友の遠江笑結の存在を田鳥に気付かせないため協力していたことが分かった。そしてその結果、相良は松久保に対して明言こそしなかったが、田鳥からずっと脅されるに値するおぞましい何かがあったことを、松久保は察したそうだ。彼女が決して口にしないため怒りを燻ぶらせるだけであったが、田鳥がわいせつ事案の件で懲戒免職となったことにより、理性のたがが外れた故の凶行だったそうだ。
そして、駒井はなにより、松村美々の気持ちを優先した。
彼女は事故の後、一時的に意識を回復した。その時に菊池翔空の名を口に出し、責めたてることもできたはずだ。
だが、彼女はそれをしなかった。真実を隠し通し、庇ったのだ。
彼女の優しい行いを、駒井が壊すわけにはいかない。
だから墓の中まで持っていく。
手を抜いたまま調査を終える。元刑事としては失格かもしれないが、これが駒井の考えた最善の策であった。
「おっと」
相良が突然ふらついた。
「大丈夫か?」
成川が手をさし出しかけて引っ込めた。遠江の墓前だから控えたようだ。
「平気よ。ちょっとダイエットのやりすぎでクラッときただけ」
「無理しすぎじゃないか」
「平気だって。あたしは止めないわよ。レオと顔を合わせる時、元カノがデブだったら嫌がるでしょ。今の体重をきっちり維持するわよ」
勝気な相良の言葉に、駒井と成川は目を合わせて微笑んだ。
この調子ならば、いずれ出てくる松久保と共に人生を立て直せるはずだと、駒井は安心した。
「健二」優太が声をかけると、健二は熊のようにのそっと立ち上がった。
「兄貴、遅かったな」
「ああ。お袋に円花を預けに行ってた。風花の入院で外を連れまわしたから夏バテ気味なんだよ」
優太の妻である風花は、今は二人目の子供をお腹に宿している。出産予定日が少し過ぎていて、いつ陣痛が始まってもおかしくない状態だった。念のため早めに入院させて、円花もおふくろに預けた。これで夜中に陣痛が始まってもバッチリだと、優太は考えていた。
「お盆が誕生日だと、色々苦労しそうだな」
「だから、どうせならもう一日頑張って止めろって言ってあるよ」優太の冗談に健二が笑った。
美々の墓前に線香をあげて手を合わせると、優太は健二に背を見せたまま尋ねた。
「なあ、おまえは美々が菊池君のこと好きだったって、知ってた?」
「俺が知ってるわけないだろ」
「だよなあ」
優太は駒井から受けた調査報告を思い出していた。
田鳥と菊池君には接点が無く、警備員を連れ出した少年は善意の第三者であり、病人も本当に病気だった。美々が一人で離れたのは、つまずいて転んだ際に、道に落ちていたイチゴ味のシロップが入ったかき氷の上に尻もちをついた。その汚れを隠れて落とすために一人離れ、そこで菊池君と運命的に出会い、話し込んでいるうちに事故に遭った。後に田鳥が美々の画像をパソコンに保存していたのは、菊池君がどこかでインターネットにアップロードしたものを興味本位で保存したものである。優太を注意した婦警も実在した。健二に盗撮の冤罪を着せようとした者は、女子高生のイタズラだった。今の彼女はとても反省しているため、許してあげてほしい。
正直、これで納得しろと言われても無理な話だ。全ての疑問に答えを出しているが、駒井が堂々と話す姿を目にして、優太は流されるように受け入れさせられた。狐につままれた感じというか。いや、駒井の見た目だと狸に化かされたのほうが正しいか。
ただ、美々もまた菊池君を知っていて、好意をよせていたという話には、優太も驚かされた。それについては携帯電話に画像が保存されていた以上、間違い無いのだろう。
あの勉強の虫だった美々がねえ。
立ち上がった優太は、ふと墓石の隣に健二の物らしくないバッグが置かれていることに気が付いた。女物?
「おい、これおまえのじゃないよな」
「ああ。うんとな、ええ……おお、来た来た」
健二が遠くを見て手を振った。優太が目を向けると、どこかで見た覚えのある女性が、二人に向かって走ってくるところだった。
「あれ? なっちゃん?」
かつて美々の親友だった優等生の少女は、今は長い黒髪の美しい日本人形のような美人へと成長していた。
「ごめんなさい。トイレ意外と遠くって」なっちゃんは前髪が汗でうっすらと額に貼りついている。それを手の甲で拭った。
「ああ。丁度いいよ。兄貴も来たことだし」
健二がハンカチを取り出してなっちゃんに渡した。一目見ただけで高級だと分かる花の刺繍が入っている。
優太は首を傾げた。健二がハンカチだと?
ありえない。
かつてはロン毛に無精ひげで、ゴムの弛んだジャージのまま車で出かけるようなガサツな男だった。たしかに最近は小奇麗にまとめている。ヒゲも毎日剃っていて、髪も短く清潔だ。だが年の割りに額が後退している。優太も健二のことを悪く言えないほどの老け顔だが、健二よりは若く見えるはずだ。兄としてのおまけポイントを足しても、弟のルックスは人を若干下回って野獣の上位レベルだ。
そんな男がシルクのハンカチ?
なっちゃんは健二からハンカチを受け取ると「ありがとうケン君」と言った。ケン君? え?
「兄貴、俺たち結婚するんだ」
「おえ?」おもわず変な声が出た。硬直した優太の視線の先で、頬を赤らめたなっちゃんが健二に腕を絡ませた。
「まじで? おまえらいつから?」
「三年くらいかな」
「……うそだろ。全く気付かなかった」
「やっぱり知らなかったか。まあ、お互い色々忙しかったもんな。ああ、親父とおふくろにはもう伝えてあるから」
「へえ」と、優太は納得しかけて止めた。「いや、ちょっと待て。三年前って、なっちゃんまだ十七歳だよね」
「あたし遅生まれだから、十六歳でした」
「十六歳ってね、あなた犯罪ですよ? 会社にバレたら首だっただろ」
動揺して口調が少し変な優太の説教も、二人には聞こえていない。見つめあってふふふと笑っている。
ここで優太はふと昔の事を思い出した。健二ロリコン疑惑だ。
盗撮騒動の時、インターネットの掲示板では、健二は変質者として茶化されていた。優太が完全なる第三者として、健二のような外見の男が盗撮犯として捕まったという報道を目にしたら、ロリコンってこういう外見だよなと納得したかもしれない。そういう偏見も、優太の脳裏にちょっとだけ残っている。だがそれだけではない。昔、ナミッペと電話で話をした時に、ナミッペは健二を警戒しているかのような事を、優太に口走った。その頃の健二はニートであったし、妹の友達とはいえ、女子中学生から警戒されるのも当然か。
だが、状況証拠の積み重ねとはいえ、なっちゃんとの交際を合わせるとスリーアウトだ。
わからない。なっちゃんが何故、健二と結婚を決意したのか。
ナミッペがすぐ近くにいたのだから、なっちゃんも健二ロリコン疑惑を抱いていたはず。
「なっちゃんさあ、健二って美々の学校じゃロリコンだと思われてたんでしょ? 実際ナミッペとか怖がってたし。なっちゃんも怖くなかったの?」
「ああ、その噂を流したの、あたしなんです」
「え?」
意味がわからないよ。
「あたし、ケン君のことがずっと好きだったんです。初恋でした。でも、歳も離れていたし、子供の頃ってそういう事を素直に言えないじゃないですか。それで黙っていたんだけど、ある日見ちゃったんです。ケン君が同級生の女子の家に毎日入って行くところを」
ああ、たしかドッチボールで骨折させた女子を見舞っていた時のことだろう。
え、毎日?
毎日尾行してたのか?
「それで、ケン君がその女子と付き合い始めたと思っちゃって。ケン君の悪い噂を流せば別れてくれると思ったから、ロリコンだって言いふらしたんです。そしたら学校にも行かなくなっちゃって」
「……」
「申し訳なくて、しばらく顔を合わせづらかったんだけど、みーの事故の後にケン君が犯人探しを始めた時、すごく不安だったんです。また他の女と付き合い始めるんじゃないかって。それで、盗撮の犯人にされそうになったことあったじゃないですか。ケン君がそんなことするわけないって信じてたけど、その時もネットでロリコンだから誰も近寄るなって書きこんだりして」ウインクして舌を出した。
優太は確信した。
間違い無い。この娘は病んでる。
「けど、みーの葬儀の日に、以前ケン君が通っていた家の女を見かけたんです。それで、話を聞いたら別にケン君と付き合っていたわけじゃないってわかって。それで疑いが晴れたので、高校生の時に全部話して謝ったら、ケン君が許してくれて。その日からずっと付き合ってるんです」なっちゃんは美々の墓を見た。「これも多分、みーがあたし達を結ばせてくれたんだと思います」
いや。美々はあまり関係ないと思う。君のストーカーっぷりなら、遅かれ早かれ健二を絡めとったんじゃないか。
それでいいのか? 健二。優太は健二を見た。
すると、健二はなっちゃんと見つめあったまま目が垂れて「でへへ」と笑った。
優太は実生活で、でへへと口に出した人間を初めて見た。
「式は冬の予定だからさ。今年はキャンサーズも独走状態だし、出世・結婚・優勝で、幸せの三冠王確定さ」Vサインを出した健二の腕に、なっちゃんが両手を絡める。
二人がくっついたまま歩き始めた時、唖然としていた優太の携帯電話が鳴った。妻の風花からだった。
「もしもし」
「ゆうちゃん? 陣痛始まったよ」
「本当か? すぐ戻る」
「いや、いいわよ。実家に寄るんでしょ? お義母さんや円花とゆっくりしてきなよ」
「ゆっくりって、そんな場合じゃないだろ」
「大丈夫よ。絶対に今日は生まないよう我慢するから」
「え?」
「何としてでも誕生日を明日にするわよ、半日くらい我慢するから。日付が変わる頃にこっち来ればいいわよ」風花の鼻息は荒く、声は自信満々だ。
優太の冗談を本気にしたらしい。結婚した頃はもっとおっとりしていたはずなのに。いつからこんなに逞しくなったんだ?
「じゃあ切るね」
「おい」
電話は一方的に切れた。
遠くでは健二が立ち止まり優太を見ている。なっちゃんは健二の顔を見つめたままだ。
「女って変わるものなんだな」
優太はボソリと呟いた。
その時、優太の携帯電話の画面が待ち受け画像に変わった。先日待ち受け画像に設定した、二歳になった円花がカーディガンのボタンを噛み千切ろうとしているワイルドな画像だ。
ひょっとして、円花も将来、子宮口を根性で閉じるような大人になるのだろうか。
読了ありがとうございました。
望まれる方がおりましたら、美々ちゃん視点の翔空君への恋心を表した短編を作りたいと思います。




