北国国軍本部基地
幸い、雪の気配はなく、安定した空模様だった。
魔法学教務室の窓から見上げると、中空にとなりあう、ふたつの丸が目にとまった。これは古来より“双子の月”と呼ばれている。
月が重なりあって見えるとき、地上は一瞬にして闇に覆われるのだ。
『――神秘の存在たる双子の月が重なる現象は、百年周期でおとずれる。
十二の月のうち、冬の終わりが近い三月。先般の研究の結果、十五日であると判明した。しかしその現象はたった一日のみであり、それもごく短時間である。夜が明けて、南天に太陽が昇る、ちょうど中間あたりの時刻に起こるものとされる。
地上は闇に包まれ、その影響を受けて闇の魔法の力が増すという仮説は、此度の実験によって確立された。これを、双蝕と名付ける。
この論文が、後世の研究者たちへの糧となることを祈願して、ここにペンを置く。
悪魔学名誉教授、ルチアーノ・コンスタンティン』――
キリクは開いていた最後のページの最後の文を目でなぞり、ぱたっと本を閉じた。片手ではとうてい扱えぬぶ厚い教科書――悪魔学Ⅲを、各科目の教科書がずらりと並ぶ棚へと戻してやる。
ちなみに、この学問の教科書は一年も二年も例外なく厚い。とにかくぶ厚い。
したがって生徒たちからの苦情が毎年ほとんど同じパターンでくり返されていた。だがしかし、厚いには厚いなりの理由がある。この教本は、悪魔学のもっとも権威ある教授四名の論文からつくられているからだ。
数百年まえから変わらぬ智の教典。
ひとは、ここから多くを学びゆく。
キリクはマントのしわを伸ばすように、両手でぴっと布地を張った。
指先で前髪をチョンチョンと整えて、ひとつ深呼吸。そうして、いざ部屋の扉を開けた。
三月十五日、午前八時の開会式に向けて、大講堂へと歩き出す――。
「一体どうなっている?」
「だめだ、職員室にはほとんどいなかった!」
「どういうことだ、全校生徒も教職員も、いつからいないんだ?」
一階の廊下であわてふためく兵士たちは、上階から降りてきた同胞と落ち合うとさらに混迷を深めた。
キリクはゆったりとした足取りで、彼らのもとへと歩み寄った。
「おはようございます」
「パーシヴァル男爵! いったいどこから……」
チッチッチ、と軽く指をふって、「愚問です」と返してみせる。
「じつは、軍のみなさんの時間をちょっとだけ止めさせていただきました。そう――卒業式が終わるまで」
「なんだと?」
わかりやすくこめかみを痙攣させた男が、キリクに一歩つめ寄った。
じっくり観察すると、なにやら見覚えのある軍人であった。この玄関ロビーで一日中、玄関扉をにらみつけて屹立していた兵士のような気がする。襟のバッジにちらと目をやる。階級は……そう、たしかに伍長だった。
こんなときではあるけれど、この若者、金髪のオールバックがなかなか似合うではないか、などと思わず感嘆の吐息がこぼれてしまった。
「できれば穏便に済ませたいのですが、どうです、話し合いを――」
「ふざけるな! 男爵、こんな勝手な真似は許されない!」
マントの襟首につかみかかり、「上に報告させてもらう」そう言いさしたとき、キリクはおもむろに指を弾いた。
「かっ……」
伍長が白目をむいてひっくり返る。それを皮切りに、校内にいる兵士たちが次々と昏倒しはじめた。
「せっかくの私の厚意を無下にするとは、愚かですね」
しわになった襟元を正して、キリクは目を細めて背後をふり返った。
ちょうどタイミングよく、大講堂の両開き扉がゆっくりと開け放たれる。
「さて、卒業式も無事に終わったようで、なにより」
今度は窓の外に目をやった。朝の曇天に浮かぶ月たちが、距離をぐっと縮めていた。
「せいぜいゆるりと構えているがいい……ここからが本当の勝負だ、ソーナ・ペンドラゴン……いいや、ヴァルベリト」
鮮烈な青い炎がキリクの双眸に、燃える。
予定より二時間も早く行われた卒業式が、午前九時三十分につつがなく終了した。
その直後、北国国軍本部基地に火の手があがる。
またたく間に燃え拡がり、武の砦を容赦なく踏みにじってゆくそれは、さながら、すべてを焼き尽くす地獄の業火のよう――。
双子の月が、見下ろしていた。
「冷静に消火にあたれ、そう伝令しろ!」
「消火器が足りない!」
「軍属魔術師は?」
「もう消火にあたっているが、手が足りない!」
北国国軍本部はおおいに混乱していた。
「なぜ火災を知らせる警報が鳴らない?」
三階建ての基地のあちこちに火の手が上がり、気づいたときにはもう、火柱となっている。
それが突然の出火だというのだから、だれしもわけがわからず、まるで蜂の巣をつつかれような混乱ぶりだった。
そこへさらなる追い打ちがかかる。
「第一セクター三番地区で救助の要請が!」
「魔法省で火災!」
「派兵の指示は?」
「どこかの隊がコルイドに騎乗して出て行ったぞ! どこの隊だ?」
怒号が飛び交う。
兵士たちでごった返す一階の通路を、ロエッタ・バショカフはのしのし歩いていた。
「こりゃあ、すさまじいな」
深緑のマントの裾に火の粉が移って、パチパチ燃えはじめてしまった。おう、と驚いているんだか感心しているんだかわからない声を出すと、留め具をパチンと外し、バサッと一振り。黒く焦げ跡の残るそれを、肩にひっかける。その際、大きな手で包み込むように握っていたものを、上着のポケットにすべり込ませた。
「ほんとうにすげぇな……じっとしてたら、丸焼きにされちまわぁ」
マントの下は、ローブではなく、枯れ草色の軍服だった。少佐の階級を示すバッジが、いたるところで燃え上がる炎に照らされて、赤くきらめいた。
ちょうどそのとき、バショカフの向かい側から、消火器を三つほど抱えてヨロヨロ走る兵士がやってきた。すれ違いざま、その兵士の首根っこをむんずとつかんで引き止める。
「おう、いま、どうなっている?」
「あ、バ、バショカフ少佐? いまはたしか、魔法学校におられるのでは……?」
「手を貸しに、こっちにきたんだよ。んで、なにが起こっているんだ?」
「なんと、ありがとうございます!」
ビン底眼鏡の奥に、希望のようなものがぱあっと輝いた。
「いま、本部は何者かに襲撃を受けているとのことで、指揮系統もほとんど役に立たないくらい、ひどいありさまです」
「ふむ、詳細は?」
「ほとんどわかっておりません、なにぶん、いきなり各階から火の手があがったようでして」
「ほう、そりゃぁえれえこった……それはそうと、提督はどちらにおられる?」
「あ、はい、軍規どおりであれば、地下の作戦司令室に向かわれているはずですが、こんな状況ですし、自分も詳しくは……」
青い顔でうつむく兵士の背中を、バショカフがおもいきり叩いた。骨が何本か折れたのでは、と思うほどのすさまじい音が鳴って、ああ哀れ、彼は涙を浮かべながらむせ込んでいる。
「なるほど、ありがとさん」
「しょ、少佐は、どちらに?」
「俺ぁ提督を探さねぇとならねぇ。あの方を死なせるわけにゃいかねぇからなあ」
あごひげをぼりぼり掻いて、バショカフがまた歩き出した。
「お願いいたします、お気をつけて!」
バショカフはふり返らずに片手を挙げた。
赤々と描かれる炎のアーチを、魔獣のような巨体がずんずん突っ切ってゆく。
途中、地下へとつづく階段が目の端に飛び込んだ。だが赤銅色の小さな目はすぐに逸れ、足を止めることなく通りすぎてゆく。
ややしばらく進むむと、基地内に三か所ある階段のうちのひとつ、中央階段が視界に入った。
「さあて、ここいらで一旦お別れだ」
腹に響くような声で、バショカフがそう告げた。
軍の“本部”と呼ばれる建物は、魔法学校と違って意匠を凝らした装飾がほとんどない。
廊下や壁は硬岩石の造りで、なめらかな質感の花崗石とは一線を画して厳かな雰囲気が漂っていた。
横へ横へと延びる構造。
その内部がかなり複雑だということは、ちょくちょく勝手に上がり込んでいたキリクもよくわかっていた。
さらに、端から端までの距離がひじょうに長く、もちろん奥行きもあるから、突然の火災に恐慌をきたした軍人たちは、あちこち走り回らなければいけないし、冷静な判断もできなくなるだろう。
東と西、中央にそれぞれある巨大な階段が火だるまになっていれば、なおのことだった。
「遅かったじゃねえか、パーシヴァル」
一階の中央階段から少し離れた柱の陰で、腰に手を当てるジン・ホランド教諭が両ほほを膨らませて待っていた。
「おや、ホランド先生、お早いお越しで」
「お前がちんたらしてるからだよ。どこ行ってたんだ」
「出入り口を封鎖がてら、ちょっとばかり、散歩を」
「ぶっ飛ばすぞ」
キリクははっはっはー、と乾いた笑みだけでやり過ごし、彼女の隣に立つ生徒に視線を転じた。
「先生! なかなか来ないから、なにかあったのかと思った……!」
校章のついた胸ポケットに一輪の花を挿したままのアリアが、ほっと息をついた。
「双蝕が始まってしもたら面倒なんですから、ほんま、時間はきちっと守ってください」
同じく胸に花を挿すユーリからぴしゃりと言われてしまう。
卒業式を終えて、もはや担任とは名乗れないが、いままでずっと付き合ってきた元担任をこうも叱りつけることができるとは。さすがはユーリ・フェルマン。頭の出来も、肝の据わり方もちがう。
「……すみませんでした」
素直に謝った。
「二度目はないですよ」
「……ハイ」
なのにこの仕打ち。
ユーリが教員を志さなくてよかったと、このときキリクはふと思った。もし魔法学校で教鞭をとったとしたら、ジンとハッズを足して割ったような恐怖政治を展開するにちがいない。考えるだけでぞっとした。
「ねえ、パーシヴァル先生……ほんとうに大丈夫なのかな……」
キリクのマントをつんと引っ張って、アリアがいう。この場にいないウルトを案じているということは、彼女の目を見れば明白だった。
「……いまのウルファートには、これが最良の選択――と思うほかありません」
「俺にはどっちが正しい選択かはわからへんけど……俺らは、あいつが死なんよう、信じるよりないやろ」
「うん……」
キリクにも、この選択が正しかったかどうかはわからない。だが、ユーリのいうとおり、信じるほかないのだ。
「では、アリア、ユーリ。いいですか、シキは地下牢に囚われていますが、途中で闇の魔術師が現れるかもしれません……本当に危ないと思ったら、全力で逃げるのですよ。退くことはけっして、恥ずべきことではありません」
ふたりの肩に手を置くと、ちいさなうなずきが返ってくる。
「……ですが、きみたちのことは信頼しています。任せましたよ」
「はい!」
重なるふたりの声が、なによりも心強かった。
「あら」
そこに、いきなり女の声が刺さり込んできた。
「ネズミが四匹もいるなんて」
階段のその向こう側から、カツン、カツンとヒールの高い軍靴を打ち鳴らして女が歩いてくる。
枯草色の軍服に、顔を覆う仮面。しかしその声には四人とも聞き覚えがあった。背中に流した亜麻色の髪、少し甘ったるい声――。
「よう、久しぶりだな、キエ」
したがってジンの声は自然と尖った。
「あら、相変わらず口汚いこと。まあ、その凶暴な野良猫みたいなお顔には、お似合いかしら?」
「んだと、テメェ……」
ジンが腰のホルダーに収まる鞭の柄に、手を伸ばした。
「野蛮な貴女の相手は、わたしじゃないわ」
キエが手をさっと挙げると、彼女の背後に三人の男が魔法で現れた。ただし、キエが呼んだとなると、ただの軍人ではないだろう。
彼らの眼光は総じてどろりと濁っている。
闇の魔術師か……。
「ずいぶん早く私たちの侵入に気づきましたね」
「ふん、なめないでちょうだい。こちらにはバショカフがついているのよ……魔法学校の動きも、あたなたちの陳腐な作戦もすべてお見通しよ!」
「なるほど、ロエッタが……」
キリクはちらと背後のユーリの気配を探った。目の前にいるのがさもバショカフであるかのように、ユーリは紫の瞳に殺気をみなぎらせている。
そこでキリクはぱちんと指を弾いた。
「えっ?」
キエがあわてて周囲に首を巡らす。そうやったところで、ユーリとアリアの姿はどこにも見当たらないだろう。たったいま、違う場所へと移動させたのだから。
「あの子たちには少し、席を外していただきました。これで思う存分戦えるでしょう?」
「……やってくれたわね、この、低級悪魔が!」
キエが吠えると、軍服を着た三人の闇の魔術師がキリク、ジンを素早く取り囲む。
「ホランド先生、双蝕が始まってしまう前にすべてにけりをつけねばなりません。連中の力が増す前に、全員倒さなければ……」
キリクが背中越しに、ジンをちらりと見る。
「だから卒業式の時間を繰り上げたのか?」
「ご想像にお任せします」
「あっそ。でも、闇の力が増すのは、やつらだけじゃねぇ。オレだってそうだ」
「……そうだとしても、貴女に闇の力を使ってほしくない」
背後から、わずかに驚いたような気配を感じる。はったと見つめるような視線が、キリクに突き刺さっていた。
「いいこと、閣下のためにこいつらを血祭りにあげるのよ!」
仮面の女が戦いののろしを上げた。
闇の魔術師たちが軍服の袖をまくり上げると同時に、キリクは教鞭を、ジンは鞭を手にとる。
「ああ、ちょっと待って」
水を差す声があがったのは、そんなときだった。




