メリーさんの怪、第一幕
市川秀樹はホームルームが終わると足早に理科準備室へと駆け込んだ。自分の椅子にどっかりと腰掛け、頭を両手で押さえつける。全身の血が冷え渡り、それを無理やり送ろうと動悸ばかりが高ぶっていく。そのせいかどうも手足すら冷えてきた。周囲の気温が3度ほど下がったような、血が足りなくなったような、そんな感覚だ。無論気温が下がったわけでも血が減ったわけでもない。単純に恐怖し、身体が怯えているのだ。
過去にストレスハゲが出来た時もこんな感じだったのを覚えている。まだ大学生の時にSNSで知り合った中学生を抱いた後だ。酷い後悔と訴えられやしないかという恐怖でいても経っても居られず、日々のニュースや少女の呟きをチェックしてばかりだった。
その頃も今みたいに、全身の毛穴がぐっと締まって鳥肌を立たせ、速まる鼓動とは相対し体温はみるみる下がっていた。ストレスが強いと症状は体に出てくる。恐らくそれを知らない昔の人が、取り憑かれたら気温が下がる等といった噂話を作ったのだろう。
「なんて、今は関係ねぇだろ……」
彼は誰にでもなくそう呟くと、立ちくらみを必死に抑えて椅子から立ち上がった。そのままふらつく足で準備室に備え付けてある洗面台の蛇口へにじり寄り、硬直した腕でそれを捻り、滝のように溢れる水道水を顔面に打ち付けて鏡を見た。
そこに映っているのは、いつもと変わらない市川秀樹本人である。毛穴まで金に染め上げられた頭、休日に街へ繰り出すための欲張ったピアス穴、日に焼けた茶褐色の肌。コンプレックスのニキビ跡。教師をしているなど誰も想像つかないその身なりは、紛れもない自分そのものだ。しかし、その表情は普段の自信に満ちたものとは違い、恐怖で引き攣り青白くなっていた。
「落ち着け俺。家族とか友達とか生徒とかが、どうせふざけてかけたに違いねぇんだ」
彼は鏡に映る自分にそう納得させると、携帯電話を取り出した。そのまま慣れた手つきで着信履歴を開く。そこに映し出されていたのは「非通知」の文字。それも現時点で14件。すべてが10分置きに刻まれていた。
現在時刻は午後の4時37分。ホームルームを早急に終わらせ、校内にある自分専用の空間へ逃げ込んできたのだ。ホームルームが始まったのは4時35分。その間に着信は無かった。としても、最初に着信のあった2時29分は授業中だ。うちの生徒に欠席者は居ないから、2年2組は白と見ても問題は無いだろう。とすれば他クラスの生徒か……それとも家族や大学の友人?
悩んでいてもハッキリとした答えは出てこなかった。ただふと思い起こされるのは、小さな噂話だ。たしかメリーさんといっただろうか。定期的に電話をし、自分の居場所を告げて近づいてくる都市伝説だ。市川秀樹の場合、2時間も電話に出ていないため、メリーさんが今どこにいるのかすら検討がつかない。
「まてまて、大体何がメリーさんだ。そんなわけが無いだろう。それよりも今心配すべきは目的だ。何のためにこんな電話をしたんだ……」
そう言って市川秀樹は鏡に映る自分を睨めつけ携帯を洗面台の隣に置いた。しっかりと頭を働かせようと眼力のみでそこにいる自分に訴える。それを受けた市川秀樹は再び口を開いた。
「最近通り魔事件が起きた。そのうち1人は俺が授業を持っている生徒だ。名を梶乃優子。バスケ部の1軍にして、去年のミス候補だった。ショートヘアに襟足だけを伸ばしてシュシュで束ねていたのが印象的だ。彼女にはよく準備室で勉強を教えていた。そして彼女も今の俺のように非通知着信に悩んでいた。もしこれが俺に恋をしたストーカーの犯行なら」
そこまで考えてふと口を噤む。もし彼に恋をした哀れな蜜蜂ちゃんなら、彼自身との絡みが濃い子を刺すはずだ。だがもう1人の犠牲者を、市川秀樹は全く知らない。名前すら思い出せないのだが、たしか理科の選択科目が物理だったのは覚えている。バスケ部であることも覚えている。でもやはりその程度だ。
「ということは俺が好きだから邪魔者を刺したって線は薄いか。ってなんだよその目は」
気が動転した彼は、自分の顔が映る鏡にガンを飛ばす。何故だが、鏡の中の自分が動いて「ナルシストめ」等と馬鹿にされたような気になったのだ。鏡の中に映る自分が勝手に動くなんてそんな事はありえない。しかし彼は沸き立つ恐怖からか、鏡向かって指をさし叫んだ。
「なんだよお前は!俺そっくりな顔をして、そこで笑ってるんだろ!お前が犯人か!くそ、出てこいよ!何がナルシストだ、ふざけんな!」
だがそれっきりどんなに睨めつけても、鏡に映る自分は彼の真似ばかりを繰り返して見せた。彼自身、冷静になってみれば鏡の中の自分だけが動くはずかない事は理解出来た。当たり前のことだ。鏡にいる自分は、現実世界の光をただ単純に全反射されることで生み出された像に過ぎないのだから。
彼自身、大学に入るまでは自分に自信が持てないタイプの人間であった。コンプレックスを指された気になったのは謎の非通知着信により気が動転したせいだろう。そうに決まっているのだ。
「鏡に映る俺が動くはずなんかねぇわな」
そう呟いて胸をなでおろし、彼は再び蛇口を捻り水を出す。目を瞑ってから蛇口に手を当て、両手いっぱいに水を溜めて顔を洗おうとした。その瞬間、両手に無数の髪の毛が絡み付いたような感覚に襲われた。髪の毛は蛇口からゴポッゴポッと音を立てて溢れ出る。その1本1本が特有の滑りを持っていて、指と指の間に滑り込んではヌルヌルと巻きついてくる。
彼は慌てて目を開け、腰から崩れ落ちながら掌にある水を周囲に撒き散らした。あまりの気持ち悪さに、髪の毛で一杯になった指を地面にこすり付け、獣にも似た唸りを上げた。
「なんだよ、なんなんだよ!勘弁してくれよ!」
それから、髪の毛が触れた指が無事かどうか気になり、彼は慌てて両手を確認したのだが、両手には全く髪の毛など付着していなかった。
「そんな馬鹿な……」
その周囲を見回しても、たしかに彼自身が撒き散らした水はあるのに、不快感を植え付けた髪の毛はどこにも無い。
その不可解な現象に、彼は鳥肌を立たせる。
「き……昨日見たホラー映画のせいかな。夜中に映画観ようなんて言って貞子vs伽椰子見せられたもんな……うえっぷ、思い出してきた……まじシャ.ナ.ナ……何を言っているんだ俺は」
恐怖が一周回ってテンションを上げてくれたらしい。適当なことを口走るうちに何だか気分が楽になるのを感じた。
「そうだ、映画のせいに決まっているよな」
人は起きている状態でも夢を見ることがあるらしい。ストレスで半ば夢を見ていたのだろう。もしかしたら、ストレスを感じているという体の訴えが、髪の毛に絡み付かれたという幻覚によって表現されたのかもしれない。
「明日休もうかな」
彼はそう呟くと、ゆっくりと立ち上がった。洗面台からは、ジョバジョバと勢いよく水が流れている。彼は再び出たままになっている蛇口に手を伸ばし、今度こそ両手に水を貯めて顔にかけた。ヒンヤリとした気持ちのいい液体が、顔にこびり付いた脂汗を若干流してくれる。それから洗面台の横に置いていたスマートフォンを手に取り、乱れた髪の毛を整えた。
ワックスを塗るのも面倒に感じ、片手を濡らして無理やり形を整えさせる。朝塗ってきたワックスが水と混じってヌメっとした厭な感覚を指に残していった。
「さてと……こんなもんかね」
彼はそれからクシャクシャになっていた髪を綺麗に整え、鏡の前で調子に乗って決めポーズなんかをして見せた。聖飢魔IIの事が頭の大半を占め、すっかり非通知着信のことを忘れ始めていた。彼は映画で聞いた曲を口ずさみながらふと思う。
「CD買おうかな」
そんな彼の脳天気な言葉を遮ろうとしたのだろう。彼が水を止めようと蛇口に手を伸ばした時だった。片手に握りしめていた携帯電話が震えはじめたのだ。
まさかこんなタイミングに着信があるなんて思ってもみなかった彼は慌てて携帯を手放してしまう。洗面台は未だに水が出たままだし、彼は珍しく防水加工のされていない携帯電話を買っていた。このままではスマートフォンがオジャンになりかねなかった。そのため慌てた市川秀樹は、洗面台に落ちる前にそれを捕まえようと手を乱雑に動かし必死に両手で押さえつける。
「ふぅ……いきなりかかってくるなよ……」
携帯電話に向けて悪態をついてから、そっと画面を見る。もう既にバイブは鳴り止んでいたため、てっきり着信が終わったのかと思い込んだのだ。しかしそれは間違いだった。着信が止まったのは、先ほど慌てて携帯を触りまくったがために電話に出てしまったからだった。
「……っ!?」
画面に映るのは、通話中の文字と、やはり「非通知」の文字。市川秀樹はそれを凝視した後、深い深呼吸を一度して受話器を耳に当てた。こうなればヤケだと思ったのだ。なるようになれ、俺は男だろうと、彼は自分自身に言い聞かせて口を開く。
「……も、もしもし」
「キャハハハハ!もしもーし!先生元気ないぞ〜そんなに噂話が怖かったのか〜?」
意を決した彼の心とは裏腹に、受話器から聞こえてきた声はとても聞きなれた声だった。
「晴美か?なんだ晴美じゃないか。どうしたんだ」
その声の主は、自分が担当する化学の生徒、3年4組の佐々木晴美であった。
「いや、なんかコーハイちゃんが、先生の顔色悪いって言ってたからさ、ちょっとイタズラでかけてたのよん」
「そ、そうなのか?もしかしてほかの着信もお前か?」
「んー?うん。一応前にも1回かけたよん。もー、先生ったらビビりすぎ。もしかして都市伝説とか信じちゃう人?可愛いなー」
佐々木晴美の明るい笑い声が耳元で木霊する。と同時に市川秀樹の体は徐々に温まっていくのを感じた。
「なんだよ、全部犯人はお前かよ。大人をからかうんじゃねぇよまったく。あと都市伝説とか俺信じないからな」
安心しきった彼は、いつの間にか頬に笑みを浮かべて椅子に腰掛けていた。足を組んで若干ふんぞり返り、時折はははと笑い声を上げる。
「からかうなって、やっぱり先生怖かったんだ〜ふーん」
小悪魔系女子とはこの事だろう。声だけでも、今受話器の向こうで悪戯な微笑みを見せているのが分かった。弱みを見つけたぞと言いたげな笑い方を含ませてくる。
「だから、怖くなかったって」
「本当に?ササミに嘘ついていいのー?」
ササミというのは彼女のあだ名だ。佐々木晴美の最初と最後を取ってササミ。モデル体型だからか、ササミと聞いても何故かしっくりくる。そんな彼女は、猫なで声で「いーの?いーの?せーんせ」と繰り返していた。
「全く、参ったなぁ。何が望みなんだ?何でも聞いてやるよ」
しかし、市川秀樹も満更では無さそうに笑い返す。その言葉を待っていたかのように、佐々木晴美は口を開いた。
「ん?何でもって言ったよね?じゃーさ、じゃーさ、今度の休みデートしようよ!」
「おう、勿論いいよ。俺の家に来るか?」
「えー、それは最後でしょ?キャハハ」
「それもそうか、どこか行きたいところあるのか?」
「うん、最近夕日ヶ丘新駅の近くにスタバ出来たらしいから奢って〜」
「結局財布にしたかったわけか」
「ちゃんとお礼はしますよーだ。じゃーね!」
そう言って、佐々木晴美は一方的に通話を切った。市川秀樹は音が聞こえなくなった自身のスマートフォンを眺めてから、「まったく、悪い子だな」と嬉しそうに呟いて机の上に携帯を置く。
佐々木晴美は市川秀樹と男女の関係を持っている。市川秀樹からしてみれば生徒と交際する事はもう当たり前のこととなりつつあった。適当に口説けば、思春期真っ盛りの女子高生というのは喜んで付いてくるものだ。そして何かしらの都合をつけて疎遠にし、転勤や卒業などで会えなくなれば関係は終わる。彼としても気楽に遊ぶことが出来たし、相手を選べは後腐れ無くその後も過ごしていける。そして佐々木晴美はまんまと彼の毒牙にかかった哀れな蜜蜂の1人にしか過ぎない。
「さてと、今度はどんな格好させてあげようかね」
すっかり安心し、通り魔事件の事も頭から消え失せた彼は、今度どんな玩具を使って楽しませてやろうかということに頭を使い始めた。今となっては、なぜあんなに怯えていたのかすら分からない。大したことの無い話じゃないか。非通知着信なんて誰かのいたずらに決まっているし、都市伝説は都市伝説止まり。結局のところ勝手に怖がっていたのは自分なのだから。
「まったく、この怖がらせたお仕置きはしてやらなくてはな」
そう言って携帯の着信履歴を見る。すべての非通知着信が10分置きに来ている。2時29分から順番に39分、49分と非通知が続き、3時に回ってもそのペースは変わらない。その間に佐々木晴美からの着信が3時20分に一つ。そしてまた3時29分、39分と続いている。
「あいつ、1回間違えたな」
そういうミスをするのも彼女の可愛いところだ。ふわふわとした天然ボケを所々に挟んでくる。だがその本質は小悪魔だ。その細いからだと綺麗な二重瞼のつり目で、あれよあれよと誘惑してくる。18歳とは思えない妖艶さまで兼ね備えている。
「そして今の非通知着信が4時49分か」
そう思ってみてみれば、最新の着信は4時55分になっていた。おかしいと思ってふと時計に目をやると、今の時刻は4時58分。それを見て気がついた。どうやら一人で鏡や蛇口に対し恐がっている間に、1通着信が来ていたらしいということに。
そこまで理解して、唐突に佐々木晴美の言葉が思い起こされてきた。『前にも1回かけたよん』と彼女は言っていた。その前にもというのが、3時20分のものだとしたら。そういえば彼女は、『1回かけた』と言っていたのだ。それ以外の幾度となくかけられた非通知着信については全く言及されていない。
「まさか……そんなはずは」
もしかしたら佐々木晴美のせいだと思った今この瞬間に勘違いをしているのではないだろうか。そう考えれば、少なくとも2度かかってきた彼女の着信はどちらも下一桁が9ではない。
再び彼の鼓動は脈を高ぶらせ、呼吸が荒くなるのを感じた。慌ててスマホの時計に目をやる。その瞬間、時刻は59分を示し、同時にバイブが鳴り始めた。
「!?…………落ち着け、そんな、都市伝説とかが、あるはずがねぇ……あるはずがねぇんだ。これもどうせ佐々木晴美のイタズラに決まっている。そうだ、そうに決まっている。だってそうじゃないか。あいつはわざと着信をずらして俺を怖がらせようとしているんだ。そうに決まっている」
彼は自分にそう言い聞かせ、通話を切ろうとした。だがそこで指を止める。化学教師の性だろうか、いや昔からこうだ。気になった事には首を突っ込んでまでも確認しなきゃ気が済まない。R18の暖簾の向こうがどうなっているのか気になって仕方がなかった小学生の時もそうだ。B級映画の内容も、マニアックプレイの感覚も、気になったらやって見なくちゃ気が済まないタイプだった。そして今回も。
「1度だけだ」
彼はそう決めると、通話を許可し、受話器を耳に当てた。か細い声で、不安を高ぶらせながらも「もしもし?」と決まり文句を口にする。
――ザーーーーーーッ。
受話器から聞こえてきたのは砂嵐だった。回線が悪いのだろうか、トランシーバーでやり取りしているような不快な砂嵐がしばらく続く。何かに電波を乗っ取られた時もこんな音なんだろうかと、ふと彼は疑問に思った。
「もしもし?ササミか?」
悪ふざけなのだろう?とその後続けたが、返事はない。なんだが少しづつ恐怖が戻ってくる感覚がした。背中あたりに鳥肌が立ち、小さく身震いをして、もう通話を切ってやろうとスマホを耳から若干話した時だった。
「もし……も……」
声が聞こえた。やはり何かに電波が邪魔されているような、もしくは地下から通話をかけているような、電波が悪い事がハッキリと分かる声だった。
「今……に……の」
「な、なんだって?聞き取れない!」
通話の相手は何を言ってるんだろうか。市川秀樹の頭の中は恐怖と好奇心でごちゃ混ぜになっていた。
「……ま……ゆう……おか……きに……の」
少しづつ音が鮮明になって来た。その度に彼は聞き取れないと意思表示をしてみせた。相手も、それに答えようとしているのか、それとも市川秀樹の声が聞き取れないことから自分の言葉も聞こえていないと想像出来たのか、言葉を何度も繰り返した。
「い……ひがお……しんえ……いる」
「……ま……ゆ……ひがおか……に……るの」
だが、彼はもう、受話器の向こうにいる何ものかが、一体何を言っているのか想像ついた。つい先程聞いた単語だ。そう思う彼に答え合わせをするように、突然砂嵐がピタリと止んだ。
「今、夕日ヶ丘新駅にいるの」
聞いたことのない女の子の声だった。少なくとも自分のクラスの生徒でも、自分が授業を持っている生徒でもない。誰の声かは分からない声が、そうハッキリと居場所を告げた。
――ザーーーーーー……。
そしていきなり砂嵐が帰ってきて、通話は切れた。
彼はゆっくりとスマホを耳から話した。その動きに合わせ、玉のような汗が足元へぼたぼたと垂れる。
恐怖によるストレスが急激に帰ってきたのを感じる。と同時に誰かから見られている気がした。
「誰だッ!」
慌てて振り返るも、そこには誰もいなかった。ただ一瞬、壁に描かれた落書きの目がギョロりと蠢いた気もする。不気味だ。何を象ったのか理解不能な下手な絵が、本来なら笑うべきであろう画力が、今は狂気にすら思えてくる。
彼はその落書きがあまりにも気になり、慌てて雑巾を握りしめ壁を掃除し出した。いや、気になったというより気を逸らしたの方が正しいのかもしれない。彼はひどい恐怖から逃れるべく、別の事に集中することに決めた。
それから結局、10分近く掃除をしていた。汚い箇所というのは、掃除をするまで全く気づかないというのに、いざ手を動かしてみれば次から次へと浮上してくるものだ。彼は落書きを落とし終えると、その壁の隅に埃が溜まっているのを見てしまった。その埃がカサカサと音を立て動いたように目に映り、彼は慌ててそれを箒ではく。そんな市川秀樹を馬鹿にするように天井から笑い声が聞こえ、彼は恐怖も忘れて扇風機の掃除を再び始めた。
そうこうしているうちに、突如彼のスマートフォンが動き出す。あまりに突然の動作だった事と、彼自身掃除に集中しきっていた事もあり、男とは思えない程の甲高い声をあげて飛び跳ねた。
「……もう10分経ったのか」
そこで彼はようやく現状を思い出し、呑気に掃除なんかを始めていた自分を貶した。防衛機制とはいえ、恐怖に駆られているとはいえ、逃げも隠れもせず綺麗に化物をお出迎えするなど、笑いたくても笑えない程馬鹿らしい。
「仕方ない、取るか……」
彼は目を瞑って携帯を耳に当てる。やはり向こう側からは砂嵐が聞こえてくる。それはノイズ音にも聞こえるが、誰かがスマホのマイクを抑えているようにも聞こえる。
「……ま…………こ……の」
酷いノイズの中に、ちょうど10分前に聞いた女の子の声が確かに混じっている。彼女はノイズなど承知しているようで、こちらに声が届くまで何度もなんども同じ言葉を繰り返した。
そしてやはり、突如プツリとノイズが止まり、ハッキリと声が聞こえる。
「今、夕日ヶ丘高校の玄関にいるの」
――ザーーーーーーッ
確かに近づいていた。この高校は駅から徒歩5分の位置にある。という事は通常の半分程度の速度でしか近づけないのだろう。等と冷静に判断はできるものの、それ以上に恐怖が勝ってくるのは当然であった。
まだ2回しか電話に出ていないが、10分の間に確かに近づいている事は確信が持てた。近づいているのだ。理科室でのんびりとしているこの市川秀樹に、着実に。
この事が脳裏に充満した彼は、慌ててスマートフォンを操作してササミこと佐々木晴美に電話をかけた。
1……2……3コール目でササミが通話に応じる。
「どーしたのせんせー?今友達と帰るところなんだけど」
少し困ったような言い草で、彼女は声を落としてそう言った。当たり前の事だが市川秀樹と佐々木晴美の関係は内緒にされている。そのため、友達と居る時に通話をするのは何かと不都合なのだろう。
しかし今の市川秀樹にとってそのような事はどうでも良かった。
「ササミ、今お前は玄関に居るんだな?」
「え?そうだけど、なに?今からは会えないよ?」
「メリーさん知ってるか?」
「えー、せんせーまだ怒ってるの?」
「そうじゃない!この校舎に、なにか不審な物は入って来なかったか?」
彼の必死すぎる口調に、何か異変を感じたのだろう。晴美が周囲を注意深く観察しているのが分かった。
「ううん、特に何もないと思うけど……あ、友達呼んでるから行くね、何かあったら言ってね!すぐとるから」
「分かった、ササミ済まない、ありがとう」
その言葉を聞くと、ササミは少し嬉しそうにして通話を切った。秀樹としてはあまり遊び相手である生徒に縋りたくは無かったが、この際やむを得ない。
通話を切り、ゆっくりとそれを机に置いた。
と同時にバイブが鳴る。
「ササミか!?何があった!」
彼は慌ててスマートフォンを手に取る。しかしその相手はササミでは無かった。
「……非通知ッ!周囲は10分置きじゃないのか!なぜだ、俺に近づいたからか!」
――ザーーーーーーッ
耳に当てて声を聞き逃すまいと目を瞑る、しかし相変わらずのノイズで声は聞こえない。今度は何秒待てばいいんだと、目に見えないメリーさんの行動に焦りが込み上げてくる。
しかし今回はノイズが止むのも早かった。
「今、理科室前にいるの」
そのまま彼女が言葉を続けようとしたのだろう。何か声が聞こえ、いきなり砂嵐が帰ってくる。
――ザーーーーーーッ邪魔しないで――
「なっ、なんだ今の声は」
しかしそのノイズには今までに聞いたことのない新たな声が混じっていた。と言うより、先程から居場所を告げていた女の子の声が、急激に暗く低く響いたのだ。
人の出せる声じゃない。もっとなにか、得体の知れないものの声だ。気味の悪い声が、確かにノイズの中でハッキリと話したのだ。
こうしてはいられない。そう思った彼は理科準備室へ駆け込み鍵をかけた。メリーさんは理科室前に居る。ならここに隠れればいい。そう思ったのだ。
呼吸が激しすぎて胸が痛い。体は火照ったように熱いのに、いざ指で触れてみると死体かと思うくらい冷たかった。そしてギトギトと溢れ出す脂汗が室内に嫌な臭いを撒き散らしている。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
お化け屋敷や隠れんぼうなど比にはならない。確かに近づく恐怖と、それが何かわからない圧迫に、心だけが蝕まれるようにして疲弊していくのを感じた。
――ガラガラ……ゴトンッ
彼が荒ぶる息を無理やり沈めようとした時だった。何者かが理科室の扉を開けた。
――ゴトッ……ゴトッ……ゴトッ……ゴトッ……
その何者かは、一定のリズムで何かを置くように、這いずり回るかのように、理科室内を蠢いていた。
「……フーッフーッフーッフーッフーッ……!」
恐怖からか、呼吸器官が興奮し、両手で必死に口元を抑えなくては自らの鼓動や息が向こうに聞こえてしまいそうだった。
――ゴトッ……ゴトッ……ゴトッ……バタンッ!
秀樹が必死に堪え隠れている事は、おそらく向こうも分かっているのだろう。まさぐるように教室の中を探し始め、机か何かをひっくり返した。
「……ヒッ!」
その音に驚き、そして慌てて秀樹は口を塞ぐ。気づかれたか、この場所がバレてしまったのか、そんな不安が胸を締め付け始めた。
と同時にバイブが鳴る。スマートフォンが必死に震えて着信を知らせてくる。この時ほど携帯を鬱陶しいと思ったことは無いだろう。彼は慌てて通話状態にし、バイブを止めた。
受話器の向こうからは何も聞こえない。しかし理科室内では確かに何かが動いていた。ゴトッゴトッと、硬いものを地面に落とした時のような篭った音をたてながら、それは確かに近づいてきていた。
もうダメかもしれないと、彼は目を瞑る。せめて怖いものは見たくないと、固く眉を寄せ、目を閉じた。その時だった、校内全体にアナウンスが鳴り響く。
『ピンポンパンポーン、――さん、――さん、お客さまがお見えになっております。一階の…………』
恐怖のせいか、そのアナウンスが誰に対して何を求めるものなのかは分からなかった。しかし、その音がメリーさんの注意を逸らしてくれた事は確かなようだった。
ゴトッゴトッという音がピタリと止んだのだ。そして、アナウンスは終わりを告げる音を出す。
彼は深呼吸をして携帯を床に置いた。
しかし、それ以降音はしない。無音だ、静寂だ。先程まで確かにそこにあった『恐怖』は、いつの間にか気配がなくなっていた。
どういう事なのか、不安で気が気ではないが、調べたくて仕方の無い自分がいた。本当に安全なのか、彼はどうしても知りたかった。だから彼は、準備室の鍵をそっと開け、覗けるだけの隙間を作った。
と同時に、携帯から澄んだ女の子の声がする。
「今、理科準備室前に居るの」
市川秀樹がその声を聞いた時はもう既に遅かった。彼は『それ』と目を合わせてしまった。若干の滑りを持った一つ目のそれは、ギョロりと秀樹を睨めつけ、口を開けずに笑った。