DAY 1-1 外から来た者
鳥の声が消えた。
テオは足を止めず、歩幅だけを狭めた。
崩れた石壁の陰へ入り、背負った荷を下ろす。風は南から吹いている。乾いた草は同じ方向へ伏せていた。
その向こうで、短い音が鳴った。
高く、硬い。生き物の声には聞こえない。
少し間を置いて、また鳴る。
テオは地面へ指を触れた。かすかな震えが、一定の間隔で近づいている。
石壁の裂け目から外を見た。
金属でできた四本脚の身体が、斜面を横切っていた。低い胴の前から細い筒が伸び、いくつもの小さな板が別々の方向へ動いている。
悪魔だった。
何かを守るように同じ土地を巡り、人を見つければ追う。理由を問うても答えず、命乞いをしても止まらない。
悪魔がもう一度鳴いた。
今度は先ほどより低い。小さな板の一枚が、テオのいる方角へ向く。
見つかったわけではない。
だが、長くはいられない。
テオは荷の脇から金属片を取り出した。道の途中で拾った、供物に使えるかどうかも分からない小さな部品だった。
紐を結び、壁の反対側へ投げる。
金属片が石を打ち、乾いた斜面を転がった。
悪魔の身体が止まる。
短い音が二度鳴り、前方の筒が音のした方へ向いた。
白い光が走った。
斜面が弾け、砂と石が吹き上がる。
テオはその瞬間に壁を離れた。
走らない。足音を立てず、悪魔の背後を横切る。地面に散った石を避け、裂けた水路へ身を滑り込ませた。
頭上を別の音が通り過ぎた。
見上げると、細長い金属の影が空を横切っている。
テオは水路の底へ伏せ、息を整えた。
影が遠ざかる。
四本脚の悪魔は、砕けた斜面を調べていた。
倒す必要はなかった。
悪魔が何に反応し、どちらを向くか。それだけ分かれば、道はつくれる。
テオは立ち上がり、荷を背負った。
失った金属片を振り返らず、南へ歩き出した。
*
風の匂いが変わった。
砂と錆に混じって、湿った土の匂いがする。
テオは乾いた河床を離れ、斜面へ上がった。南の空には暗い雲が下りてきている。
雨だけではない。
先に強い風が来る。
斜面を越えると、その先に緑があった。
乾いた大地の底へ切り込まれた谷。その内側だけに木が生え、畑が並び、屋根が重なっている。
谷の上には半透明の板をつないだ壁が渡されていた。何枚かは白く曇り、何枚かは欠けている。それでも、外の風が谷へ直接吹き込むのを防いでいた。
高い場所から四本の水路が延びていた。
水が流れているのは一本だけだった。
残る三本は、底を白く乾かしている。
精霊の土地。
人が暮らせる温度を保ち、水を与え、作物を育てられる場所。
だが、その守りは縮んでいた。
外側の畑は使われず、閉じられた家々には砂が積もっている。谷を覆う壁の一部も傾いていた。
四十人。
この谷に残る四十人を、七日の道の先にある塔まで連れていく。
老人も、子どもも、外へ出たことのない者もいる。
テオは南の雲を見た。
出発を遅らせれば、最初の一日から道を失う。
彼は荷の紐を締め直し、谷へ下りた。
*
東の門には、槍を持った男と弓を持った男が立っていた。
「止まれ」
テオは十歩手前で止まった。
「名を」
「テオ」
「どこから来た」
「塔からだ。ここまでの道を見てきた」
二人の視線が、テオの背負った荷へ移る。
「通れるのか」
「通れる」
「七日で?」
「四十人なら」
「もっと急げないか」
「急がせれば、四十人では着かない」
男は口を閉じた。
テオは門の上を見た。板を重ねた防風戸が、半分開いている。
「閉じろ」
「何を?」
「上の戸だ。風が来る」
男が空を見上げる。谷の上には、まだ明るさが残っていた。
「いつだ」
答える前に、門の外の草が一斉に倒れた。
冷たい風が斜面を下り、谷を覆う板が低く鳴った。
「戸を閉じろ!」
男が内側へ叫ぶ。
何人かが駆け寄り、縄を引き始めた。
「悪魔は見たか」
もう一人が尋ねる。
「一体。西へ向けた」
「ここへ来るか」
「来るなら、俺もここへは来ない」
二人はそれ以上尋ねなかった。
門が開く。
中から、温かく湿った空気が流れ出した。
テオが足を踏み入れると、水の音が聞こえた。細い流れが石の間を走り、畑の脇へ続いている。
濡れた土と、若い葉と、火にかけた穀物の匂い。
外にはない匂いだった。
近くにいた者たちが作業の手を止め、テオを見た。
外から来た人間を、初めて見る者もいるのだろう。子どもが一人、母親の後ろから顔を出した。母親はその肩を抱き、道を空けた。
敬意というより、警戒に近かった。
当然だった。
外から来る者は、情報と物資だけでなく、病や穢れを持ち込むこともある。
「浄化を受けてもらう」
槍の男が言った。
「ああ」
案内されたのは、門に近い石造りの建物だった。
入口で、白い布を頭に巻いた女が待っている。
「外より遣わされた方ですね」
「テオだ」
「武器と荷を、こちらへ」
テオは弓を壁へ立てかけ、矢筒を外した。腰の刃物を外し、革袋を床へ並べる。
乾燥させた肉。種。水。土。そして、もう一つ、別に包んでいた黒い金属片。
女の手が止まった。
「悪魔のものですか」
「分からない。巡回域で拾った」
女は厚い道具で金属片をつまみ、黒い箱へ入れた。
「穢れとして預かります」
「任せる」
何に使えるものか、人には分からない。
だから分解し、焼き、溶かし、精霊へ捧げられる形へ戻す。
その手順を、浄化と呼んでいた。
テオは装備と衣服を外し、石室の奥へ入った。
天井から温かな水が落ちてくる。
髪から、肩から、赤い砂が流れた。足を覆っていた泥がほどけ、床の穴へ吸い込まれていく。
「傷はありますか」
「ない」
「悪魔に触れましたか」
「触れていない」
「病んだ者や、倒れた者には」
「会っていない」
「同行者は」
「いない」
女が一度だけ顔を上げた。
「塔から、ここまでお一人で?」
「ああ」
それ以上は聞かなかった。
水が止まり、壁の隙間から温かい風が出た。
女は新しい衣を差し出す。
「清めは終わりました」
石室の奥で、閉じていた扉が開いた。
灯りのない通路が続いている。
「神がお待ちです」
テオは衣を身につけ、通路へ入った。
背後で扉が閉じる。
水の音も、人の声も途切れた。
闇の奥に、白い光がともる。
『外より遣わされた者、テオ』
人ではない声が、彼の名を呼んだ。
『あなたに問う』




