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謀計リング  作者: 茜坂 健
第五章 「残りの真相」
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 夏川さんは、あくまでも冷静な口調を崩さない。しかし、どこか鬼気迫る雰囲気を身に纏っている。

「野次馬からも消防士からも目撃されていない状況を呈示され、野次馬に見られなかった原因を火事現場と逆側に逃げたからだと考えたあなたなら、消防士に見られなかったのも同様の理由だと考えるのが、自然ですよねぇ」

 無意識のうちに俺は何度も首を縦に振っていた。自分の中で繋がったものと、語られるものが同一性を有していることを確認していたのだろう。

「……なのに、千鶴さん宅を挟んで火事現場とは反対側から消防車が来たことを、あたかも当然のように考え『すれ違わないように細い道を通った』などと理由付けしたのは、真樹君の言う通りいささか不自然です」

「そんなの言葉の綾で……」

「さっきも言ったように、火事現場周辺に住む野次馬達以外で、特異な経路を走った消防車の動きを知り得たのは、あの場所に居た犯人だけ。何故分かったんですかねぇ? 消防車が火事現場と逆側からやって来ると」

 千鶴さんの亡骸の傍らで、車のキーを探そうとするとサイレンの音が、坂の下から轟いて来た。坂の上を目指し、眼前を何台かが通り過ぎる。

 吉永貴子は上で火事が起きていることを察知し、野次馬が現れることを恐れた。

 ――悠長にキーを探しているうちに見つかるかもしれない。キーを見つけて車に乗っても、登って来る消防車とすれ違うかもしれない。そのようなことが頭の中を駆け巡り、慌てて裏の公園沿いの道から折り畳み自転車で逃げた。

「私が勘が良いから……と言ったらどうされますか?」

 吉永貴子の声に張りが無くなった。言葉ではまだ反論しているが、もう観念したような力の抜け具合だ。

「自転車のタイヤの土と、塗装の破片と、このテープ。三つ併せればあの夜あなたがあの場所にいたことは、確実ですからねぇ。あなたには自首をお勧めします」

「あら、力ずくで私を取り押さえないんですか?」

「残念ながら我々にその権限はありませんからねぇ……。状況証拠を積み重ねただけの我々には、自首を促すことしか出来ないですよ」

 吉永貴子が顔を伏せる。耳に掛かっていた黒髪がはらはらと耳殻から零れ落ちる。彼女の中で何かが音を立てて崩れ去ったように見えた。

「やっぱり……こんな計画立てるべきじゃなかった。まさか私の命まで狙われてたなんて」

「あなたとフォードさんと千鶴さん。皆が皆、醜き謀計を企てて、互いに泥沼にはめようとし合っていた訳です。あなた方が取るべき道は他にあった筈です」

「本当に……本当に……」

 吉永貴子の肩が小刻みに上下する。はっきりとは見えないし、なんの声も聞こえないが、彼女の瞳に涙が湛えられていることは明らかだ。

「原因を作ったのは私だったのに……。私が酔って車を壊したから……」

 夫の死の原因を、自分が作った。そしてそのことがきっかけで三人の人間の人生が狂わされた。その事実を知ってから、まだそれほど経過していないのだ。

 後悔の深淵に足を取られてもがいている……俺の目にはそんな風に映った。

「でも、驚きました。夏川さんが仰ることが、まるで目で見たことをそのまま話しているくらいに正確でしたから」

 顔を上げた彼女の表情は、吹っ切れたような不思議な晴れやかさだ。

「では、警察に行きましょう。車で送りますよ」

 夏川さんは俺に目配せで、運転を宜しくと伝える。

 特に不満は無かった。こちらの好奇心から、警察や遠藤さんまで巻き込んで突き止めた犯人だ。最後まで付き添うことは寧ろ当然だろう。

「行きましょうか……」

 立ち上がり肩を落とす吉永貴子を促す。

 彼女は壁掛け時計を一瞥し、無言で腰を浮かべた。

 ――玄関を出る時、夏川さんの革靴の爪先部分に注目すると、例の粘土質の土が水分を失って、固まっている。

 まさか意図的にこの汚れを残しておいた訳ではあるまいが、躓いて転んだことが証拠を見つけるきっかけになるとは、怪我の功名だろうか……

 ふと、吉永貴子の足元にも目をやった。彼女は玄関土間に並んだ幾つかの靴の中から、最も簡素なスニーカーを選んで履いている。

 探偵と、探偵事務所の職員と、犯人と……。並んで街を歩くには、余りにも奇妙な組み合わせだ。穏やかな風のある、静かな街だ。遠くから微かに子供の嬌声が耳に届く。どこかの小学校からだろう。

 踏切を渡り、コインパーキングの濃い緑色の看板を横目に車のキーを解除する。

 ――俺の背後で、何かが翻る気配がした。そして、アスファルトを叩く音。

 吉永貴子が一瞬の隙を突いて駆け出したのだ。夏川さんも不意の出来事で反応出来ていない。

(逃げられる! だからスニーカーを履いたのか!)

 学生時代に短距離走の選手だった俺の脚は、頭の回転よりも早く動き出していた。右膝と左膝が規則正しく跳ね上げられる。さすがに追い付く自信はある。

 その時、吉永貴子の前方に構える黄色と黒の遮断機が、けたたましい警報機の音と共にこうべを垂れ始めた。

 彼女の狙いはすぐに分かった。逃げるは逃げるでも『あの世』に逃げるつもりなのだ。

 彼女は降り切った遮断機にその手を触れた。その下を潜ろうと膝を曲げる。

 ――遮断機に伸ばした右の肩に俺の右手が掛かった時、甲高い列車の警笛が周りの空気をつん裂く。その風圧に身を任せ、後ろから抱きかかえた彼女の肢体を遮断機から引き離した。

 後方から夏川さんが小走りで駆け寄ってくる。この様子を他には誰も見ていない。

「どうして……悪いのは私なのに。私のせいで……」

 罪人の背中は思ったよりも小さく、人肌の温もりが確かにあった。

「反省は、自らの命を絶つことでなんて出来ません。残されたあなたの人生の中で、罪の重みを味わって、生きて償う。それが最善の道だと思いますがねぇ」

 夏川さんは身を屈め、吉永貴子に向かって小さく頷いた。

 口許のほくろが、口角に合わせて吊り上げられる。彼女は自らの意思で立ち上がる。その目は前を向いていた。



――――――――――――



 平成二十五年五月二十九日 木曜日


 朝八時。今日も夏川探偵事務所は通常営業だ。

 昨日は本来定休日だったが、結局警察へ吉永貴子を送り届けてから、事情聴取などで殆ど潰れた。

 十三時にもになるとニュース番組はこぞって、犯人出頭の第一報を伝えていた。もちろん、夏川さんの存在など欠片も明かされない。

 帰宅してからというもの、ぼんやりと関連ニュースばかり眺めていた。そして夜は泥のように寝入っていた。疲れが一気に湧出したようだ。

 スチール製の扉を開けると、来客があることが分かった。応接セットで、夏川さんと遠藤さんが向かい合って座っていたのだ。

「おはようございます」

「おはよう」

「遠藤さん、今日はどうされたんですか?」

 彼の手許にはただ麦茶が注がれただけの、ガラスのコップが置かれている。俺が居ない時間だったから、夏川さんが自分でもてなしたようだ。

「特に用事は無いかなぁ。ただ、あんなに小さな自転車の塗装の破片を探せなんて、無謀な頼み事をしてくる探偵さんに嫌味を言いに来ただけですよ」

 元々細い目が、完全に閉じたように余計細まる。この人は笑っている時、前が見えているのだろうか?

「確かに大変なことを頼みましたからねぇ」

「しかも、調査書の吉永貴子の写真から、彼女が指輪を失くした日を特定して、その写真を送れだなんて……」

 遠藤さんは顎を撫でながら、低い唸り声のような笑い声を出している。

 俺は少なくとも助手のように扱われた遠藤さんに同情している。無論、それなりの対価を受け取っているに違いないが……

「まあ、鳩ムネも解決出来て喜んでたみたいですが。また鳩ムネが厄介な事件を担当する時は、夏川さんにお願いしようかなー」

 冗談とも本気とも取れる調子だ。今回の件で、夏川さんと警視庁にパイプが出来たことは間違いない。

「その時は易しい事件にして頂きたいですねぇ」

「易しい事件なら、鳩ムネの部下でも挙げられるでしょう」

 その後も二人は妙に落ち着いたトーンで軽口を叩き合っていたが、三十分程すると、遠藤さんはこれから素行調査の張り込みに行くと言って、忙しなく事務所を後にした。

「さて、今日も依頼人は来そうにないねぇ……。とりあえず、真樹君に朝食を作ってもらおうかねぇ」

「はい、早速……」

 急速に日常が蘇りつつあることに、安堵感と怠惰感を覚えながら、台所のある住居スペースへと歩を進める。

「作ってくれている間、ペットに餌をやらないと……。遠藤さんが早い時間に来るから、あげそびれちゃったからねぇ」

 俺は壁にぶつかるようにぴたりと足を止め、踵を返した。

「ああ、作る前にトイレに行きます! 良いですよね?」

「もちろん。でも、トイレならお客さん用じゃなくて住居の方を使えば良いのに……?」

「いや、今日そっちのトイレを掃除しようかなあなんて思ってて……だから、その前に汚したくないですし……」

 上手い言い訳だったかは分からないが、俺は逃げるように事務所のトイレへと駆け込む。あちらにいては「あの声」が筒抜けだ。

 当然、催していたわけではない。便座に腰を下ろし、適当に時間を潰そうと考えた。

 ――餌をやるのにどれくらいの時間がかかるだろう。すぐに終わってくれれば……

「カッちゃーん……」

(マズい!)

 俺は狂ったようにトイレのレバーを何度も引く。もちろん大の方だ。夏川さんのあの戦慄の赤ちゃん言葉を、掻き消すにはこの方法しか思い浮かばない。

 いつだったか俺が住居スペースにいる時には、餌やりの時にも声を出さなかったのに、俺が事務所にいる時は容赦なく出す。夏川さんでも、自分の声がどこまで聞こえているかは推理出来ていないようだ。

(なるほど、寧ろ住居スペースのトイレを使った方が声を聞かなくて済んだのか……)

 どれ程の水が便器に吸い込まれていったのかは定かではないが、ドアがノックされる音が聞こえて、ようやくレバーを引く手を緩めた。

「真樹君? 大丈夫? お腹の調子でも悪いの?」

 扉の向こうから届く夏川さんの声や口調が、いつも通りであることを確認して、俺はドアを開ける。

「ちょっと調子が悪かったけど、もう大丈夫です」

 夏川さんはちっとも上達しない笑顔を俺に見せた。

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