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神の外  作者: 古江 門


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22/22

DAY 8 神の外へ

 エナは、閉じた門を見た。


 それから、テオの衣服に残った血へ目を落とした。


「リツは、どこですか」


 壁の向こうでは、日暮れの歌が続いていた。


「死んだ」


 エナがテオを見た。


「俺が殺した」


 歌だけが、変わらない速さで続いていた。


 エナは動かなかった。聞こえた言葉を、身体の中へ入れることができなかった。


「なぜですか」


 テオは、自分の手を見た。


 指の間にも、乾いた血が残っている。


「谷へ着いた日に、神託を受けた。エナを、移住する共同体から排除せよ。エナを、塔の共同体へ到達させてはならない、と言われた」


 エナの表情が消えていく。


「俺は、殺せという意味だと思った」


 エナが一歩下がった。


 足が旅の荷へ当たり、水袋が倒れた。


 テオは手を伸ばしかけた。


「来ないでください」


 手が止まった。


「私を殺すつもりだったのですか」


「ああ」


 悪魔の光が走ったとき、テオはエナの名を呼んだ。


 河床で足を取られたとき、テオが伸ばした腕をつかんだ。


 三人で炉材を探した。


 一枚の外套の下で、三人並んで夜を越した。


 そのすべてのあいだ、テオはエナを殺そうとしていた。


「なぜ、助けたのですか」


 テオは長く黙った。


「分からない」


「リツは、神託を知った」


 テオは続けた。


「お前のところへ戻ろうとした。俺が止めた」


 エナの指が強く握られた。


「リツは、俺を殺さなかった」


 テオの声がかすれた。


「俺が殺した」


 エナの膝から力が抜けた。


 倒れた荷のそばへ手をつき、そのまま地面へ座り込む。


「神は、私を殺せと言ったのですか」


「言っていない」


 エナが顔を上げた。


「リツが死んだあと、七日間で見たことを伝えた。神は、殺害を求めていなかったと答えた」


 エナの口から、短い息が漏れた。


「……じゃあ、なんでリツは」


 その先が続かなかった。


 テオは、血の残った手を見ていた。


 エナは答えを待った。


 だが、テオは何も言わなかった。


「私が」


 声が途切れた。


「私が、神託者へ戻ると言っていれば」


 リツはこちらへ戻ろうとはしなかった。


「谷で、あんなことを言わなければ」


 神託そのものが、下されなかったかもしれない。


 どこまで戻れば、リツは生きていたのだろう。


「私を守ろうとして、リツは死んだのでしょう」


 長い沈黙のあと、テオが答えた。


「俺が殺した」


 それきり、何も言わなかった。


 エナは俯いた。


 涙が土へ落ちた。


「最後に、何か言いましたか」


 テオは目を伏せた。


「お前の名を呼んだ」


 エナの身体が折れた。


 口元を押さえても、漏れる息は止まらなかった。


「リツ」


 呼んだ声は、壁へ届く前に消えた。


 やがて歌が終わった。


 広場には、エナの呼吸だけが残った。


「あの七日間は、何だったのですか」


 テオは答えなかった。


     *


 夜が来ても、二人は動けなかった。


 エナは荷のそばに座り、テオは広場の端にいた。


 火も起こさなかった。


 水も飲まなかった。


 壁の向こうでは、ときおり人の足音がした。


 リツは、もう精霊のもとへ運ばれたのかもしれない。


 確かめることはできなかった。


 エナは、こめかみに巻かれた布に触れた。


 旅の途中で緩んだものを、リツが結び直してくれた。


 後ろは見えないと言って、髪を持ち上げた。


 その手は、もうない。


 私は、何をすればよいのだろう。


 リツは、何を望んでいたのだろう。


 私には決められない。


 けれど、リツは私のところへ戻ろうとした。


 最後に、私の名を呼んだ。


 私を、一人で境界の外へ残さないために。


 私に、生きてほしかった。


 それだけは、疑えなかった。


 胸の奥が崩れた。


 エナは膝へ顔を伏せた。


 生きたいとは思えなかった。


 リツのいない場所で、何を求めて生きればよいのかも分からなかった。


 それでも、私は死ぬわけにはいかない。


 リツが守ろうとした命を、私が終わらせるわけにはいかない。


 リツのために、生きなければならない。


 それなのに、私はこの場所から離れることさえできない。


 その事実が、リツを失った悲しみとは別の冷たさで、身体へ入ってきた。


 視界の端に、乾いた血が見えた。


 広場の端に、テオがいる。


 リツを殺した男。


 私を殺そうとしていた男。


 河床で自分を引き上げた手と、リツを殺した手は、同じだった。


 その手を信じた記憶まで、憎かった。


 それでも、その手を借りなければ生きられない。


 そのことが、何よりも憎かった。


     *


 空が白み始めた。


 二人とも、一度も眠らなかった。


 エナは地面へ手をついた。


 一度では立てなかった。


 荷へ手を置き、もう一度身体を起こす。


「テオ」


 男が顔を上げた。


「リツは、私に生きてほしかった」


 テオは何も言わなかった。


「だから、私は生きます」


 口にした途端、涙が落ちた。


「生きたいからではありません。リツが望んだからです」


 テオは、ただ聞いていた。


「でも、私は一人ではここを出られません」


 声が震えた。


「道も知りません。水も探せません。悪魔から自分を守ることもできません」


 言葉を重ねるほど、怒りが込み上げた。


「あなたが、リツを殺した」


 エナはテオを睨んだ。


「それなのに、あなたの力がなければ、私は生きられない」


 声が広場へ響いた。


「私は、あなたを許しません。これからも、許すことはありません」


 テオは答えなかった。


「何を考えていたのかも、知りたくありません」


 エナは、こめかみの布を握った。


「でも、私は死ねません」


 呼吸が乱れた。


 それでも、目を逸らさなかった。


「だから、あなたを利用します」


 テオの目が、わずかに動いた。


「私を受け入れる場所を探しなさい」


 涙が頬を流れていた。


「拒まれたら、次へ」


 一度、息を吸った。


「見つかるまで、何度でも」


 エナはテオを見た。


「私を生かすためだけに、ついてきなさい」


 長い沈黙があった。


「……分かった」


「お前を、受け入れる場所まで連れていく」


 テオは、リツの血が残る手を見た。


「それまでは死なない」


 顔を上げた。


「エナも、死なせない」


 エナは頷かなかった。


 礼も言わなかった。


 ただ、こめかみの布から手を離した。


     *


 壁の向こうから、朝の歌が聞こえ始めた。


 野兎の肉を焼いた夜にも、リツはこの歌を歌っていた。


 あのときは、まだ三人いた。


 テオは荷を二つに分け、重い方を肩へ掛けた。


「まず、水を探す。そのあと、北にある共同体へ向かう」


「受け入れられなければ」


「次へ行く」


 二人は門へ背を向けた。


 昨日までの足跡をたどり、やがて分かれ道へ出た。


 一方には、昨日までの足跡が続いていた。


 もう一方には、足跡がなかった。


 テオは、そちらへ進んだ。


 エナも続いた。


 エナとの距離が開くと、テオは歩みを緩めた。


 振り返ることはなかった。


 エナも、追いつこうとはしなかった。


 背後の歌が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 代わりに、草の向こうから鳥の声がした。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 二人の足音は、揃わなかった。


 それでも、どちらも止まらなかった。


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