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――

 あの夜の出来事を、結局誰にも相談できないまま、早一ヶ月が過ぎようとしていた。


 何に対して疑念を抱けば良いのか。誰を信じたら良いのか。

 頭が上手く働かない。働いてはいけない、とナニモノかが警告している。


 両親に会いたかった。こんな混乱の中に落とされるくらいなら、鈍臭いと罵られながら、痛いけれど怪我がしない程度の細い針で毎日刺された方が、随分とマシだった。

 しかし今更、どの面で帰れば良いのか。ましてや大学へ実家から通うのは、とても現実的ではない。

 賃貸ショップにもう一度足を運んでみようか、とも考える。今ならどこか別の物件が空いているかもしれない。そこまでは思ったものの、行動に移すことはできなかった。有り体に言えば、『タイミングを失っていた』のだ。何故引越しをするのか、裏野ハイツから出て行くのか、と問われ、上手い回答が準備できなかった。それだとマズイ。それだけが頭にあった。



 表面上は、何も変わらない。

 裏野ハイツに戻ると、父親を待っているエイスケと一緒にサッカーをする。エイヤが帰って来て、エイスケを託す。

 夕刻、何日かに一度、ミヤコからおかずのお裾分けを貰う。

 月に一度くらいの頻度で、キタムラとあの焼き鳥屋にも行った。それから同じくらいの頻度で、ナンヅカと遭遇する。彼は今でも、ドアの隙間から、こっそりと一弥を睨んでいる――今では、いっそ嘘偽り無い悪感情を打つけてくる彼が、裏野ハイツで一番正常なのではないかという気がしてきたことが不思議でならない――。



 何一つ変わらない日々。

 それでいいのだと思っていた。

 これからも変わらない。

 ……そのはずだった。




「話をしてみようと思うんだ」




 その日、エイヤは真面目くさった顔をしていた。穏やかな色はなりを潜め、どことなくヒーローじみた、ある種の決意を秘めた瞳をしていた。一弥にはそれが不気味で仕方がなかった。

「妻とも話したんだけど、やっぱり、良くないと思うんだよ」

 何がですか、と。訊きたくなかった。聞かずに済むなら、その方が良かった。けれど無情にもエイヤは一弥に同意を求めた。

「オトイケくんも以前言ってただろう、子供をあんな遅くまで外に出しておくのはおかしい、って」

「そう……ですね」

 同意を得られ、エイヤは満足そうに笑う。それから、正しく憤慨してみせた。

「他人の家にあまり口出しするのは良くないから、様子を見ていたんだけど、」

 続きを聞きたくない。頼むから、言わないでくれ。

 唇が震えた。自分の顔が青褪めていることを、一弥はしっかり自認していた。



「あのままじゃエイスケが可哀想だ。エイスケの親に、しっかり話をつけてくる」



 ――貴方が親ではないのか。



 その言葉は、喉の奥に消えた。ごく、と生唾を飲み込む。発せなかったのだ、一弥には。

 意気込むエイヤの背後に、恐ろしい形相をしたエイスケが立っていた。


「オトイケくんも、もし何かあったら、エイスケが遅くまで外に出されていたことを証言してくれ。頼んだよ」


 はい、という言葉が出せず――そもそも、その回答が正しいのかさえ、今の一弥には判断できなかった――、一弥は、エイヤに、そしてエイスケに対して、必死に頷いた。

 一弥の視線を追ったエイヤは、振り向いてエイスケを視界に収める。その一瞬で、エイスケの顔からはとても三歳児が為す表情とは思えない強烈な憎悪の顔は消え去り、いつものへにゃりとした可愛らしい笑顔を浮かべていた。


「エイスケ、来てたのか〜!」

「うん、サッカー、しよ?」


 ぐりん、と。

 エイスケの黒い目が、一弥を見る。



「カズヤくんも、あそぼ」



 悲鳴が漏れそうになるのを、なんとか堪えた。

「俺、は……」

 唇が、がくがくと震えていた。いつも通りにしなければ、そう思うのに、上手くいかない。エイヤはそれを自分がした話の所為だと思ったらしい、ポンと肩を叩くと「大丈夫だ」と囁いた。大丈夫じゃない。大丈夫なはずがない。


 ――貴方はアレを見ていないからそんなことが言えるんだ!


 そう言いたいのに、言えない。エイスケの前で、ソレを口にすることが怖かった。



「お兄ちゃんは今日、用事があるみたいなんだ。エイスケ、おっちゃんと遊ぼう」

「ん〜………………わかった」



 子供っぽく、不満げに頬を膨らませながら、エイスケはくるりと踵を返すと、エイヤの腰をぎゅっと掴んだ。

 一弥が見ていられたのは、そこまでだ。

「それじゃあ俺はこれで」

 辛うじて別れの挨拶の言葉を捻り出すと、自室に駆け込んだ。



 どうしよう。どうしよう。どうしたらいい。



 机の上に置いてある財布を見下ろす。ネットカフェにでも避難しようか。いや、結局ここに戻ることになるのだから意味が無い。気付いたことを悟らせる行動を取ることが、怖い。




 ――コン




 音がした。玄関から、ドアを叩く音が。




 ――コン、コン、コン……




 一定の周期で、それはひたすら繰り返される。誰かを確認することはおろか、身動きひとつ封じられたように、一弥はその場で固まった。

 呼吸をすることさえ怖い。地獄だった。

 しばらくすると、ノックは消えた。それでも、一弥は誰かに見られているような気がして、少しも動けずにいた。カチ、カチ、と。時計の針の音だけが聞こえる。その音が何百回となった頃、ようやく、のろのろと動き出した。

 ノックを聞いた以上、部屋を出ることはできなかった。

 一弥は夕飯さえ取らず、風呂にも入らず、そのままの格好でベッドに潜り込むと、頭まで掛け布団を被った。息を殺し、ただ時が過ぎていくことを待つ。それしか許されなかった。



 静寂の中で、聞こえるはずのない音を、聞いた。階段を登る音だ。角部屋の203号室なら聞こえるはずが無い音。それが、カン、カン、と響いている。

 次いで、ドンドンとドアを叩く音。初め、自分の部屋かと思ったが、違う。隣だ。隣の202号室だ。ざわり、と。壁越しに何かが蠢いた気配を感じた。


「いるんでしょ? ちょっと!」

「ドアを開けて話を聞いてください!」


 よく知った声が、ふたつ。

 それしかしないはずなのに、そこにはエイスケもいるのだという確信があった。



 やめろ。あけるな。



 制止は誰にも届かない。声を上げることができない。

 そして、




 ――ガチャ




 ドアが、開いた。







「タスケテ、」







「タスケテ、タスケテ、タスケテタスケテタスケテタスケテタスケテワタシヲタスケテ」

「イヤダシニタクナイワタシハシニタクナイイヤダイヤダシニタクナイノオオオオオ」

「ココカラダシテココダシテダシテダシテダシテダシテダシテダシテココカラダシテ」

「ナンデオレガコンナメニアワナキャナラナイドウシテナンデオレガタダオレハオレガ」







 女、男。幾多の声と声が混ざり合って、やがてそれらは全て意味を持たないただの轟音になっていく。どちらにせよ悍ましい音だった。

 耳を塞ぐ動作すらできず、唇を痛いくらい噛みしめる。いっそ痛みでどうかなってしまいたかった。

 遅れて、聞いている側まで総毛立たせる悲鳴が響き渡った。二人分の悲鳴だ。その悲鳴に、悍ましい音が絡み付いていく。

 ズル、ズル、と引き摺る音。引き込まれているのだ。




「嫌だ、嫌だ! 嫌だ! 誰か! たす、助けてくれ! 助けて、助け、誰か助けてくれ頼む死にたくない、死にたくない、死にたくない、助け







 ――――――バタン







 無音。

 先程まで響いていたものが、まるで嘘だったかのように。全て幻聴だったかのように。

 音が掻き消えた。


 一弥の身体は金縛りにあったように、ちっとも動かなかった。身体中から、嫌な汗が流れ出ていた。

 時計の音以外に、ヒュー、ヒュー、と音がした。自分の喉から聞こえる。喉から空気が漏れるような音が発せられていた。気付けば、一弥は肩で息をしていた。


 がくがくと震える手で、口を覆った。ひとつの音を立てることさえ許されなかった。


 ざわ。ざわ、ざわ、と。隣室から音無き気配がする。嘆き、慟哭。否、それだけではない。嗤っている。仲間が増えた、と。わざと蠢いている。見せ付けるように。お前も来るのか、と問い掛けるように。

 ――嫌だ。自分は、嫌だ。入りたくない。


 ぎゅっと目を瞑る。

 全てが自分の夢で、幻聴で、勘違いであることを、ひたすら祈った。







「………………ゥ、ア」







 覚醒した。ボンヤリする頭で、時計を見る。一時半。夜ではなく、昼の。

 ひどく喉が渇いていた。頭が、ガンガンする。

「……水」

 譫言のように呟き、台所に向かう。コップを乱暴に掴むと、水を注いだ。一気に飲み干す。少し頭痛が治まる。

「だるい……」

 ふらつく足取りのまま、食器棚の三段目を開ける。常備薬はそこに全てしまってある。頭痛薬を二錠口に放り込み、水で流し込んだ。同じ場所にしまってある体温計で熱を計る。ピピ、と電子音が聞こえた。脇から体温計を取り、表示画面を見ると、37度6分。割と高い。

 自覚すると、ますます酷くなった。うあー、と呻きながらしゃがみ込む。

 食欲は、相変わらず無かった。



 ――ピンポーン



 インターホンが鳴る。ビク、と身体が震えた。どうするべきか。逡巡。それから、ふー、と大きく息を吐く。やがてのろのろと動き出した。

 部屋に入り込む光が、そうさせたのかもしれない。


「は、い……」

 声を出そうとし、驚く。掠れて、とても聞き取れなかった。チェーンを外し、解錠する。音を立てないようにゆっくりドアを開けた。

「あらぁ、ひどい顔色ねぇ。辛い時に、ごめんなさいねぇ」

 息を飲む。ミヤコだ。201号室なら、当然あの声は聞こえたはずだ。しかし、彼女は昨日までと何も変わらない。ひょっとしたら、101号室のキタムラも、102号室のナンヅカも。全員。――ああ、だからか。キタムラが、階段の音に過剰反応した理由。ナンヅカが、人付き合いを拒否するようになった理由。二人が揃って、夫婦に関わるな、と言った理由。

 熱に浮かされた頭が非日常を受け入れた。

 受け入れる以外に、一弥には生き残る術が無いのだ。全員、狂っている。狂気を見逃すことで、狂っているのだ。一弥もまた、そうする。


「熱は? 計ったの?」

「37.6度でした……」

「高いじゃない! ちゃんと食べているの?」

「昨日の夜から食べてません……」


 ミヤコの目が吊り上がった。それはいけないわ、栄養をとらないと治るものも治らなくなるもの。まるで母親のようなことを言う。

「ゼリーか何か買ってくるから、ゆっくりしてなさいね」

「そんな、悪いです。俺、動けます、から」

 頭痛薬も飲んだし、とこめかみを押さえながら主張し、サンダルを履いて――この時期だから靴が良かったが、しゃがむ気力すら無かった――、廊下を出る。


「コンビニなら、片道8分です、し……」

 言葉が止まる。

 202号室の扉から、赤い筋が数本生えていた。中に引き込まれまいと必死に抗った痕跡。数えなければ良いのに、数えてしまう。いち、に、さん……ちょうど、20本。両手の指の数分。近くには縁が赤く染まった細長い物が転がっていた。ああ、爪だ。剥がれた爪だ。

 本来なら、悲鳴を上げるべきシーンだ。しかし出なかった。頭が、感性が、麻痺している。


「それは健康な時でしょう。そんなふらふらじゃあ途中で倒れちゃうわぁ」

 ミヤコを一瞥する。彼女も気付いているはずだったが、なんの反応も無い。


「カズヤくん」


 呼ばれ、ゆるゆると顔を上げた。廊下の先でエイスケが笑っていた。屈託無く。翳りなく。あくまで、明るく。

「きょうは、いい? あそぼうよ」

「あ……ごめん、頭が痛くて」散々迷ってから、ぽん、と頭に手を乗せた。震えないように注意する。「また、今度な」


「え〜」

 不服そうなエイスケは、しかし聞き分けよく引き下がる。なおったらあそぼうね、やくそくだよ。上目遣いで睨みながら、階段を下っていく。どこに行くのだろう。……彼の家は、ここだろうに。


「じゃあ、私も行ってくるわね、カズヤくん」


 名を呼ばれ、ぼんやりした頭で返事をした。はい、だったかもしれないし、やっぱり悪いです、だったかもしれない。記憶が定かではない。

 それどころではなくなった、と言い換えても良い。

 そうそう、と振り向いたミヤコがにっこり笑う。

「昨日の夜は、ごめんなさいねぇ。煩くしちゃって。体調悪いでしょうに」

 ぞ、とした。何が、というわけではなく。何かが。ひどく、その穏やかな笑顔に違和感を覚えた。

「いえ……」自分が歪な表情を浮かべている自覚があった。そんな顔しかできないなら、いっそナンヅカのように無表情でいた方がマシかもしれない。「昨日は、ずっと寝ていたので……音なんて、聞こえませんでしたよ」

「そう? それなら良かったわぁ」

 良かった、のだろうか。自分の回答は、これで。

 気付いた時には彼女はいなかった。


 ――カズヤくん。

 名を呼ばれたことで、不意に気付く。自分が下の名前を教えたのは、ミヤコにだけだ。彼女が名前しか名乗らなかったから、自分もついフルネームで名乗った。

 トウノには、言っていない。なのに次に会った時に、エイスケは一弥の名前を知っていた。その時点で、気付くべきだったのかもしれない。



 全てが、今更だった。



 部屋に戻る気分でも無い。外の空気を吸っていた方が、幾分かマシだ。202号室の前を通る時は、なるべく下を見ないようにして、ドアの前を大股で飛び越えた。階段を下りると、傍からぬっと顔が現れた。キタムラだ。


「大丈夫?」


 熱のことではないのは明白だった。こくり、と頷く。困ったように眉尻を下げたキタムラは、それは良かった、と悲哀を込めて言い放つ。

「僕はもう無理だけど、きみは若い。機会はいくらでもある」

 主語の無い言葉。それがキタムラの最大級のアドバイスなのだと、すぐにわかった。


 一部屋向こうに視線を動かせば、薄暗い目とかち合う。いつもならすぐに遮断されるのに、この時は違った。

 ほらみたことか、という嘲笑。あるいは、憐れみ、か。数秒絡んだ視線は、やはり一方的に切られた。バタンと扉が閉まる。ここにずっといれば自分もああなるのだろう。キタムラのように割り切っては生きられないからだ。


「……ありがとうございます」


 辛うじて、一弥は笑った。

 外で涼み、部屋に戻ると202号室の前は綺麗になっていた。いったい誰が片付けたのか。一弥は考えることを放棄した。昨日のことなど、本当にあったのかと疑いたくなる。いっそ疑ってしまいたい。

 202号室からは、もう何の音もしなかった。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 その後、大学卒業と同時に、一弥は裏野ハイツを出ることになった。機会が巡って来たのだ。

 卒業までの四年間、103号室には他の住人が引越してきた。何組も見た。何組もいなくなったからだ。決まって穏やかそうな子供のいない夫婦だった。


 全て昔のことだ。そう、もう十年以上も前のこと。めでたくも三十路を迎えた一弥には、現在もうすぐ二歳になる娘と、臨月を迎えた妻がいる。

 だが偶に考える。裏野ハイツは、今、どうなっているのだろうか、と。ミヤコは当時七十代だった。生きていれば八十をとうに迎えている頃だ。今も三歳児のエイスケと共にいるのか、それとも亡くなっているのか。後者だとしたら、それを機に裏野ハイツは普通のアパートになったのか、それともエイスケはあのまま存在し続けるのか。

 そもそも、更に老朽化が進んでいるであろう裏野ハイツ自体が今もあの形で在るのかさえ怪しい。たとえば、裏野ハイツが建て直されることになったとしたら、その時、エイスケは新しく建った裏野ハイツに棲み付くのか、それとも外に――







「カズヤくん」







 ぎゅ、と。一弥の腰辺りを、小さな手が掴んだ。




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