DAY 8 神の外へ
エナは、閉じた門を見た。
それから、テオの衣服に残った血へ目を落とした。
「リツは、どこですか」
壁の向こうでは、日暮れの歌が続いていた。
「死んだ」
エナがテオを見た。
「俺が殺した」
歌だけが、変わらない速さで続いていた。
エナは動かなかった。聞こえた言葉を、身体の中へ入れることができなかった。
「なぜですか」
テオは、自分の手を見た。
指の間にも、乾いた血が残っている。
「谷へ着いた日に、神託を受けた。エナを、移住する共同体から排除せよ。エナを、塔の共同体へ到達させてはならない、と言われた」
エナの表情が消えていく。
「俺は、殺せという意味だと思った」
エナが一歩下がった。
足が旅の荷へ当たり、水袋が倒れた。
テオは手を伸ばしかけた。
「来ないでください」
手が止まった。
「私を殺すつもりだったのですか」
「ああ」
悪魔の光が走ったとき、テオはエナの名を呼んだ。
河床で足を取られたとき、テオが伸ばした腕をつかんだ。
三人で炉材を探した。
一枚の外套の下で、三人並んで夜を越した。
そのすべてのあいだ、テオはエナを殺そうとしていた。
「なぜ、助けたのですか」
テオは長く黙った。
「分からない」
「リツは、神託を知った」
テオは続けた。
「お前のところへ戻ろうとした。俺が止めた」
エナの指が強く握られた。
「リツは、俺を殺さなかった」
テオの声がかすれた。
「俺が殺した」
エナの膝から力が抜けた。
倒れた荷のそばへ手をつき、そのまま地面へ座り込む。
「神は、私を殺せと言ったのですか」
「言っていない」
エナが顔を上げた。
「リツが死んだあと、七日間で見たことを伝えた。神は、殺害を求めていなかったと答えた」
エナの口から、短い息が漏れた。
「……じゃあ、なんでリツは」
その先が続かなかった。
テオは、血の残った手を見ていた。
エナは答えを待った。
だが、テオは何も言わなかった。
「私が」
声が途切れた。
「私が、神託者へ戻ると言っていれば」
リツはこちらへ戻ろうとはしなかった。
「谷で、あんなことを言わなければ」
神託そのものが、下されなかったかもしれない。
どこまで戻れば、リツは生きていたのだろう。
「私を守ろうとして、リツは死んだのでしょう」
長い沈黙のあと、テオが答えた。
「俺が殺した」
それきり、何も言わなかった。
エナは俯いた。
涙が土へ落ちた。
「最後に、何か言いましたか」
テオは目を伏せた。
「お前の名を呼んだ」
エナの身体が折れた。
口元を押さえても、漏れる息は止まらなかった。
「リツ」
呼んだ声は、壁へ届く前に消えた。
やがて歌が終わった。
広場には、エナの呼吸だけが残った。
「あの七日間は、何だったのですか」
テオは答えなかった。
*
夜が来ても、二人は動けなかった。
エナは荷のそばに座り、テオは広場の端にいた。
火も起こさなかった。
水も飲まなかった。
壁の向こうでは、ときおり人の足音がした。
リツは、もう精霊のもとへ運ばれたのかもしれない。
確かめることはできなかった。
エナは、こめかみに巻かれた布に触れた。
旅の途中で緩んだものを、リツが結び直してくれた。
後ろは見えないと言って、髪を持ち上げた。
その手は、もうない。
私は、何をすればよいのだろう。
リツは、何を望んでいたのだろう。
私には決められない。
けれど、リツは私のところへ戻ろうとした。
最後に、私の名を呼んだ。
私を、一人で境界の外へ残さないために。
私に、生きてほしかった。
それだけは、疑えなかった。
胸の奥が崩れた。
エナは膝へ顔を伏せた。
生きたいとは思えなかった。
リツのいない場所で、何を求めて生きればよいのかも分からなかった。
それでも、私は死ぬわけにはいかない。
リツが守ろうとした命を、私が終わらせるわけにはいかない。
リツのために、生きなければならない。
それなのに、私はこの場所から離れることさえできない。
その事実が、リツを失った悲しみとは別の冷たさで、身体へ入ってきた。
視界の端に、乾いた血が見えた。
広場の端に、テオがいる。
リツを殺した男。
私を殺そうとしていた男。
河床で自分を引き上げた手と、リツを殺した手は、同じだった。
その手を信じた記憶まで、憎かった。
それでも、その手を借りなければ生きられない。
そのことが、何よりも憎かった。
*
空が白み始めた。
二人とも、一度も眠らなかった。
エナは地面へ手をついた。
一度では立てなかった。
荷へ手を置き、もう一度身体を起こす。
「テオ」
男が顔を上げた。
「リツは、私に生きてほしかった」
テオは何も言わなかった。
「だから、私は生きます」
口にした途端、涙が落ちた。
「生きたいからではありません。リツが望んだからです」
テオは、ただ聞いていた。
「でも、私は一人ではここを出られません」
声が震えた。
「道も知りません。水も探せません。悪魔から自分を守ることもできません」
言葉を重ねるほど、怒りが込み上げた。
「あなたが、リツを殺した」
エナはテオを睨んだ。
「それなのに、あなたの力がなければ、私は生きられない」
声が広場へ響いた。
「私は、あなたを許しません。これからも、許すことはありません」
テオは答えなかった。
「何を考えていたのかも、知りたくありません」
エナは、こめかみの布を握った。
「でも、私は死ねません」
呼吸が乱れた。
それでも、目を逸らさなかった。
「だから、あなたを利用します」
テオの目が、わずかに動いた。
「私を受け入れる場所を探しなさい」
涙が頬を流れていた。
「拒まれたら、次へ」
一度、息を吸った。
「見つかるまで、何度でも」
エナはテオを見た。
「私を生かすためだけに、ついてきなさい」
長い沈黙があった。
「……分かった」
「お前を、受け入れる場所まで連れていく」
テオは、リツの血が残る手を見た。
「それまでは死なない」
顔を上げた。
「エナも、死なせない」
エナは頷かなかった。
礼も言わなかった。
ただ、こめかみの布から手を離した。
*
壁の向こうから、朝の歌が聞こえ始めた。
野兎の肉を焼いた夜にも、リツはこの歌を歌っていた。
あのときは、まだ三人いた。
テオは荷を二つに分け、重い方を肩へ掛けた。
「まず、水を探す。そのあと、北にある共同体へ向かう」
「受け入れられなければ」
「次へ行く」
二人は門へ背を向けた。
昨日までの足跡をたどり、やがて分かれ道へ出た。
一方には、昨日までの足跡が続いていた。
もう一方には、足跡がなかった。
テオは、そちらへ進んだ。
エナも続いた。
エナとの距離が開くと、テオは歩みを緩めた。
振り返ることはなかった。
エナも、追いつこうとはしなかった。
背後の歌が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
代わりに、草の向こうから鳥の声がした。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
二人の足音は、揃わなかった。
それでも、どちらも止まらなかった。




