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闇の魔術師(1)

 燃えさかる階段を、男がゆっくり、ゆっくりおりてくる。

 軍服に火が移っても、男はあわてるでもなく上着だけを脱ぎ捨てた。

「ボクも混ぜていただいて、よろしいですか」

 相手に意見を求める言葉のはずだというのに、そこには有無を言わせぬ響きがあった。

 現れたのは、透けるような金の髪に、こけた頬、てらてらと光る飴色の眼をもつ――。

「またテメェか」

「やあ、ホランド君……」

 ケイル・オルデンだった。

 オルデンはくぼんだ目を細め、嫣然とくちびるを曲げた。

「お久しぶりです、ケイル」

「またこうしてお会いできてうれしいですよ、パーシヴァル先生」

 社交辞令の笑みを浮かべたオルデンは、おもむろに片腕を頭上に掲げると、口の中で短い呪文を唱えた。

 高い天井に水滴のような波紋が広がったその直後、中央階段の一帯に、透明な幕がするりと落ちる。

 出ることも、入ることも許さぬ完全密室の魔法、それがこの領域魔法だった。

「あら、閣下のご指示であなたは学校へ向かったとばかり思っていたわ」

「ボクの隊はもう送ってありますので、ご心配なく」

 まるで、歌うような声色だった。

「黒竜王陛下のことも気がかりでしたが、なにより、きみがここに来る予感がしたのでね……ねえ? ジン」

 ブリキ人形の頭だけがキリキリと回るように、オルデンの首がジンへと向いた。

「気色悪いこといってんじゃねぇよ……オレの闇の気配を感じただけだろうが」

 オルデンは答えず、ただ笑みを深める。

 ひゅっ、と空気の斬れる音が聞こえた。

 開戦の合図もなく、ジンは容赦なく鞭をふり抜き、「より重く(フェッル)!」しなる鉄鞭てつべんに変えてオルデンに襲いかかった。

「ボクの方陣の速度に敵わないと知っていながら挑んでくるなんて、かわいい子だよ」

 ふふっと洩れた声には、悪魔であるキリクさえもぞくりとするなまめかしいものがあった。その間に、複雑な模様の魔方陣が描きあがっていた。

 ジンがはっと頭上を仰いだときにはもう、おびただしい鉄塊が恐るべき速さで降りかかっている。それはまるで、鉄のひょう

「つあっ……!」

「ジン!」

 手を伸ばそうとしたキリクの頬を、赤い閃光がかすめてゆく。ふり向いた先には、三人の闇の魔術師。そのうしろで、仮面が笑っていた。

「安心しろ、貴様は三人がかりで血祭りにあげてやる」

「なるほど……それは楽しくなりそうですね」

 頬を伝うものを親指でぬぐえば、白い手套がじわっと赤く染まった。

 どうやら背後のジンを気にしてやる余裕はあまりなさそうだ。

「……うっかり手加減しそびれて、殺してしまっても許してくださいね?」

 紳士の微笑を彼らに向けて、教鞭を鋭くふった。


 ――ようやく、雹がおさまった。そこに、かろうじて地を踏みしめるジンの姿があった。

「ああ、防御魔法はなんとか間に合ったようだね。でも、すこし痛かったかな……?」

 小首を傾いだオルデンに刺々しい眼光を飛ばし、ジンはべっと赤いつばを吐き出した。

 頭から流れる血が、小鼻の横を伝って、ぽつり、ぽつりとしたたり落ちている。

「ハッ、ほざけ!」

 鉄鞭が打ち下ろされる。

「“讃えあれ(コァン)万有の主(アルシュァ)”!」

 稲妻のような閃きが床を奔ったその刹那で、オルデンの足下が大爆発を起こした。

 それを、オルデンは左手で描いた魔方陣ひとつで防ぎきると、口を三日月型にしたまま、シャツのカフスボタンを引きちぎって袖をまくり上げた。

ひれ伏し、苦悶せよ(ヴィーダヴィヴィエダ)!」

 刺青まみれの右腕から黒煙が立ち昇り、数瞬、ジンの身体にすさまじい重圧が加わった。

 ブーツを中心にして、硬岩石の床に放射状の亀裂が入る。バキッ、バキッ、と不吉な音をたてて、床が少しずつ沈みだした。

 真上から押し潰さんとするすさまじい圧に、骨が、筋肉が悲鳴をあげている。とうとう片ひざが落ちてしまった。

「さて、どこまで耐えられるかな?」

「ふ……ざけんなっ!」

 その強烈な力に逆らって、鉄鞭をオルデンへと向ける。

「“汝、光に傅け(レ シュテレント)”!」

 詠唱と同時に、ジンの鼻から鮮血がどっとあふれ、全身にかかっていた重圧が一気に消失した。

「ふふっ……ははは……」

 今度はオルデンがひざを――いや、床を抱く番だった。背や、両手両足に突き刺さるものは、光のくさびである。

 床に打ちつけられた闇の魔術師は、どろりと溶けだしそうな飴色の目を見開いて、笑いつづけた。狂気を内包し、それを聞いているだけで感染してしまいそうな嗤い声――。

 ジンは手の甲で鼻血をぬぐい、よろめく足を支えて立ち上がった。肩を上下させながら、鉄鞭をふたたび構える。

「串刺しとは、嫌な魔法を使うね」

「テメェの心臓を串刺しにできなくて残念だ」

「光の魔術は強力なものが多い――が、その反面、体力の消耗も激しい。その、腕の力を使ったらどうだい?」

「うるせぇよ……!」

 二本の蛇が絡みあう左腕を、ジンはむしるように掴んだ。

「昔は素直な生徒だったのにね……飲み込め(ヴェジーロ)

 オルデンの右腕から黒い煙が地を這うようにもくもく伸びて、それが全身に刺さる光を次々と平らげていった。

 すっくと立ち上がったオルデンが、おや、と不思議そうにわき腹へ目を落とす。

「あばらが折れてしまったかな……?」

 ぽつりとつぶやいたとたん、いびつな愛憎がくちびるに浮いた。

「ああ、ジン、やっぱりきみは優秀だよ……もう一度、身も心も、欲しくなった……!」

 節くれ立った指が、ジンの左胸を指す。

「“われ、魂魄を奪う者なり”!」

「“われ、英霊の志を継ぐ者なり”!」

 両者の間ですさまじい爆発が起こった。

 ジンはそれを片手で防いで、「より鋭く(アグトス)!」声高に叫ぶや、一瞬で鞭から片刃の刀剣に形態を変えたそれを、腰の回転と合わせて、鋭く薙ぐ。

 そのままオルデンの首を掻き斬った――つもりだったが、刺青からわき出る黒煙が剣戟けんげきを防いだ。

「チッ」

 また額から流れてくる血を腕でぐいとやり、ジンは獲物を鉄鞭に戻して、オルデンと距離をとった。

 足元がふらついているのは、魔力の消耗だけではない。地力の差、つまりは力で押されているのだ。

 もともと、オルデンの魔力は教壇に立っていた時代から相当に高いものだったし、なんといっても、ジンの高い資質をだれよりも早く見抜き、鍛え上げたのは、他ならぬこのケイル・オルデンであった。

「ボクが与えた力を使えば、互角に戦えるはずだ。だれもが恐れおののく、強大な闇の力……悪魔がヒトに与えたもうた、崇高なる力だよ。意地なんて張らずに、使ったらどうだい?」

「ハッ、そんなの……」

 ジンが鞭のグリップをきつく握る。

「……使いたくてたまんねーよ」

 予想だにしなかった答えに、背後でそれを耳にしたキリクは、まさか、と心臓を殴られた気分で、目を見開いた。

「一瞬で命を奪えるほどの、強力な闇の呪文を唱えてみたいに決まってんだろ」

「そう、人間なら当然の欲だよ。ボクのもとにおいで……ジン」

 オルデンが、手を差しのべる。優しい手つきは、それだけでなにも怖くないと思わせてくれるような安心感がにじみ出ている。

 ふっ。

 と、空気の抜ける音がした。

「――けど」

 そんなふうに口をひらいたジンは、闇の魔術師を見つめるまなざしを強くし、鞭を掲げた。

 ダークグリーンの瞳に、狂気さえ凌駕するほどの強い光が宿っていた。

「オレは、自分に誓ったんだ。この力は、おのれの欲のためじゃなく、生徒を教えるために使う。闇の前ではいつだって勇気を示さなきゃいけねぇ。そうやって、生徒たちには教えてきた……。 闇の魔術師(おまえ)の誘惑なんぞに、乗ると思うな!」

 すでに悪に染まりきった飴色の目をしっかり見据え、ジンがビッと中指を立てる。

「ならば、屍人として永遠にボクのかたわらに置いてあげよう」

 言って、オルデンはもう片方の袖をまくり上げると、両腕を頭上に突きあげ――のどの奥をゆらした。それが次第に高笑いへ、体がのけ反るような哄笑になってゆく。狂気と狂喜に満ちた、嗤い声であった。

「ヴァクト・ヴィエン・ディア――」

 ぴたりと、詠唱がとぎれた。

 襲い来るはずの凶悪な魔術に身構えていたジンも、目をみはった。

 その光景はまるで、ときが凍ってしまったかのような。――オルデンのあらゆる動きが、いきなり止まったのだ。

 当の本人でさえ、わけもわからず目を丸くしている。

 次の瞬間、オルデンの腕から、首から、軍服のすき間というすき間から、密度の濃い黒煙が噴きあがった。

 みるまに腕がしおれ、骨と皮だけになってゆく。

「ふ、ふふっ、ははは……あはは」

 オルデンは腕をおろし、悦びに満ち満ちたまなざしを、その枯れゆく両手にそそいだ。

 眼窩はどんどん落ちくぼんでゆき、顔の筋肉が失われ、骨がくっきりと浮きあがってくる。

「ははは……見てくれ……! ボクは、ついに闇と一体になるんだ……純粋なる悪魔の力だ……すばらしい、すばらしいよ!」

 黒煙がふくらんで、それが口をあけたように、思えた。

「これこそボクの求めていた真の闇……! なんて、すばらしい……!」

 ジンはただただ、その異様な光景をぼう然と眺めていた。

「ああ……、闇に、とける――」

 頭から飲み込まれたオルデンは、軍服だけを残して、黒煙ごと、消滅した。


 それは、死などというありふれた定義では、けっしてくくれないもの――その真理こそ、オルデンの最期のことばだった。


 むろんこれを目の当たりにしたのは、ジンだけではない。

 キリクと対峙する三人の闇の魔術師も、消滅の瞬間まで、つぶさに見ていたのだ。


 壁や床を舐める火のが、ゆっくりと、しかし確実にキリクらのもとへ戻ってきた。


「ま、まさか……オルデンが……」

「いまの……見ただろう? オルデンは死ぬまえ、闇の魔術を使おうとしていた……」

「まさか、双蝕そうしょくのせいで、闇の力に食われたとかいうんじゃないだろうな……?」

 どうする? とささやく声。

「低級悪魔と、あっちはジン・ホランドだろう? 手負いとはいえ、魔力はけた違いだ……」

 三者はほそほそと話し合い、全員一致でうなずくと、キエを残してその場からあっという間に姿をくらました。

 まったく彼らの潔さときたら、ある意味、立派といえよう。

 すでに領域魔法は消失していた。

「うそよ! そんな! オルデンがやられるなんて……!」

「どうやらここに残ったのは貴女だけのようですよ、キエ先生?」

 キリクはもてあましていた教鞭を、仮面の女に向けた。

「ヒッ……わたしたちが敗れるなんて、そんなわけが……!」

「おや、負かしてしまって、それはすみませんでした」

「て、提督のところに――」

「行かなくていっつーの」

 ジンの強烈な一発がキエのみぞおちにめり込む。おふっ、と空気の抜けたようなうめき声を最後に、仮面の女は土下座のような格好で崩れ落ちた。

 ――これは、痛い。

 ジンが額の血をぬぐいながら、半身をキリクに向ける。

「パーシヴァル、お前は先に行け。オレは逃げた闇の魔術師と、まだ散らばってるヤツをつぶしていく」

 満身創痍だった。

 格上のケイル・オルデンと闘って、無事で済むはずがない。

「……本当は、貴女を置いていきたくはありません」

 キリクはジンのそばに歩み寄り、手套をするりとはずして、美しい輪郭線を指先でなぞる。口のなかで「サーヴィオ」とつぶやき、頬にできた傷をふさいでやった。それでもあちこち傷だらけなのには変わりない。

 ふたりのすぐそばを、消火用ホースを持った軍人たちがせわしなく行き交った。領域魔法が解かれた中央階段付近には、怒号と混乱が取り戻されていた。

「火はますます強くなっている!」

「とにかく、火元をやるんだ!」

 足元で、炎がバチッと爆ぜた。

 見上げてくるジンのくちびるが動く。

「お前がただの低級悪魔じゃねぇのは、なんとなくわかってたよ。だから、さっさとカタつけてこい」

 そんな彼女を、キリクはじっと見下ろした。

「……早く行けって」

 見上げてくる視線は、けっして揺らぐことのない強さと、あまり表に出ることのない優しさがつまっている。

 ジンの柔らかなくちびるを指でなぞり、名残惜しさを断ち切るべく、キリクはマントを翻した。

「ホランド先生、くれぐれも無茶はしないでくださいね」


 移動魔法を使う直前の背中に、「ばーか、いまはキスしていいところだろーが」なんて声がコツンとぶつかった。

 キリクが驚いてふり向いたときには、もちろんそこにジンはいなかった。


 おそらく、わざとあのタイミングでいったのだろう――。

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