第20話 港区おぢ、異世界に残る
異世界万博もとい、レンドール商業祭終了から、五日が過ぎていた。
竜宮城のカウンターでは、リーナが帳簿を閉じたところだった。マイナス十六万Gの最終確定値が、几帳面な筆跡で記されている。
隆之介はカウンターに頬杖をつきながら、その帳簿を眺めていた。
「リーナさん」
「はい」
「俺、いつ黒字に戻れるかな?」
「ヴァイス経理事務所の試算では、二年後です」
「……二年か」
「順調にいけば、ですけど」
「順調にいかなければ?」
「五年です」
「淡々と言うね」
「事実ですから」
いつもの会話。いつもの竜宮城。いつもの匂いのする午後だった。
突然、扉がノックされた。
◇ ◇ ◇
扉の向こうに立っていたのは、エルゼ博士だった。
以前北の魔術都市から来た銀髪の女性だ。隆之介と一度だけ会ったことがある。
「金城さん。お久しぶりですわね」
「エルぜ博士。今日は何の用ですか?」
「報告に来ました。次元の裂け目の研究、進展がありました」
隆之介の動きが、止まった。
博士は冷静な口調のまま、続けた。
「安定化の目処が立ちました。条件は、以前あなたに届いた手紙の通り。記憶が消える可能性も変わらずです」
博士は懐から、新しい便箋を取り出した。
「ただし、今回は実行可能なタイミングが極めて短い。三日後の夜、月が二つ重なる位置にある時。それを逃すと、次は十年後になります」
「三日後ですか…」
「はい」
博士は便箋を机に置いた。
「金城さん。研究者として、私は中立です。あなたが帰ると言うなら、全力で送り出します。残ると言うなら、それでも構いません。ただ——」
「ただ?」
「あなたの判断は、もう一人の方の判断にも影響する可能性があります」
「もう一人? 精霊のこと?」
パルムのことか? それとももう一人誰か転生者がいるのか?
「いえ。なんでもありません」
博士はそう言って、便箋に視線を落とした。
「三日後の夜、私は北の魔術都市から離れた裂け目の前で待っています。そこにあなたが現れなければ、それで結論ということで」
博士は微笑んだ。エレナとも、フローラとも違う、研究者特有の感情を切り離した微笑みだった。
博士は丁寧に礼をして、店を出ていった。
残されたのは、隆之介とリーナと机の上の便箋。
「……」
リーナは、何も言わなかった。
ただ、帳簿を抱えて、ヴァイス経理事務所の方へ静かに歩いていった。
◇ ◇ ◇
その晩、隆之介は便箋を持って、机の引き出しを開けた。
以前届いた手紙が、そのまま入っている。差出人不明。「不明」と書かれた封の上に、新しい便箋を並べた。
筆跡が、同じだった。
あの時から今に至るまで、誰かが、隆之介を見ている。それは間違いなかった。だが、誰なのかは、わからない。
隆之介は便箋を二通とも、また引き出しに戻した。
パルムが肩で目を覚ました。万博のクライマックスで擬人化した反動で、ここ五日、ずっと普段より小さい姿のままだった。
「リュウ。手紙、読んだの?」
「うん」
「帰る?」
「……」
「ボク、聞いていい?」
「いいよ」
「リュウは、帰りたい?」
隆之介は答えなかった。
答えなかったが、心の中では、いくつかの景色が浮かんでいた。
六本木のタワマンの夜景。フェラーリ。年商十二億の会社。金で動く人間関係。週末の銀座の寿司屋。年に一度のドバイ旅行。
それらは、確かに、自分の人生だった。
でも今、思い浮かべると、それは「金で買えたもの」のリストだった。
炙り肉の匂い。リーナの帳簿の音。ゴルドのエールを飲む音。パルムの寝息。バルドの「食え。話はそれからだ」。ドルフの「兄ちゃん」。ヴェルクの「金城殿」。エレナの「微笑み」。フローラの「あら」。レンドールの中央広場で、街全体が笑った夜。
これらは、金では、買えなかった。
◇ ◇ ◇
翌日。隆之介はバルドの炙り亭に行った。
昼の時間帯。客はまばら。バルドが奥で肉を返していた。
「お前。来たか」
「うん」
「いつものか?」
「うん、いつものちょうだい」
炙り肉と黒パンとエールが、隆之介の前に並んだ。バルドはトングを置いて、向かいに座った。
「お前、今日、顔がいつもと違うな」
「え、わかる?」
「わかる。何があった?」
隆之介はエールを一口飲んだ。
「……元の世界に帰れるかも、らしい」
バルドは、肉を返す手を止めなかった。だが、目だけが、ほんの少し動いた。
「そうか」
「うん」
「で?」
「で、って」
「帰るのか、帰らないのか? どっちにするんだ?」
「……」
隆之介は、バルドの目をじっと見た。
「おっちゃん」
「なんだ」
「俺、帰ったら、ここの炙り肉、食えなくなるんだよな」
「そうだな」
「……」
「だが、それはお前が決めることだ。俺は何も言わん」
「即答すんなよ」
「即答じゃない。お前が来てから、ずっと考えてた」
「……え?」
「お前、いつか帰るかもしれん、と思ってた。だから、いつもお前が来た時の肉が、一番うまく焼けるようにしてた」
隆之介は、エールを飲む手を止めた。
「……おっちゃん、それ」
「言うな。情けない」
バルドは、また肉を返した。じゅう、と脂が炭に落ちた。
隆之介は、しばらく何も言わなかった。
ただ、目の前の炙り肉が、いつもより、少しだけ、にじんで見えた。
◇ ◇ ◇
その夜、ゴルドが竜宮城のカウンターでエールを飲んでいた。
隆之介が隣に座っても、ゴルドは何も言わなかった。
だが、隆之介がエールを頼んだ時、ゴルドが口を開いた。
「リュウ」
「はい」
「お前、今夜は飲め」
「飲んでますよ」
「もっと飲め。今夜は、奢ってやる」
「……」
「ゴルドさん。何か、知ってます?」
「何のことだ」
「いや、何かを」
「何も知らん。ただ、今夜のお前は、エールが似合う顔をしている」
ゴルドは杯を傾けた。
「リュウ」
「はい」
「お前、最初に俺と話した夜のこと、覚えてるか」
「覚えてます。竜宮城のカウンター越しでした。ゴルドさん、安いエールを頼んできて」
「あの夜、お前は俺にこう言った。『金を稼ぎたい。自分の力で、ゼロから。港区——俺の故郷でやってたみたいに、でかい商売を』ってな」
「……言いましたね」
「今もそう思ってるか?」
隆之介は、しばらく考えた。
「……思ってないです」
「即答だな」
「即答です」
「ふん」
ゴルドは杯を干して、もう一杯頼んだ。
「リュウ」
「はい」
「お前、少しはマシな商人になったな」
隆之介は、エールを飲む手を、また止めた。
ゴルドからの褒め言葉。嬉しいが、ゴルドに褒められると何か裏があると感じてしまう。
「……ゴルドさん」
「なんだ」
「それ、半分ですか? もう半分は」
「全部だ。今夜だけは、全部だ」
ゴルドはそう言って、笑った。
長年の商売人の顔。だがその目には、初めて、弟子を見る師匠の輝きが確かに、灯っていた。
◇ ◇ ◇
三日目の夕方。
隆之介は、竜宮城の屋根裏で、便箋を二通机に並べていた。
ヴァイス経理事務所の方から、リーナの羽ペンの音が聞こえてくる。さらさらと、いつもの音だった。
パルムが肩の上で、小さな姿のまま、隆之介を見ていた。
「リュウ」
「うん」
「残るか、帰るのか決めたの?」
「うん」
「ボクに教えて」
「俺、残るよ」
即答だった。
パルムが、目を見開いて、それから、青い光が、ふわっと広がった。
パルムの体が、少しだけ大きくなった。元の手のひらサイズに戻り、それから、肩の上で大きく息を吸った。
「よかったぁ……」
パルムが、目を細めた。
「ボク、リュウのこと忘れたくなかったから……」
「うん」
「もし帰ったら、ボクのこと、忘れちゃうかもしれなかったから……」
「うん」
「ありがとう、リュウ」
パルムは、隆之介の首筋にぴたりと頬を寄せた。
手のひらサイズの体温が、ほんの少しだけ、伝わってきた。
◇ ◇ ◇
夜。隆之介は便箋を持って、ヴァイス経理事務所の前に立った。
リーナが、羽ペンを置いた。
「決まりました?」
「決まった」
「教えてください」
「俺、残るよ」
リーナは、しばらく黙った。
それから、帳簿を一冊、机の上に置いた。
「当然です」
「即答ですか」
「帰られたら、まだ回収できてない貸しがありますから」
「……あ、そう」
「マイナス十六万G、二年計画で回収予定ですよ」
「忘れてないんだ」
「当たり前です。貸したお金は、忘れません」
リーナはそう言って、羽ペンをまた取った。
ただ、目元が、ほんの少しだけ、赤かった気がした。
隆之介は、それに気づいた。気づいたが、言わなかった。
代わりに、彼は、便箋を二通、机に置いた。
「リーナさん。これ、引き出しに戻しておいてください」
「これは——」
「いいから」
リーナは、便箋を受け取り、何も聞かなかった。
ただ、便箋を丁寧に引き出しの一番奥に仕舞った。
◇ ◇ ◇
月が二つ、重なる夜。
隆之介は竜宮城の屋根の下で、空を見上げていた。
北の魔術都市の方角。エルゼ博士が、裂け目の前で待っているはずの場所。
隆之介は、行かなかった。
ただ、空を見上げていた。
「リュウ」
肩のパルムが、小声で言った。
「博士、待ってるかな」
「たぶん、待ってる」
「行かないの?」
「行かない」
「……なんで?」
隆之介は、しばらく考えた。
それから、口を開いた。
「港区で俺が持ってたものは全部、金で買えるものだった。ここにあるものは……買えない大切なものと気づいたから」
言った後で、自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
恥ずかしさが、一気にこみ上げてきた。
「い、今のナシで」
「え?」
「今の発言、ナシ。ノーカン」
「リュウ、なんで?」
「投資効率の問題だから。まだこっちの方がROI高いから! 帰ったら年商十二億取り戻せるけど、こっちのROIの方がたぶん——」
「リュウ、それ全然違う話してるよ」
「うるさいパルム」
パルムは、肩の上で笑い声を上げた。鈴のような音だった。
二つの月が、レンドールの空でゆっくり重なっていく。
北の方角で、誰かが、待つのをやめる時間。
隆之介は、空を見上げ続けた。
帰っても、もう、取り返せないものがある。
ここにいる方が、たぶん、未来がある。
戦闘力は3のまま。所持金はマイナス十六万G。武器は口だけだ。
でもそれでいい。
◇ ◇ ◇
その頃、レンドールから遠く離れた、別の都市の商業地区。
活気ある通りの隅で、フードを目深に被った人物が、旅商人の話を聞いていた。
「レンドールの商業祭? ええ、大盛況だったそうですよ。仕掛けたのは変な男だったらしくて、戦闘力3のくせにビジネスだけで街を動かしたとか」
「……そう」
「ご存じないんですか? 最近、どこの街でも噂ですよ。なんでも、その男、帰る機会があったのに、レンドールに残ったとか」
「……残ったの」
「ええ。物好きですよね」
フードの下で、何かが、わずかに動いた。
笑ったのか、泣いたのか、商人にはわからなかった。
「……変わったのね」
小さな声だった。
商人は、聞き返さなかった。
フードの下、その手には、一通の便箋が握られていた。
几帳面な筆跡で、「不明」と差出人欄に書かれた封筒。それと、同じ筆跡の、書きかけの新しい便箋。
その人物は、書きかけの便箋を、ゆっくりと、火に近づけた。
炎が、便箋の端を舐めた。
便箋は、灰になり、夜風に消えた。
商人が振り返った時には、もう、フードの人物は、人混みに消えていた。
第3章「港区おぢ、答えに出会う」——準備中。




