第1話『うどんのコシは、命のコシ』前編
「護さーん、私、この探偵事務所に来てから不倫調査とか盗聴器の調査しかしてないんですけど……」
うどん屋の店内で箸を握ったまま、私は大きな溜息を吐いた。
「……こむぎちゃん、それだって立派な仕事やで?」
――ズルルルルッ!
対面に座る男は、私の不満などどこ吹く風で、うどんをすすり上げている。
「それはそうかもしれないですけど、私、探偵業よりは本業だという『怪異祓い』に興味があってここに入ったんですけど……」
「そういう依頼がないということは、それだけ平和だということやろ? こむぎちゃん」
「それはそうかもしれないですけど……」
私がふと備え付けのテレビに視線をやった時だった。
「――今朝のニュースです。本日未明、高松市五色台にある根香寺から、県指定文化財である『牛鬼像』が忽然と姿を消しました。現場には大量の血痕のようなものと、エンジンがかかったままの車両が残されており、県警は事件と事故の両面から――」
「護さん。このニュース、絶対ただの泥棒じゃないですよ。ついに、ついにうちの事務所にデカいオカルト案件が舞い込んでくるんじゃないですか!?」
私の名前は清水こむぎ、十九歳。
オカルト雑誌の読みすぎで東京から香川県へ飛び出し、この「麺場探偵事務所」に拾われて二年目の、自称・敏腕探偵助手だ。
――ズルルルルッ! ズルゥッ!!
興奮して鼻息を荒くする私を前に、うどん屋の木卓に座る男は、全く動じる気配がなくうどんをすすっている。
我が探偵事務所の所長であり、代々香川県の怪異祓いを務めてきた一族の現当主――麺場護、三十四歳。
「……ふぅ。相変わらず騒々しいな、こむぎちゃん」
「だって牛鬼ですよ!? 香川最強のレジェンド怪異ですよ!?」
「そんなことより、この釜揚げを見ぃ。この極太の麺、そして見てみろ、この圧倒的なコシ……!」
「……すごい弾力ですね。すっごいモチモチしてて美味しいです」
私が何気なく言ったその言葉に、護さんの目が一瞬で据わり、箸がピタリと止まった。
「アホか。弾力てなんや。それを言うなら『コシ』と言わんかい、コシと」
説教を食らいながらも、私は出汁のいい香りに鼻をくすぐられていた。
私たちがいるのは屋島寺の麓にある老舗うどん店「やわら」。江戸時代末期の藁葺き小屋を移築した風情ある店内で、名物の釜揚げうどんは、巨大な一升徳利に入った熱々の出汁と一緒に運ばれてくる。
伊吹島産のイリコと利尻昆布で丁寧に引かれた漬け出汁は、まさに絶品の一言だ。
「……はいはい、コシですね、コシ。ところで護さん、さっきから生返事ですけど、ニュースの牛鬼は気にならないんですか?」
護さんは最後の一本を綺麗にすすり終えると、お猪口に残った出汁を静かに飲み干した。
そして、それまでの穏やかな表情から、一瞬で「プロの怪異祓い」の目へと切り替わる。
「……あぁ、美味かったぁ。もちろん、気にしとる。……こむぎちゃん、外の空を見てみぃ」
護さんに促されて店の外に出て、どんよりとした空を見上げる。しかし、私にはいつも通りの曇り空にしか見えない。
「曇ってますけど……普通じゃないですか?」
「普通やない。鳥たちが騒ぎよる。これはなんかあるで」
その時、護さんのポケットでスマホが激しく震えた。
「はい、麺場探偵事務所。……あぁ、警部。ええ、ニュースは見ました。……何? 分かった。すぐ行く。……こむぎちゃん、店を出るぞ!」
護さんの顔から完全に余裕が消える。
「え、やっぱり牛鬼の依頼ですか!? どこからの依頼ですか?」
「香川県警からの緊急要請や。現場は五色台、根香寺。……ええか、ここからは遊びやないぞ」
護さんの愛車である軽トラックの助手席に飛び乗り、私たちは屋島から西へ向かって車を走らせた。およそ三十分。見えてきたのは、瀬戸内海に突き出すように連なる巨大な山嶺――五色台だ。
山道を進み、根香寺の駐車場に到着すると、現場はすでに黄色い規制線で厳重に封鎖されていた。慌ただしく行き交う警察官と鑑識官の緊迫した空気が、ただ事ではない雰囲気を物語っている。
「麺場さん、こちらへ!」
私たちの顔を見るなり、一人の若い捜査員が駆け寄ってきた。
案内された場所に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
本来ならそこに鎮座しているはずの、あの奇怪で巨大な『牛鬼像』が、台座を残して消え失せている。そしてその麓、黒いアスファルトの上には、べったりと赤黒い血痕のようなものが、まるで何かを引きずったかのように生々しく残されていた。
「……それで、消えた者たちの身元は分かったんかい?」
護さんが低い声で訊ねる。
捜査員は周囲を気にしながら、護さんの耳元へ顔を寄せ、小さな声で耳打ちした。
「――はい。東京の……」
「なんやて……!」
護さんの目の色が変わった。
「恐れていたことが、もう起きよったか。こむぎちゃん、車に戻れ! 急いで白峰寺に確認に行くぞ!」
「えっ、白峰寺!? 牛鬼の捜索じゃないんですか!?」
「ええから乗れ!」
タイヤを激しく鳴らし、護さんは再び軽トラを急発進させた。五色台の狭い山道を縫うように車を走らせること、およそ十分。それほど遠くない場所に、次の目的地である白峰寺はあった。
車窓から見える深い緑の木々が、まるで私たちを拒むようにざわめいている。
「あの、護さん……さっきから気になってたんですけど、そもそも『五色台』ってどういう意味なんですか?」
ハンドルを握る護さんは、表情を変えずに早口で応えた。
「うむ。五色台の山々はな、陰陽五行説の『五色』からきとるんや。黄の峰、青峰、紅の峰、白峰、黒峰の五つの峰がある。ちなみに、さっきの牛鬼がおった根香寺は『青峰』や。そして今向かっとる白峰寺は、その名の通り『白峰』にある」
「五つの色、陰陽五行……。それを聞くと、なんだかただの観光地じゃないみたいで、身震いしてきました……」
「あぁ、なめてかかったらいかんけんな!」
白峰寺に到着するやいなや、護さんは車を飛び出し、石段を猛烈な勢いで駆け上っていった。本堂のさらに奥、一般の参拝客は立ち入れない古い祠の扉を開け放つ。
「……やっぱりや。懸念した通りや」
護さんの肩が、怒りで小さく震えていた。
「麺場家が、代々お祓いしてここに祀ってきた『清めの麺棒』が無くなっとる……!」
「麺棒!? うどんを伸ばす、あの木の棒ですか!? 一体何がどうなってるんですか、私にも分かるように教えてください!」
私が詰め寄ると、護さんは周囲をぐるりと見渡して、舌打ちをした。
「こむぎちゃん、ここは磁場が強すぎる。長居は無用や、とりあえず山を降りよう」
私たちは五色台を東へと駆け降りた。
辿り着いたのは山麓の街、鬼無町。
どこからか、ただならぬ不穏な気配が近づいていることにも気づかずに――。




