表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

南国跳び豚 湖水ワイン煮込み

「……ファル。風邪防ぎに効く魔法薬は?」

 低い声に促され、ファルは目を閉じる。

「これは試験だ」

 ハーブの香りが混じり合う、薄暗い室内。

 ぱちりとはぜる炎の音に、壁に刻まれた古代の文様。

 遠くに聞こえる、薄気味悪い鳥の声。

「ファル。さあ一回で当ててみなさい」

 ささやくようなその声がファルをなでた。

「……ファル」


 低い声を出すのは、わざとである。

 しわがれたような咳払いをしてみせるのも、多分わざとだ。

 

「お……おい、ファル、早くしろって。早くしねえと客が来る」

 その証拠にファルが動きを止めると、あっと言う間に化けの皮が剥がれてしまうのだから。

「夕暮れの雨が降るまでもう時間がねえんだって。急げ。ほんとに」

「……細かく刻んだ豚の脂に赤身肉の細切れ。ローズマリーと、胡椒、生姜も山盛り」

 仕方なくファルが呟けば、安堵のため息が響く。

「なんだよ。分かってるじゃねえか……ローズマリーを朝露にくぐらせておいたか?」

「3度ほど」

 黒石の刃で切り刻んだ豚の赤身に塩を揉み込み、ハーブをまぶす。いくつかのハーブの中でも、濡れたローズマリーは特別爽やかな香りがする。

 分厚い鉄の鍋に豚の脂を落とせば、あっという間にそれは黄金色の液体となった。十分熱せられたところ赤身肉を加えると、真っ白い煙がファルの顔を撫でる。その香りをファルは胸いっぱい吸い込んだ。

 豚の脂は熱を帯びると不思議と甘く香る。

「忘れちゃいけないのが湖水地方のワインだ。渋いから料理によくあう」

「うる……入れるところです」

 うるさいな、とうっかり漏れかけた言葉を飲み込んで、ファルは重い瓶に手を伸ばした。

 黒の瓶に詰まっているのは、渋くて濃厚なワイン。

 それを木のカップに2杯分。そっと注ぎ入れると鍋の上に炎の筋が走り、ワインの湯気がファルの顔を撫でる。ワインの湯気を浴びたファルは、激しく咳き込んだ。

「ファル。最後に塩をひと振りだ。振りすぎるんじゃない」

 案じる言葉一つかけてくれない男のことを、ファルは咳き込みながら睨みつけた。

「あのですね」

「ファル、返事は」  

「はい……」

 偉そうに。と言い掛けたファルは渋々その言葉を飲み込む。

「はい、のあとは?」

「はぁい……先生」

 空は抜けるように青く、豚肉の煮込む甘い香りだけが湯気とともに空へとゆっくりと流れていくようだった。



 煮込み時間は一番大きな砂時計の砂が落ちるまで。

 そこまで煮詰めるとワインの尖った香りは消え、赤い色だけが豚肉に移る。 

 水で洗った柘榴石のような輝きになるまで、火は止めない。

 表面が艶やかになれば、それが完成の合図だった。

「ねえ先生。これって魔法薬じゃなく、ただの料理じゃないですか」

 ファルは大きなスプーンで豚煮込みを壺へと移していく。

 ハーブと生姜と豚肉の脂の香り。甘く香ばしく……何とも言えない、魅惑の香りだ。南の山岳地方では祝いの席でこれが出されると聞いたことがある。

 山岳地方の祝賀は冬に集中しており、風邪が流行るのでこういう料理を予防的に食べるのだ。

 肉の香りと色合いに、思わずファルの腹が鳴る。

 こらえるように息を止め、できるだけ凝視しないように気をつけて、ファルは肉を壺に移し終わった。

「うちでも風邪をひいたらよく作ってましたよ。うちは鳥肉を脂とベリーで煮込むんですけど」 

 ファルの家に長らく仕えるメイドのアッセイは、チキン煮込みのプロだ。その味を思い出し、ファルは思わず喉を鳴らした。

 もう、半年もあの味を食べていないなんて!

「さあな。でも人はこれを魔法薬って呼ぶ」

 ファルの心の動きに気づきもしない顔で、男は人差し指と親指で円を作ってみせた。

「それに、その方が金になる」

「……あなた、本当は魔法使いじゃないのでは? キアン先生」

「ああ。駄目だ。腹の奥がムカムカする」

 ファルが疑いの目を向ければ、先生……キアンは、水瓶に飛びついて浴びるように水を飲んだ。そして真っ青な顔で振り返った。

「おい不肖の弟子よ。毒消しの魔法薬を教えたろ、あれ作ってこい。水とレモンと塩混ぜたやつ。お前でももう作れる」

「二日酔いの朝に飲むやつでしょ。そんなの新人メイドだって作れますよ」

「だから大魔法使いが作るそれはさあ、民間療法じゃなくって……あ、だめだ。ほんとに気持ち悪……早く、おい、ファル。早く魔法薬」

 キアン……それが本名かどうか、ファルは知らない。

 見た目では40代ほどの男の姿。

 櫛で梳いても収まりのつかない巻き髪は、本棚の隙間にある埃の塊にそっくりだ。

 顔はさほど悪くはないのだろうが、いかんせんだらしがない。

 せっかく美しい青の瞳も、いつも酔っ払っているせいで締まりがない。

 大きなローブに包まれた体躯は良く手足も長いというのに、猫背のせいで台無しだ。

 この男は村外れの小高い丘の奥。眠らじの木々の一角で、魔法使いとして生計を立てている。眠らじの森と名前がついたその理由は、夜でも空が白いためである。

 雨が降っても雪になっても、夏でも冬でも空はかき混ぜたミルクのように白く、大きな月は沈まない。

(確かにここの風景は魔法使いっぽいけどね)

 ファルは小窓から外を眺めて、ため息を漏らした。

 古い木で組まれたこの小屋にあるのは、火の消えない竈と、川の水をたちまち浄化する大きな水瓶。壁からぶら下がるのは数え切れないハーブの束。その下にはパンを焼くレンガ造りの小さな焼き窯。

 これでは町のレストランと同じ風景だ。

「魔法使いって希少なんですよ。もう世界には何人も残ってないっていう。どんな立派な魔法使いが出てくるかと期待していたのに」

 ファルは水とレモンを乱雑に混ぜながら、口を尖らせる。

「作るものといえば料理ばかり。弟子になって半年、光を灯す魔法さえ教えてくれない。というか使ったところも見たことがない。魔法書もあるけど読めないし……」

 壁に作られた本棚には、古代語で描かれた革の本が並んでいた。

 それはたしかに本物の魔法書だ。魔法書は、魔法使いが監視しておかないと、文字が本の中であちこち遊びにでかけてしまう。

「先生が文字を見張っておかないから、文字が別のページに逃げたり喧嘩して別れ別れになったりで、全く読めないじゃないですか……せっかく古代語、少し覚えたのに」

 ぶつぶつと、ファルは文句を漏らしながらレモンをさらに追加で加える。つん、と鼻に抜けるくらいの出来上がり。

 ここで学んだことといえば、二日酔いの妙薬をいかに素早く作るか。それだけだ。

「……魔法書の管理は雑、魔法薬も雑」

 魔法の師たるキアンといえば藁のソファーに沈み込み、先程からぴくりとも動かない。

 昨夜から明け方にかけて彼が一人で10本近いワインを消費したことを、ファルは知っている。

「しかも弟子が止めても深酒をやめない。僕はもう2度注意しましたからね」

 3度注意しても止めなければ、もう二度と注意しない。ファルは師に対して、そういう態度で挑むことに決めている。

「大魔法使いが聞いて呆れますね。二日酔いするほど飲みますか?」

「俺は昔っから湖水の酒は合わねえんだ。あれを飲むと昔から、こう……」

 塩とレモンと水の混ぜもの。それを渡せば、彼はすがるように飲み干した。

 レモンの量の多さに驚いて彼の眉が上下に揺れる。それを見て、ファルは溜飲を下げる。

「お前、レモン」

「ひどい二日酔いのようですから」

  口の端からこぼれていくその液体が、彼の体にふれると音を立てて蒸発した。

「別に俺のせいじゃない。飲んだワインが悪かったんだ」

「うちから届けてもらったワインです。高級品ですよ」

「おまえの所からくるワインは、本物だから余計たちが悪いんだ。混ぜもんワインなら、こうはならない……こうなったのは100年ぶりだ」

 垂れ目の瞳が、ファルをみる。瞳孔が蛇のように細くなり、猫のように丸くなり、横になり、縦になる。

「いや、150年ぶりだったかな」

 ファルはキアンからそっと目を離した。

 ……キアンが魔法使いであるかどうかは、分からない。

 ただ、人間ではない。

 それだけは真実である。 



「魔法使いじゃないなら、僕にもう妙な声を出して先生ぶらないでください。僕は魔法使いに魔法を学びに来てるんです。定食屋の親父に料理を学びに来てるわけじゃない」

 壺に油脂紙を巻き付けて紐で縛りながら、ファルは冷たく言う。外を見れば、真っ白な空に赤い色が滲んでいる。

 ここ、眠らじの森はいつでもどの時刻でも空は真っ白に染まって眩しいほどだ。ただ夕暮れになると赤い夕日が滲み、やがて雨が降る。

 ……それからゆっくりと空気が冷えて、真っ白な夜になる。

 ここに暮らし始めて半年。ようやくこの光に慣れてきたファルは、白い光を浴びて育つ木々を見上げる。

 故郷にあるオークに似ているが、生る実はそれとは異なる。淡い桃色の、柔らかく甘い実が実るのだ。

 不死に近い寿命を持つ男に、不思議な木、暮れない空。ここには不思議なものが詰まっている……魔法以外は。

「いい加減、魔法を教えてください」

「俺はずっと自分のこと、定食屋の親父だと、そういってるんだがな」

 キアンは頭を掻き、だらしなく欠伸を漏らす。と、その声に高い声が混じった。

「はあい、定食屋の間法使いさん」

「……ほらな」

 窓を開けて森を見つめると、ほろりと降り出した雨の向こう、一人の影が揺れている。

 それは大きく胸の開いた服をまとう一人の女なのだ。

「コマドリちゃん。良い日暮れね……といっても、ここはいつも明るいけど」

「こんにちは」

 雨に濡れることなど気にもせず、女は玄関をくぐりファルに笑顔を向ける。

 傘もささず泥道を歩く女など、ファルはこれまで見たこともなかった。

 女というものは、晴れでも雨でも傘を持つ。そもそも雨が降れば地面に降り立つことなどしない。それが淑女だ。そう学んできた。

 目を白黒させるファルに、女は妖艶な笑みを見せる。

「今日もコマドリちゃんは良い声ねえ。少年合唱団の募集してるから参加してみたら? 一番になれるわよ。ねえいくつになったっけ?」

「……じゅ……12」

「残念。じゃあ4年後、あたしがまだ仕事を辞めてなけりゃ、最初の相手になってあげる……タダってわけにはいかないけど、格安でね」

「こいつは無理だよ、10年経ってもさあ……はい。マリア。今日も綺麗だね」

「はあい。アイラ用の風邪塞ぎの魔法薬できてる?」

 女は……マリアはキアンに抱きつき、その頬にキスをする。キアンは鼻の下を伸ばしたまま、ファルが詰めた壺を差し出した。

「しっかり食いなとアイラに伝えてくれ。少しの酒はいいが、冷えたのはだめだ。足を温めてな」

「……アイラが喜ぶ」

 マリアは少しだけ憂いた笑みを浮かべると、挨拶もそこそこに再び玄関から飛び出していく。

 背が丸くなっているのは、雨から壺を守っているせいだろう。その背はやがて、白い霧の中に消えていった。

「何で僕、あの人にコマドリって呼ばれてるんです」

「さあな。俺が魔法使いって呼ばれているのと同じくらいの謎だよ」

「それに……先生。あれ、あの人……町の……花売りですよ」

 安っぽい残り香をかいで、ファルは呟く。

「……花売り館の花売り娘でしょう?」

 花売り館。と大きな看板がかかるその建物は、その名前に反して監獄のように頑丈だ。檻のような鉄柵が付いた入り口には、腰の曲がった老婆が座っている。

 客の男が金を差し出せば、老婆がしおれた花を男の胸に刺す。それがその門の通過料。

 真っ赤な入り口の向こうには、薄着の娘が待っている。

 そんな娘のことを、町の人間は花売り娘。と呼ぶのだ。子供は近づいてはいけない。大人たちは、そういって子供たちをそこから遠ざける。

 しかし、子供たちだってそこで何が行われているかくらい知っている。

「だからどうした。誰だって生まれたからには生きる権利があるんだ」

 しかしキアンは呆れるようにファルを見つめた。

「もちろん、お前もだ。ファル、飯を食べなさい」

 瞳孔の大きさを自在にかえるその目に見つめられ、ファルは意味もわからず赤面した。

 何か自分がとんでもないことを言ってしまったようだ。気まずく椅子に腰を下ろせば、テーブルにはすでに乾燥肉とパン、大豆のスープが並んでいる。

「……いただきます」

 乾燥肉は羊の肉。割いて、甘い大豆のスープに浸せばほろりと崩れる。それをパンにつけて食べる……こんな食べ物を知ったのも、この半年のことだった。

(大豆のスープは体を……成長させる)

 口の中いっぱいに広がるとろりとした旨さに抗うように、一口、二口、三口。そこで止める。

 スプーンを止めるのは日々、厳しくなっていた。意識がどうしても食べ物へと惹きつけられる。

(……だめだ)

 肉への欲、温かいスープへの渇望。欲求をファルは飲み込んで、パンの耳にかぶりつく。

 表面の灰が付いた硬い耳の辺り。噛みしめると、腹の虫も少し収まる、そんな気がする。

「ファル。仮にも貴族のご子息様だろう。耳じゃなく、柔らかいところを食えよ。まるで俺が食わせてないみたいだろう。それにスープも肉ももっと食え。でかくなんねえぞ」

 どんどんと皿の上に盛られるパンは白くてふわふわ。スープはさらに煮込まれ、香りが甘い。どれも魅力的で、腹の虫がうるさいほどだ。しかしファルはそれに、耐えた。

「もう、お腹いっぱいです」

 12歳にしては細すぎる腕を見つめ、ファルは首を振る。

「僕は、これで」

 これ以上大きくなってはいけない。

 母の青白い顔を思い出し、ファルは硬いパンの耳を飲み込んだ。

 


(今日も結局何も学べなかった)

 部屋に戻り、ファルはため息をつく。

 窓の向こうはいつもと同じ、白い空。一日中変わらない空の風景にもようやく慣れてきた。

 窓を閉めれば夜になり、窓を開ければ朝になる。そんな単純なことに気がついてからは、一度も不眠に陥っていない。

(……夜の月が恋しいよ)

 藁でできたベッドの隅に腰を下ろすと、腹がぐうと鳴り響いた。

 ぐっとこらえ、木のカップをつかむ。中に入っているのはレモンと塩を混ぜた、二日酔いの妙薬だ。

 素面で飲めば、これほどまずいものはない……と、キアンは言うが、味がついているだけで少しは空腹が紛らわせる。

 ファルは炎の揺れるろうそくを机において、部屋を見渡した。

 小屋の二階にあるこの部屋は、元々は物置のための屋根裏部屋だったのだろう。 

 藁のベッドに木の机、石壁を利用した小さな棚。低い天井、そして飾りみたいな窓だけがついている。

 数ヶ月前まで暮らしていた、自分の部屋と比べればまるで犬小屋だ。ファルの家では、使用人にだってこんな粗末は部屋は与えていない。

(ベッドは大きくて天蓋もあったし、机は大理石だった。椅子だってもっとビロードのいい材質で座っていても疲れない……)

 堅い木の椅子に腰を落とし、ファルはため息をつく。

(でも、狭くなっても、こっちのほうが気楽だけど)

 カラスの羽根で作った筆に、獣の血と黒の実をすりつぶしたインク。巻いた紙は木の皮を細かく砕いて、広く伸ばしたもの。

 ファルは息を吸い込んで筆を握ると、紙に向かい合った。

「お母様……」

 書く内容は、いつも同じ。だから目を閉じていたって、するする書ける。

(……お母様。今日は先生にひとつ、魔法薬を学びました……いくつかお送りします)

 少しだけ空間が余ってしまったので、ファルは追加で一文、書き足した。

(もう少しでお母様の願いも叶います)

 インクが乾くのを待ち、くるりと紙を丸める。

 そしてポケットにしのばせた小さな瓶に手紙を巻き付け窓を開ければ、待ちかねていたように鳩が一羽窓辺に降り立った。

 その細い首についた小さな籐籠に、瓶と手紙をしっかりくくりつける。

「今日は軽いからね。いつもありがとう」

 隠し持っておいた豆を一粒鳩に与えれば、彼はうれしそうに一声鳴いて大きな羽根を広げた。とん、と窓辺を蹴ると同時にもうその姿は森の向こうへと消えていく。

「……おっと」

 ぼうっと鳩を見送っていたファルは、天井に頭をぶつけ、慌てて前のめりとなった。

 この部屋は天井が低いのだ。それでもこれまで頭をぶつけることなんてなかったというのに。

「また背が伸びてる」

 悔しく唇をかみしめる。前のめりになった瞬間、腕に胸がぶつかり、その柔らかさにファルは目を見張る。

 ベッドに腰掛け、恐る恐るシャツの前を開けば、以前より少しだけふっくら膨らんだ胸元が目に飛び込んだ。

 胸元を縛っておいた布が、緩んでいるのだ。布を取り払うと、地面に映る影が変化した。

 少しだけ、柔らかく……膨らみを帯びた体へ。

(……まだ平気だ……胸はそれほど張り出してない……マリアほどは)

 マリアの体を思い出しながらファルはため息をつく。

 眠って、起きる。ただこれだけなのに体は無慈悲にも成長しようとしていた。

「あ、あーあ……ああ」

 声を出せば、少し、高い。前よりももう少し高音になった、そんな気がする。

 可愛い声ね。とささやいたマリアの言葉を思い出しファルは首を振った。

(そうか……隠すのは……胸だけじゃない。声もだ。男子はそろそろ低くなるんだな。いつまでも高いままじゃ、おかしい。せめて低い声を出せる魔法を、なんとか)

 ファルは拳を握りしめる。その耳の奥、母の悲鳴のような声がよみがえった。


 ファル。あなたは男の子にならなくっちゃ……。


 それはずっとずっと幼い頃の話。

 ファルの家はいわゆる貴族の末端だ。貴族の子は5歳を迎えると国王陛下へのお披露目となる……将来の貴族の一員として。

 女の子は目にも眩しいドレスと扇。

 男の子は、飾りのついたズボンと細い飾り剣。

 お披露目会の前日、ファルの前に運ばれてきたのは、男の子用の正装だった。

 飾りのついたズボン、大きなボタンのシャツ。

 髪は切られ、大きな靴を履かされた。手に持った細剣は飾り剣の癖にずん、と重い。

 幼い頃から、ファルはメイドにも執事にもお坊ちゃまと呼ばれて育った。母に問えば、彼女は悲しそうに首を振るので、その理由を聞くことはできなかった。

 しかし今になれば、うっすら分かる。貴族の跡を継げるのは男だけ。跡継ぎのいない家は潰れて財産は奪われる羽目になる。

 ……そしてファルは両親唯一の子供である。

 女の子であることを知るのは、母と乳母とファルのみとなった。

 しかしそんな秘密も重荷となっていく。とうに見破られているのではないか。馬鹿な子供だとあざ笑われているのではないか。

 だからズボンを渡されたとき、ファルはひどく安堵したのだ。

(僕は男の子だったんだ……って、その時、安心したのにな。きっと誰かが魔法を使って、僕を男の子にしてくれたんだって……)

 藁のベッドにゆっくり沈み込みながら、ファルは煤の付いた天井を見上げる。

(お母様が、あんなに必死になるなんて)

 誰よりも美しい母はお披露目会の後、ファルを抱きしめ泣いたのだ。あなたを早く、男の子にしなくっちゃ。

 その時はじめて、ファルは自分がまだ女の子であると気づいたのだ。

 正装は偽りだ。メイドも父も執事も、さらに国王一家や貴族の仲間も。国中全員を、ファルはだました。

 乳母は亡くなり、この秘密はファルと母だけのものとなった。

 それから7年。12歳の誕生日を迎える数ヶ月前、母はファルを呼び出しこう言った。

(……大魔法使いに魔法薬を習ってきなさい。男の子になれる薬を……)

 母の願いのもと、ファルはこんなくだらない魔法使いの家で、ただ毎日料理ばかり作っている。

(……早く、男になる薬を)

 母の意に反し、魔法を一つも教えてくれないキアンは、今頃屋敷の真ん中で高いびきだ。苛立ちを飲み込んで、ファルはベッドに沈み込む。

(早く薬の調合を盗み出して、こんなところ、おさらばしてやる)

 何百回目か分からない誓いをファルは呟く。

 そして実家では嗅いだこともない、獣脂の蝋の香りに包まれてゆっくりと眠りに落ちる。

 ……もう何度も繰り返される、不承不承の夜である。



 翌朝、やはり森は白いまま一日がはじまった。

 一日の始まりは、鳥による郵送物の配達だ。

 眠らじの森とはいえ、夜中は鳥も眠っているらしい。早朝になると一気に手紙の類が届く。

 立派な紙にくるまれた一通の手紙に目を走らしたキアンが、心底面倒くさそうな顔で机に伏せる。

「ああ、くっそ。面倒な仕事がきた」

「口が悪くなってます、先生」

 椅子に腰掛け、ファルは魔法書を開く。それを覗き込みながらわざと低い声を出せば、キアンが不審そうに首を傾げた。

「なんだお前その声、風邪か?」

「別に……前からこんなだったでしょう」

「声が枯れるぞ。変な出し方をするな。それに魔法書もやめとけ。目が悪くなる」

 魔法書は、まだまだ文字の移動が激しい。

 それでも毎日開いているうちに、文字はファルを持ち主だと理解したのだろう。睨んでいると文字がゆっくり、もとの場所に戻ろうとしている。この本を読み解けば、性別を変える薬くらい出てくるに違いない。

「先生が教えてくれないので自主勉強です」

「やめとけやめとけ。頭でっかちになっちまう」

 キアンは面倒くさそうにそういうと、あっさりとファルの手から本を奪う。ファルが地団駄を踏んでも、この自称魔法使いは心など無いように本を高い棚にしまい込む。

「読むくらいいいでしょ」

「だめだ。今から忙しくなる。読書はこれでおしまいだ」

 キアンはそう言いながらファルに先程の紙を手渡した。

 手触りが良い……羽根を織り込んだ紙だ。貴族が好んで使う紙である。

 名前を見ても見覚えがない。当然だ。貴族が魔法使いに依頼をかける時、彼らはいつも偽名を使う。

「……病の……薬」

 綺麗なインクで書かれているのは、厄介な病の名前だった。罹ればまず、助からない。原因もわからない。なぜなら、魔法由来の病だからだ。つまり、魔法薬でしか治せない。

 添えられた金額の提示にファルは目を丸くする。その金額は、執事の1年分の給金と同じ額だった。

「え、これって……こんな値段を出すってことは、本当の魔法薬じゃないですか」

「これまでのだって、魔法薬だって言ってるだろ」

 キアンは面倒くさそうに水瓶から水を汲み上げ、音をたてて啜り飲む。

「とにかく面倒なんだよ。煮込んだり濾したり潰したり」

「先生、作ったこと、あるんですか?」

「こいつの親父も同じ病気にかかってな。そのときに作ってやった。この病気は呪いみたいなもんだ。親子二代で罹るなんざ、ろくな一族じゃねえぞ……でもなあ」

 キアンの垂れ目に見つめられ、ファルは身を縮める。体の線を見破られるようでなんとも居心地が悪い。

 しかしキアンは気にせず手を伸ばし、ファルの服を指でなぞった。

「冬が来るだろう。人の子は寒いのがだめじゃなかったか。冬を越すコートに、ブーツも買わねえと」

「じ……自分の服くらい自分でなんとかします」

「でもここに来ていることは、家の人間には秘密だと、そう言ってただろう」

 キアンの言葉に、ファルは息を飲んだ。

 ……キアンのもとに弟子入りした時、さり気なくつぶやいたその一言を、彼は覚えていたらしい。

 何も聞いていない顔をしていたくせに。とファルは彼を軽く睨む。

「魔法薬を作るんですか? 作るんですよね」

「そうだ。それで俺はしばらく手を離せん。だからお使いを頼まれてくれ」

 思わず飛び上がったファルだが、その気の高ぶりはキアンによって防がれた。

 彼はファルに大きな壺を持たせる。つん、と香るのはローズマリーと豚肉の甘い香りだ。朝露で洗ったローズマリーは普通に洗うより、爽やかな香りがする。

「アイラ用の風邪塞ぎの妙薬だ。今日はマリアがここまで来られねえからな、お届けだよ。花売り館の奥の部屋にいる。入り口にはマリアがいるから案内をたのめ。くれぐれも、他の部屋を覗くんじゃねえぞ、お前にはまだ早い」

「僕も魔法薬を」

「それもまだ早い。弟子の仕事はお使いだろう」

 背を押され、ファルは抵抗するが虚しく扉の向こうに押し出される。

 転がりそうになるのを必死にとどまり、振り返ると木の重い扉が閉まるところである。

「仕事をしろ、不肖の弟子」

 憎々しい師の声を聞いて、ファルは鼻を鳴らした。どんなに文句を言っても、この扉は開かない。

 ならば出来ることは一つだけ。

 大急ぎで仕事を終わらせるのだ。

(……早く戻れば少しは見られるはずだ)

 久しぶりに浮き立った気持ちで、ファルは思い切り眠らじの森を駆け抜けた。



 ……が、気分が盛り上がったのは一瞬だけである。

「ファル、お前、魔法使いに弟子入りしたって聞いたぜ」

 町に足を踏み入れた途端、嫌な声が聞こえてファルは顔を歪ませた。

 急いで町まで駆けてきたつもりだったが、道を間違えたせいで時刻は昼を回ってしまった……この時刻は、学校が終わる時間なのである。

「ちびの癖に」

「家から勘当されたんだって?」

 誰も直接殴りかかってはこない。ただ声だけだ。

 顔を上げれば、少し離れた場所に、仕立てのいい服を来た少年たちがファルを見つめていた。

 数ヶ月会わないだけで、声は低く、体格も変わっている……男の子は、あっという間に成長するのだ。それを目の当たりにしてファルは唇を噛み締めた。

(……気にしない、気にしない。僕だって、薬さえ手に入ればあいつらより、ずっと大きくなる)

 森を抜け、坂を下る。大きな教会の角を曲がって門を抜ければ……そこが町だ。キルルーズという小さな町である。

 魔法使いが住む場所には町ができ、国ができる……というのはこの国の古いことわざだが、その言葉の通り、魔法使いが現れると人が増え、その場所は町になる。

 キアンは数年前に眠らじの森に住み着くようになったらしい。

 それまでこのキルルーズは、森と谷に囲まれた牧歌的かつ不便な村だった。それがキアンのせいで、兵舎ができ、商店が生まれ、花売り館や学校までできた。

 少年たちは昔はもっと中央に近い地域で暮らしていた、いわゆる貴族のご子息様だ。

 町ができたおかげでこんな辺鄙な場所に飛ばされた。その憎らしさもあるのだろう。

「本当はこんな町に暮らさなくていいもんな、お前の家は湖のど真ん中。国王様のお膝元だ。なのにお前だけここにいる。なぜかわかるか?」

 にやにやと、低い声で少年たちはファルにささやく。

 ファルがいくら内緒にしていたところで、噂はあっという間に広がった。

 森に住む、貧相な少年は貴族の息子らしい。魔法使いの弟子になったらしい……。

 ファルが半年前まで通っていた学校の生徒がこの町に越してきたせいで、ファルの身分は洗いざらいバレてしまった。

 睨みつけたところで、彼らにとって針の先ほども痛くないだろう。だから、ファルはぐっと怒りを飲み込んでまっすぐ前だけを見つめる。


「魔法使いの家に捨てられたんだよ」

「花売り娘相手に商売してる、魔法使いの端くれに拾われたんだ」


「あの人は……端くれなんかじゃない」

 ファルは足を止めないまま、口の中で呟く。

(確かにろくでもないし、言う事聞かないし、魔法も使ってくれない。でも、あの人は端くれなんかじゃない端くれだったら町なんて出来ないし、人にだって頼られない。それに)

 ひゅっと吹き込んだ風に、ファルは震える。

 そろそろ季節が移り変わる。薄い麻のシャツでは体が冷える。ファルより先にそれに気づいたのは、キアンだ。

(……あの人はこいつらより、ずっとまともだ)

 漏れかけた言葉を飲み込んで、ファルは苛立ちを抑えて石畳を蹴る。

 そんなファルの動きを逃亡とみたのか、誰かが茶化すような声を上げた。まっすぐに突き刺さる痛みにファルは唇を噛みしめる。

(性別を変える魔法薬。それだけ手に入れたら、すぐにでもこんな町、出ていってやるのに)

「コマドリちゃん、こっちよ」

「マリア」

 花売り館と描かれた入り口の下、見慣れた姿を見てファルはほっと息を吐く。

 名前を呼んで駆ける……そのファルの真横を、小さな石が素早く飛んだ。

「やあい、花売り娘が外に出てやがる」

 パラパラと音を立て、白い石がマリアに降り注ぐ。それを見て、ファルは血の気が引く。

「やめろ!」

 振り返れば、少年たちが再び石を投げかけた。思わずマリアの前に立ちふさがれば、一粒がファルの顔を殴打する。

 それを見て、彼らはしまった。という顔でイタチのように逃げ出した。


「あたしは、石なんて平気なのよ……ああきれいな顔に、傷が」

 マリアは化粧の濃い顔を歪ませて、腰を低くする。その白い指がファルの頬を拭った。

「大丈夫だから……平気です」

「どうしたの、その低い声。風邪でもひいちゃった?」

 薄く血が滲んでいたのか、触れられた頬に電撃のような痛みが走る。

「かわいいコマドリちゃんの声を聞かせて?」

「……なんでコマドリって」

「女の子みたいに声が高くて森の入り口にはいると、もう君の声が聞こえるんですって」

 マリアの後ろから柔らかい声が聞こえ、ファルは動きを止める。眉を上げ、そちらを睨む。

「僕は男で……」

「……そうしたらみんな安心するのよ」

 マリアの後ろ。花売り館の扉から姿を見せたのは、まるで少女のように細い一人の女。

 赤い髪に、緑の瞳。折れそうな腕。

 体にあっていないワンピースをたくし上げ、彼女はゆっくりファルに頭を下げる。

「君の声が聞こえると、みんな安心するの……魔法使いは森にいるって。だから無理に低い声なんて出しちゃだめ」

「……アイラ。だめよ、立ったりしちゃ」

 腕も顔も恐ろしいほどに、青白い。風に吹かれてよろめくその体をマリアが支えた。

「はじめまして。ファル。私達のかわいいコマドリ」

 そう言って微笑む彼女の顔には、深い死相が見えた。

 


「私の生まれは遠い南の山岳地方でね、森はなく、魔法使いは岩場の影にいたの。雨を降らせてくれるのも、いなくなった豚を探すのもお手の物」

 たくさんのハーブぶら下がる、薄暗い部屋がアイラにあてがわれた病室だった。

 ベッドは硬く湿度も低い。枕元に置かれた器の水はほとんど空っぽだ。

 ハーブはマリアが運んできたのだろう。マリアの巻き毛を飾っているリボンが、ハーブの根本に結わえ付けられている。

「……ファル。ねえ知ってる? 南の豚は色が黒くて、背中が盛り上がってるの。昔は空を飛んだそうで、その名残なんですって。だからこっちのお肉よりずっと噛みごたえがあってね」

 時々むせながらアイラは語る。目がぼんやりと宙を追うのは、痛みを取るきつい薬を使っているせいだ……と、マリアは言った。

 もう食をほとんど受け付けないのだ。ふるさとの豚煮込みだけ、不思議と一口、二口だけ飲み込める。

「……僕は北方の、湖水の生まれです。湖水には大きな鴨がいます。水が綺麗で」

 彼女のベッドの横に座り込んだまま、ファルは呟く。

 部屋は暗い。いや、外が暗い。もう夜だ。眠らじの森にいる間は昼も夜も変わりがないが、町は朝に日が昇り、夜には日が沈む。その時の流れに、アイラの命が削り落とされている。

「白鳥もいるんです。豚は少ないけど、僕の地方は鶏肉をよく食べます。あと、果物も。水に浮かぶ草も名物なんです」

 たどたどしく語るファルの言葉に、アイラはにこりと笑みをこぼす。

 その目の端からほろほろとこぼれる涙の雫は、悲しみではなく生理的なものだ。

 熱があがると涙が溢れる。一滴一滴と散る涙の雫はまるで朝露のようだった。

 アイラのために作る”魔法薬”は朝露に浸したローズマリーを使うのだ。眠らじの森で見る朝露より、アイラの涙はもっと美しい。

(何を世間話してるんだ。僕は早く、早く戻って先生が魔法薬を作るのを見て……) 

 その眠らじの森ではキアンが今頃、くだらない貴族のために魔法薬を作っているだろう。そう思うと、ファルの心が乱れた。

 弟子になって半年。はじめて、本物の魔法薬を作るのだ。早く戻って、過程を見たい。道具も、動きも……少しの時間も無駄にしたくはない……しかし。

(豚の煮込みはもう渡したじゃないか。仕事は終わりだ。なのに)

 ファルは、ここから動けない。

「白鳥の羽根は飾りにも布団にも使われます。大きな羽根で、昔は海の向こうから来たそうです。あったかくて、それで……」

「世界って広いわね。私ね、あの山を出たら、きっと世界全てを見られるのだって、そう思ってた」

 アイラの目がまた遠くを見つめる。

 そしてファルの手にそっと指を這わす。枕元にあるのはまだ温かい壺。中にはとろりととろける、豚の煮込み。

「もう二度と山に戻りたくなかったのに。今になって、故郷の味を食べたくなってる」

「……食べれば治りますよ。だってこれは、魔法薬だから」

 ファルがそう囁くと、彼女はまるで花がほころぶように微笑んだ。



(金持ちはすぐ薬を作って……助かるのに)

 アイラを見つめながら考えていたのは、キアンのもとに届いた魔法薬の依頼のことだ。

 高級な紙に高級なインク。そこには何でもない顔で、とんでもない金額が提示されていた。

 半年前のファルなら、その金額を見ても何も思わなかったはずだ。しかし最近は貨幣の価値を知った。

 少なくともアイラはマリアでは一生かけても稼げない金額の提示だった。

「……もう、夜だ」

 アイラの部屋を飛び出して外に出れば、想像通り夜の空が広がっている。

 ずっとみたいと願っていた月がぽかんと空に浮かんでいた。

 月明かりに照らされた石畳の道も、綺麗な建物群も、どれもこれも真新しい。

 しかしその奥に見える花売り館は、新しいくせにどこかどんよりと濁って見えた。

(……生まれたからには生きる権利がある)

 唐突にキアンの言葉がファルの中に浮かぶ。それは乾いたパンに染み込むように、ファルの心に染み渡っていく。

「ああ、もう、なんで、僕は」

 ファルは胸元の奥深くに隠してあったペンダントを引っ張り出した。

「早く、帰らないと……いけないのに」

  ペンダントの先についているのは、小さな巻き貝だ。花売り館から遠く離れて坂道を上がれば、いわゆる貴族の住宅別荘地となる。その細道に駆け込んで、ファルは巻き貝の先に口をつける。

 漏れたのは、空気が抜けるような甲高い音。

 それは湖水の上を渡る風。青と白の交ざる音。

 貴族も花売り娘も、国王さえもこの音は聞き取れない。

 ……聞き取れるのは唯一、湖水地方の貴族に古くから仕える一部の人間だけ。


「お坊ちゃま」


 笛を鳴らして息をほんの数回吸い込む程度。月の位置がほんの少しも変わらない間に、ファルの前に黒い影が落ちる。

「スカー。お前か」

 顔を上げてファルはため息をもらした。

 目の前に立っていたのは、真っ黒い執事服をなんなく着こなすスカーだ。

 まだ年は30歳ほどと聞いている。ずっと昔から、ファルの家に仕えている、古い、古い執事の血筋。

 その名前の由来は”影”。まさに影のように彼は動く。

 長い手足も細長い顔も印象が薄く、一度見れば忘れてしまう。しかし、気づけばそこにいる。

「ようやく笛を使って頂けましたね。心配しておりました」

 淡々と彼はささやくように言って、ファルを見つめる。

「お怪我を?」

「たいしたことない」

 断っても、彼は手早く洗浄液を取り出してファルの顔を拭う。彼は微笑んでファルの顔を覗き込む。

「魔法使いの弟子に入ったことでお坊っちゃまは男ぶりが上がられましたね。旦那様の声にそっくりで、まるで旦那様がここにいらっしゃるようです」

「……どうも。心にもない一言をありがとう」

 キアンはファルが「家族に内緒で魔法使いに弟子入りした」と思っている。ファルはそのつもりだった。母と自分だけの秘密のはずだった。

「きっとスカーが来ると思っていたよ」

 冷たい石壁に背を押し付けてファルはため息をつく。

 結局、この狐のような男に隠し事など到底無理なのだ。

 半年前、ファルが「全寮制の学校へ入る」と嘘を言って屋敷を出る朝、スカーはファルにペンダントを渡したのだ。

 それが湖水貝の笛。困ったときに鳴らせば、瞬時に誰かが駆けつけます……そう、彼はファルに囁いた。

 どの町にも貴族は必ず一つ、別荘を持つ。その中に、家のものを置いておく。だからどうぞ、安心して勉学に励んでください……笑わない目で微笑んで、彼はファルを見送ったのだ。

「誰かを付けてるとは思ってたけど、スカーだったとは」

「いえいえ、まさか。ずっとではございません。今日はスカーのいる時でようございました。奥様と旦那様に御用でしたら馬車を用意させますが?」

「いい、やめて……それより」

 姿勢を崩さないスカーを見上げ、ファルは声を潜めた。

 周囲は貴族街独特の、静かな空気に包まれている。温かい炎の気配、肉と魚の焼けるいい香り、誰かの奏でる美しい音楽。

 しん、と冷え込んだアイラの部屋とは大違いだ。

「スカー。一つ頼まれてほしいことがある……いや、二つ。できるだけ、大急ぎで」 

 体を折り曲げた執事に、ファルはそっと囁いた。



 ファルが森の小屋に駆け込んだのは、明け方間近のことだ。

「先生、魔法薬を作っていいですか」

 息を切らせて家に飛び込めば、音が森の中に響きわたる。まだ眠る鳥たちが寝ぼけて飛び去る音がファルの声に重なった。

「ファル! お前、今までどこに……」

 いつもは夜になると自室にこもっているはずのキアンが、なぜか台所の椅子に腰を下ろしている。彼はファルの顔を見て、珍しく安堵するような表情を見せた。

 すでに依頼の魔法薬は仕上げてしまったのだろう。悔しい気持ちもあるが、今は悔しがる時間も惜しい。

「ちょっと色々、必要なものをそろえてました。魔法薬を作るのに」

「だから、魔法薬はまだ早い……それにその声やめろ。喉を痛めるぞ」

「料理の薬の方です……声は無理なんてしてないですって」

 あたふたとするキアンにかまわず、ファルは窓辺に吊された乾燥ローズマリーを一束掴んだ。外に飛び出し、朝露に浸す。すると枯れたハーブが輝くような色に染まった。

 きっとアイラも病に倒れるまでは、朝露のような娘だったのだろう。そう思うと切なくなる。

「……アイラの故郷は、僕の家の領地でした」

 部屋に駆け戻り、ファルは荷をほどいた。

 ……中から出てきたのは、美しい肉の固まり。塩漬けにして、身が引き締まり、脂も赤身も白い光に照らされぬらりと輝く。

「ファル、こいつは」

「山岳で育つ、南の豚」

 黒々としたたくましい体と太い足。昔は羽根を持っていたという背中は大きく膨れ野生のままに育つ豚……アイラの故郷に育つ、跳び豚だ。

「いつもこの季節になると、あちこちの領地から名産品が届くんです。食べきれないから商人に売ったり、貯蔵庫に眠りっぱなしになるんですけど」

 ファルがスカーに頼んだのは、この肉の調達だ。湖水の町に戻るしかないかと覚悟を決めたが、湖水から来ている商人が偶然、塩漬け肉を持っていた。

 深夜にスカーがどんなやり方で肉を手に入れたのかは分からない。ただあの執事は、主人の願いを必ず守る。今日もまた、彼はファルの前に涼しい顔をして頼まれたものを持ってきた。

「急ぎます。すぐ、届けたいから」

 ファルはすぐさま肉を切り刻み、鍋を温め、湖水のワインにハーブを用意する。

 キアンを見上げると、彼は垂れた青い目で微笑んだ。ファルの頭を乱雑になでて、手をたたく。

「……よし、作るか」 

 その声にあわせて、ちょうど一番鶏が高らかに高い声を上げた。



 早朝の花売り館は、むっと湿気が強い。

 そっと館の奥に滑り込むと、そこは病んだ香りがする。

 空っぽの部屋をいくつも通り過ぎ、一番奥の部屋をのぞき込むとアイラが驚くような顔でファルをみた。

「コマドリ……」

 まだ熱いほどの壷を彼女に押し付ければ、戸惑うようにアイラがファルを見上げる。

「ごめんなさい。もう私、お金がなくって……」

「気にしないでください。これは魔法使いじゃない。僕が作ったものだから。それと、これ」

 続いてファルが取り出したのは白いストールだ。

 羽根で編み込まれ、アイラの体ならすっぽりと覆うほどの大きなもの。戸惑うアイラにかまわず無理矢理体に乗せると、彼女は戸惑うようにほほえんだ。

「あったかい」

「白鳥の羽根で作った、特産品です」

「……ありがとう。魔法薬に魔法のストール。病気なんて、すぐ治っちゃいそう」

 折れそうに細い指で壷を抱きしめ彼女は琥珀色の目でファルをみる。山岳地方の山は琥珀に輝いてみえるという。きっと、彼女の目と同じ色だ……ファルはなぜか、そう思った。

「あなたは立派な魔法使いになれる」

 アイラの指が、ファルの手を握りしめる。

「だって、こんなに私を喜ばせてくれるもの」

 そして彼女はファルの手のひらにキスをした。

「……さようなら。可愛いコマドリ」

「さよならじゃない。また来ます。気に入ったなら……肉は一杯あるんです。鍋いっぱいだって作れる」

 柔らかくほほえむアイラを見つめ、ファルはささやく。

 遠くから人の足音が聞こえた。客がはければ、館は点検の時間にはいる。居残る客がいないか、逃げる娘はいないか。

 マリアの言葉をおもいだし、ファルはアイラの体を一度だけ抱きしめた。

「次は一緒に食べましょう。森はここよりずっと明るくて、夜でもピクニックができるんです。夕方の、雨の時以外は……皆で、そう。マリアも一緒に」

 ええ、きっと、いつか。

 と、アイラは確かにそう頷いた。



 ……いつか、きっと。アイラはそう言って頷いたはずである。

「坊や、魔法使いの大先生にお礼を言って頂戴。もちろん、あなたにも」

 マリアが眠らじの森に現れたのは、アイラに煮込みを届けた翌日……雨の降る夕刻の頃。

 赤い夕日の残骸と雨の雫を踏みつけてマリアがファルの前に立った時、ファルはそれが良い知らせでないと気が付いた。

「アイラは今朝、笑顔で逝った」

 雨に濡れたマリアが口にしたのは、最悪の伝言である。

「すごく、すごく、美味しかったって。それだけ伝えてくれって」

 マリアは背も曲げず、震えもしない。小屋に足を踏み入れることなく、雨に濡れたまま、まっすぐに胸を張ってファルの前に立つ。

 その目を見上げ、ファルは呆然と呟いた。

「……アイラと約束したんです。一緒に食べようって」

「魔法使いはね、泣かないの。あたしの町の魔法使いも、一度も泣いたことがないわ」

 マリアに顔を拭われ、ファルは自分が初めて泣いていることに気がついた。これは雨の滴でも朝露でもない。自分自身の涙だ。

「……先生がちゃんとした薬を作っていれば」

「それは違うわ。どんな薬ももう効かないってアイラもわかってた……ここの魔法使いはそれでも、あの料理を魔法薬と言ってくれたの」

 魔法薬だと嬉しそうに言ったアイラの顔を思い出し、ファルは唇を噛みしめる。

「だからあれは、本当に魔法薬だったのよ……だからもう忘れましょ。私も、忘れるように努力する」

「マリア」

 彼女の指先についた小さな擦り傷をみて、ファルは唇を結んだ。マリアはきっと、嫌なことをすべて忘れて生きてきた。そうでなければ生きて来られなかったのだ。

「……僕はきっと忘れられない。それに石を投げられて平気な人間もいない」

 呟いたその一言に、マリアはほほえむ。そして彼女の大きな唇が、ファルの頬にそっと押し当てられた。

「コマドリちゃんも、もう立派な魔法使いね」

 その目には、確かに一粒の涙が光っていた。



「食事をするぞ。お前の作った魔法薬がたんまりある」

 涙を拭って小屋に戻ると、キアンは平気な顔をして台所に立っていた。

 100ほど考えていた言い訳の言葉と誤魔化しの言葉を飲み込んで、ファルはぎこちなくキアンの隣に立つ。

「ぼ……僕はパンの耳を」

 パン皿の上には、ファル用にパンの耳がたんまりと積まれていた。定期的に焼くパンの四方を刻んで、わざと乾かしておくのだ。

 乾燥したパンの耳は、少しかじるだけで腹がふくれる。

 そうすれば体の成長を防げるかもしれない。そんな馬鹿なことを考えたのは、確か数年前。

 いつものようにパンの耳を手に取ったファルを見て、キアンが目を細める。不満がある時、彼はいつも瞳孔の形を変える。猫のように瞳孔を細くしたまま、キアンはファルからパンの耳を取り上げた。

「待ってろ」

 目の前の鍋には、たっぷりと作った豚の煮込みがゆっくりと湯気を上げている。赤く、甘い香りのする、アイラのふるさとの味だ。

 キアンは大きな皿に、それをたっぷりとそそぎ込んだ。

 さらに彼はパンの耳を暖炉の火で炙る。焦げる直前までしっかりと焼かれたそれを、赤くとろける皿に添えた。

「せっかく食うんだ。飯は美味しく食べろよ……俺はワインだ」

 差し出されたその香りに、ファルはめまいを覚える。長く煮込まれたそれは、昨日のものよりさらにトトロと柔らかく、そして香りが強い。

 おそるおそるパンの耳を浸せば、とろりとした肉がからみつき輝く。

 かみしめると、パンの耳がサクサクと心地いい音をたてる。絡んだスープの味がじゅわりと口の中いっぱいに広がっていく……。

 悔しさに唇をかみしめたが、その唇の隙間から思わず本音がぽろりとこぼれた。

「……美味しい」

「だろ?」

 喉をならしたファルを見ながらキアンは大きなグラスにワインを注いだ。それは彼が敵と言ってはばからない、湖水地方の赤ワイン。

「明日またレモン水に頼ることになりますよ」

「平気さ……それ、見てみろ」

 だらしなく足を組んだままワインを飲み干し、キアンは顎で机の上を指し示す。

 机に置かれているのはあしらいも美しい瓶だ。まるで宝石のような飾りと、表面には馬の彫り物。

「先生、これ依頼の魔法薬ですよね」

 繊細な蓋を抜き鼻を近づけ……ファルは眉を寄せる。鼻についたのは、強い強いレモンの香りだ。

「先生、これ、酔い醒ましのレモン……の、魔法薬」

「金をたんまりもらったからな。たっぷり作っておいた。二日酔いし放題だ」

「先生……もしかして、本当の魔法薬、作らなかったんですか」

 渋い顔をしたファルを見て、キアンは意地悪そうに笑う。

「どうせ、あいつらに薬の良し悪しなんてわかりゃしない」

「まさか本当に魔法薬を作れないのでは?」

「……さあ、どうかな?」

 彼はもう一つのグラスにワインを注ぎ、それを宙に掲げる。

「でもアイラは魔法薬と思ってくれた。それが一番大事なことだ」

「先生」

 口の中でとろける豚の煮込みをかみしめて、ファルは拳を握りしめる。

 病でもずっと笑顔だったアイラ。石を投げられても背を曲げなかったマリア。 

 コマドリ。とささやく声が、ファルの胸を締め付けた。

 ファルは息を吸い込み、ゆっくりと声を出した。無理に出す低い声ではなく、いつも通りの声で。

「……生まれたからには、どんな人間にも生きる権利はありますか」

「当然だ」

 まっすぐに見つめてくるキアンの顔が眩しく、ファルは思わず目を閉じる。師匠たる大魔法使いは、ファルの頭を乱雑に撫でた。

「明日はもっと美味しい魔法薬を教えてやる。だから適当な薬草を混ぜて薬っぽいものを作るのはやめとけ」

 キアンはファルが隠しておいた瓶と薬草をゴミ箱に放り投げ、肩をすくめた。

「あと、お前の顔に傷を付けたガキの名前を教えろ」

 キアンの冷たい指がファルの頬にふれる。うっすらついたその傷跡に触れたキアンの瞳孔が、威嚇する猫のように細くなる。

「どうするんです」

「そうさな。そいつは毎朝ベッドに膝をぶつける……どうだ、この魔法は」

「その魔法を僕に教えてくださいよ」

 まだ早い。彼は口癖のようにそう言って、あくびをかみ殺した。 

 そうだ。魔法使いは人よりもたっぷりと眠る。一日の大半を寝て過ごすことも多い。

 昨日、ファルが戻ってからずっと珍しく彼は眠らなかった。まるでこうなることを予想して、待ってくれていたかのようだ。

 ファルはパンの耳をかじり、煮込みをぺろりと食べ尽くし、口を拭う。

 久しぶりの満腹感は、頭の芯をぼうっとしびれさせた。

「先生」

 思っていたよりも優しい魔法使いに、ファルは声をかける。

「……明日は、もう少し別のものも食べてみます」

 振り返ったキアンは、垂れ目の瞳で下手くそなウインクをしてみせた。外では雨が上がり、鳥が静まり空気が冷える。

 そろそろ、眠らじの森に夜がやってくるのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ