友
親愛なるわが友、PMに捧げる。
きみの言うとおり、きっと言葉は必要ない。
「それじゃオレは出稼ぎ労働に行ってくるからね。夕方には戻るから、なにか、美味いもん買ってくるよ」
言って、へたくそなウインクが飛んできた。
「シー君に会いたがってるマダムとお嬢ちゃんがいるから、夕食のとき招待しようと思うんだ」
「ヨリェッカさんと、ビビ?」
「うん、そう」
モテますなあ、と含み笑いを向けられ、茶化さないでください、と目を細めて訴えれば、「わるいわるい」なんて軽い言葉が返ってくる。
わるい、の意味をわかって使っているのだろうか?
普段の薄汚れた白衣ではなく、しわのない真っ白な白衣に袖を通し、その上にゴワゴワのコートを羽織ると、鞄ひとつを手にとって、ナナルは往診に出かけていった。
昼下がり、午後一時半。ナナルの家には、シキと居候のでか犬だけが残された。
がらんとした室内はやけに静かだった。
ときおりパチン、パチンと弱々しい音をたてて暖炉が静かに燃えている。音らしい音といえば、それだけだった。
部屋のなかは少し肌寒いとはいえ、コートを着るほどでもない。しかし普段より室内の温度が低いようにも感じられる。
ナナルがいない。
たったそれだけのことで、この家はこんなにも静かで、こんなにもぬくもりを欠くのだ。
いつしか、ナナル・エーレーンの存在がシキのなかで大きなものとなっていた。
この家のクローゼットに残されていたシャツとセーターを拝借し、自分のスラックスに着替えた。
ところどころについた血や汚れは、どんなに洗っても完全に落ちてはくれない。それでもこの制服をまだ穿こうと思うのは、そこに国立魔法学校との確かな繋がりがあるからだ。まだ、キャメロットの生徒であると思いたい。
シキにとっては、こんな細い繋がりだとしても、十分、心のよりどころになりえるのだ。
食卓テーブルについてからは、両手を組んで、長いことぼんやりしていた。
ときおり、左手の指先で、右の中指にはめた指輪を無意味に弄いでいるくらいで、あとはただ、なにかを見るでもなくぼんやり窓の外に目を向けていた。
自分自身の今後についても、北国の現状についても、なにひとつ考えられなかった。ただ、ふいに心臓がびくりと震えるときがある。ウルトのあの冷たい視線が頭の芯によみがえったときだった。
冬の湖面によく似た双眸は、厚い氷が張ったように硬く、冷ややかだった。そこを走る血の筋には、怒りや憎しみ、拒絶が湧いていた。
当然だ。
僕がしたことは、許してもらえるようなことじゃない。
大切な家族を失う痛みを知っているからこそ、ウルトの一言一句が、重く、鋭く、とても痛かった。
ナナルからもう一度会って話すべきだと助言されても、すぐに立ち上がる決心がつかなくて、こうしていまだテーブルから離れられないでいる。
すると、シキの脇腹がなにかにぐいっと押された。
ぎょっとして見下ろせば、でか犬が湿った鼻で脇腹をぐいと押していた。ちょっとつぶれた鼻をしているから、むしろ頭突きといったほうが正しい。
「なんだよ?」
さらに強く押され、とうとう椅子から立ち上がざるをえなくなってしまった。なおもでか犬はぐいぐい押して、シキを歩かせる。
「まさかおまえまで行けっていってるのか?」
玄関先までやってきて、やっと犬が立ち止まった。レンガ色の目が、シキの心中を見透かすように見上げていた。
「……決心がつかないんだ」
弱音を吐くと、ばう、と返事があった。
「笑っちゃうだろ? こんな……情けない奴が黒竜王だなんて……っていっても、北国の王様って実感なんて、全然ないんだけどさ」
ばう、ばう、と相づちをうたれて、シキは思わずくすりとした。まるで言葉が解っているみたいで、しかも愛嬌のある顔でばうばうしゃべるものだから、それが妙に可笑しかった。
でか犬の、ことのほか小さな両目がシキを見上げる。
都合の良い勝手な解釈だけれど、がんばれと訴えかけてくるように思えた。
だから、シキは覚悟を決め、
「……勇気を、出そう」
そうきっぱりと口にする。
黒竜王本来の、少し気の強そうな面立ちをまっすぐ、しっかりと正面に向けて。
しかし一歩外に出ると――正確にいうなら、避難所に一歩ずつ近づくごとに、あのとき奮い立てたはずの勇気がしぼんでゆくのを、シキははっきりと感じていた。
しかもウルトへの道のりを、できるだけ時間をかけてゆこうとする意気地のなさに、情けないと思いつつも、足取りはますます重くなってゆく。
だが、気がつけば避難所は目の前。とうとう受付の前まで来てしまった。
黒髪がフードでしっかり隠れるように、目深に被り直す。一見して不審人物でしかないが、昨日の騒ぎを目撃していた受付の女性は、シキを不憫に思ってか、それとも連日顔を出したためだろうか、名前を訊かずに通路の先へと案内してくれた。
「この扉の向こうには、第三セクターや第二セクターで家を失くした人たちがたくさんいるの」
狭い通路は、夕暮れでもないのに薄暗い。
先導してくれる女性の顔はもちろん見えないが、声にも感情が見えなかった。
「ちょっと事情を話して、なかで話せるように掛け合ってみるわね」
「お願いします」
外壁の板より重いであろう扉が、滑車を横にすべって開閉した。
ほどなくすると、扉を引いて女性が出てきた。
「使っているスペースは、左から五列目の、手前から十三番よ。お祖父さんもいるけど、ここではあまりプライバシーとか、そういうのは意味がないから」
「なかは、家族ごとの仕切りとか――」
「お孫さんのほうには、きみが行くって、伝えてあるから」
あとは勝手にどうぞ、という意味だった。
親切なようでそうでない彼女は、ひとつの案件を終えたとばかりに、定位置である受付カウンターへと戻っていった。
残されたシキは腹をくくるしかない。
もう、後戻りはできないのだ。
まなじりを決して、扉を横に引いた。
すると、引いたはずの扉が、ガアッと勢いよく戻ってゆく。けたたましい音をたてて、入り口が閉ざされた。
「な」
なんで、という言葉を飲み込んだ。
扉の向こうに、ウルト独特の、様々な草花や果実が混ざった華やかな匂いを感じたのだ。つまり、ウルトが扉を閉めた――それが拒絶の意味であると、シキとて理解できる。
冷たい鉄の板を一枚隔てて、シキとウルトは立っていた。
もう、このまま、立ち去ってしまいたかった。
しぼみつつあった勇気が、完全に消えようとしている。
奥歯をきつく噛んでいなければ、なにかがあふれ出して、なにかが音をたてて崩れてゆきそうだった。それをシキは奥歯を噛むことで、かろうじて堪えている。
ウルトの匂いがまだそこにある――その事実が、シキの内にあるあらゆるものを留めていた。
ドッドッドッ、と駆け足で鳴り続ける鼓動を落ち着けるように、シキは深く息を吸って、吐いた。それを二度ほどくりかえして、ふるえるくちびるを押さえつけ、
「……ウルト」
ゆっくりと切り出した。
「……なにをいってもたぶん言い訳にしかならないとおもう……だから、決めたんだ。僕が奪ったたくさんの人たちの……ウルトのお母さんや、弟の人生の分を、僕にできることをして、北国に残った人たちに償おう、って」
それだけで足りるかどうかは、わからない。けれど、それがシキの答えだった。
黒竜王にしかできないことがあるはずだ。
「もうだれも悲しませたくないし、苦しんでほしくない」
目頭が熱い。負けじと、溢れ出そうになる感情を押さえ込む。短く息を吸った。
「僕はもうだれかの命を奪いたくない……ホントは、これから僕が――黒竜王がなにをすべきなのか、よくわかってないんだ。でも、だれかの助けになれるひとに、なりたいんだ」
鼻の奥がじんじんと痛い。もう少し耐えてくれ、とシキは自分自身を言い含める。
「ごめんね、ウルト。本当はすべてのひとにいわなきゃいけないんだけど、それは、いまは無理そうだから……だから、ウルト、大切な家族を、あんなふうに奪っていって、本当にごめん……」
許してほしい、という言葉だけは言うまいと、のどの奥に押し戻した。
声が、かすれてきた。
「……最後に、ひと言、いっておきたくて……。僕と、友達になってくれて、ありがとう。ウルトのおかげで、ユーリやアリアや、フェイメルとも仲良くなれたんだ……。ほんとうに、ありがとう……もう、二度と会いに来ないよ――」
のどがつまってそれ以上しゃべることができなかった。
あやうく昂った想いが氾濫しそうになり、またぐっと奥歯を噛み直した。
握っていた手のひらを開く。そこには、ウルトの使役獣のゾルゲが収まる金の指輪。それを、扉の前にそっと置いた。
「ありがとう」
心の中でつぶやいた声が洩れ出たのも気づかず、シキはゆらりと踵を回した。
背中で扉の開く音はなかった。
ウルトから一歩遠ざかるたびに胸の痛みが一段階ずつ強くなる。内臓をねじ切られるような苦しさが、それに拍車をかけた。体の内側からふくらんで、いまにも破裂してしまいそうだった。いっそ破裂してしまえば、楽なのに。
ふり返らず、フードを被ったまま、うつむいてどれくらい歩いただろうか。
ついに心臓が悲鳴をあげた。足まで音をあげたとき、ジリジリと熱くなっていた両目のたがが外れた。
片腕をそこに押し当て、シキは声を殺して、泣いた。
友を本当の意味で失う喪失感と、なにもできないおのれの無力さに失望し、死別とはまったく異なる哀しみを知って、泣いた。
やるだけのことはやった。ぜんぶ、出し切った。その上での結果だ。
だから泣くな、シキ。
コートの袖で乱暴に涙をぬぐい、両ももを強く打つ。
立ち止まらないと決めたのは自分なのだ。そうして、シキはまた歩き出した。
そのとき。
「ぜんぶ、わかってた!」
突然背後で大声が響き、驚いたシキがふり向くと、全速力で追いかけてきたのだろう、頬を真っ赤にさせたウルトが息を切らせて立っていた。パーカーの上に、あまり暖かそうには見えないジャンパーをひっかけただけの格好で、ウルトがそこにいる。
黒い瞳に驚愕の色を乗せて、シキは目にかかるフードを払った。そして、苦しそうに歪んだウルトの顔を見つめる。
「……ホントはぜんぶ、わかってたんだ、シキのせいじゃねぇって。シキはそんなことする奴じゃねぇって、オレだってずっと前から、わかってた。ユーリからの手紙でぜんぶ事情を知った。フェイメルちゃんのことも……」
ウルトの眉間に、しわが深く、強く刻まれる。
「ペンドラゴンが元凶だって頭じゃ理解できてるんだ。クソッタレ悪魔野郎だ……。けど、あの黒い竜が母ちゃんとメリノを殺したって思うと……じかに見てもないのに、ふたりが赤い炎に炙られて死んでいく光景が、いつもオレの目の裏側に出てくるんだ。……悔しくて、苦しくてどうしょうもねーんだよ! オレにはペンドラゴンを殺す力もないし、ましてや黒竜王を殺すことだってできるわけねえ……どうやって、友達を殺せるんだよ……。でも、一番最低なのはそんなことばっか考えてる、オレだ……!」
ぽつりとしずくが落ちた。
左目に泣きぼくろがあっても、涙を流すことなど想像もつかなかったウルト。その左目から大粒の涙がこぼれた。
せきを切ったように、くしゃくしゃになった顔から涙があふれ出し、流れて、雪の上に落ちてゆく。
「オレ……親友に化け物っていった……マジで、ホントにごめん、シキ……、オレは……オレが……」
ウルトが言葉を探してさまよっているそのさ中、シキはほとんど無意識に足を踏み出し、手首をひねって拳をきっていた。
驚くウルトの、胸の真ん中に向けて。
いきなり襲いかかってくる衝撃に備えるように、ウルトが目をつむったとき、ぽすっと軽い音が鳴った。
ウルトのパーカーに、左拳が浅く沈んでいる。
シキもまた、ウルトに返すべき言葉を見つけられず、気づけば頭ではなく、こうして身体が勝手に動いていたのだ。
しばし、時が止まる。
このときシキは自分の左拳がにじんで見えることに、ふと気づく。知らず、眼窩に涙がたまっていたのだ。
ふたりの視線が同時にぶつかった。
「……ってか、ぜんぜん痛くねーし」
ふはっ、とこぼれた笑いは、涙声。
胸に当たったままのへろへろパンチを、ウルトが弾きあげ、目を丸めるシキの前に拳を突きだした。
どうすべきか、胸に問うまでもない。
その拳に、シキは自分の拳をゴツッと合わせた。
言葉はなくとも、互いに笑みを交わすだけで十分だった。たったそれだけで、充分だった。
仲直りなんて、案外簡単なもんだぜ――。
シキの脳裏にナナルの言葉が現実のものとなって、ひらめいた。
「黒竜王!」
頭上から呼ばれたのは、そんなときだった。
聞き覚えのある、相手を嘲弄あるいは威圧するよような男の声。
突如、空から翼を打つ音とともに、叩きつけるような豪風が落ちてきた。地吹雪が起こり、細かな雪が一斉に舞い上がる。
七頭の、巨大な蛇のような魔獣だった。背には薄い膜のような翼。そのすぐ前方の鞍には、人がまたがっている。長い首にかかる鎧あてに、北国の紋章がギラリと光って見えた。最後に降りてきた一頭の鞍には、太い鎖で固定された、ひと目で頑強だとわかる檻が吊られている。
それらが、シキとウルトを囲むように降り立った。
「私は北国国軍中将、ザイル・ファクロー。その黒髪に黒瞳、黒竜王とお見受けする。軍本部を爆破し、地下牢から脱獄した罪で再逮捕させていただく!」
重たい軍靴が、軽い雪をギュッと踏みしめた。
シキにも憶えのある、あのファクロー中将だった。地下牢ではぼんやりとした姿でしか認識できなかったが、いま、こうして向かい合うと、あのヴァンブガー・ファクローと同じ薄青の瞳がシキを刺々しく見やってくる。どんなにひいき目に見ても、ひとを貶めることに快感を感じる人種のようにしか思えない。
胸や襟のバッジがより輝くように、ファクロー中将は胸をぐっと反らせて近づいてきた。腰に下げる、かなり重たそうな剣の柄にいつでも手をかけられるよう神経を研いで、シキを――いや、黒竜王を警戒している。
シキに浴びせていた剣呑な視線が、ふいに、ウルトへ向いた。
「なんだ貴様、黒竜王の逃亡に関わった者か?」
ファクロー中将が指先を一、二度曲げて、周囲の部下へなにかの合図を送った。左右に配していた部下が命じられるまま、中将の両脇にすっと寄る。
口を開かずにいようと思っていたが、ここで、やむなく口火を切った。
「ファクロー中将」
シキが呼びかけると、一瞬にしてあたりに緊張が走った。同時に、七名全員がとっさに腰の剣に手をやった。
彼らの行動を無視し、すべての感情を排し、はっきりと伝わるようにシキは冷酷な声色で発する。
「ここにいるのは――」
ちらりと目線だけをウルトに向け、それをすぐに中将へと戻した。
「たまたま見かけた人間です。べつに、用はない」
――ウルトを守る。ゆえに敢然と、冷然と。怯んではいけない。屈してなるものか。もう、だれにも屈しない。僕自身、本能にさえも。
「中将、僕を捕らえに来たのでしょう?」
炎を吐くように、その言の葉を吐きだした。
顔色を悪くした男を睥睨するその黒瞳は、すっかり乾いている。
くちびるを固く結んでいたウルトを雪原に独り残し、魔獣は宙へと舞い上がった。魔獣に吊ってある檻におとなしく入ったシキは、どんどん離れてゆくウルトを、この檻から見えなくなるまで、ずっと見下ろしつづけた。
そのあいだ、ウルトの瞳もずっとシキに向いていた。
*
「抵抗するだけ無駄とお察しいただきたい。黒竜王にはさらに厳重な監視と警備が施されます」
またここへ戻ってきた。
ブーツ越しに、硬い石の感触を思い出しながら、もうすべてが鮮明に映るこの石牢を瞳の動きだけで眺めた。
眼前には、なつかしの、硬く冷たい石の椅子。
入り口を塞ぐファクロー中将と、鉄格子の向こうで強張った顔を向けてくる兵士たち。
抵抗しても無意味だと感じていたし、するつもりも毛頭ない。
キリクの言葉が、いつもシキのかたわらにあるからだ。
“必ず迎えに来ます”
その言葉に、絶対的な信頼を置いている。それはつまり、キリク本人への信頼といえた。
「黒竜王、手錠をかけさせていただきます。椅子に座って手をうしろへまわ――」
いつの間にかこちら側に身をすべり込ませてきた鎧姿の兵士が、シキの腕を取ろうとした、そのとき。
「僕に、触れるな」
兵士の手がびくりと動きを止めた。
硬い声で、また命じる。
「このまま地下牢から出て行くんだ。それから、ファクロー中将、あなたもだ」
だれもいなくなった石牢で、シキは椅子に腰掛けて、膝と膝の間で指を組んだ。
もうペンドラゴンの思い通りにはさせない。
絶対に……。
「でも、ナナルさんになにもいわずに出ていくことになっちゃったな……」
きっと、怒るだろう。いや、きっとそれ以上に心配するだろう。
「美味しいもの買ってくるって、いってたのに……ヨリェッカさんにも、ビビにも会えずじまいだ」
謝罪も感謝もろくにできないまま、こんなふうに別れるとは思いもしなかった。
「ぜんぶ終わったら、会いに行こう」
ナナルが全身全霊でプンプン腹を立てる姿を想像して、自然と頬がゆるむ。くちびるに、苦笑らしき微笑を挟んでいた。
『笑うのはいいよ、元気になれるから』
ナナルの言葉を、シキは胸のなかで転がした。




