第二セクター(1)
眼前に広がる光景は、見渡すかぎりの焼け焦げた大地。空は、赤々と燃えていた。
目を凝らせば、おびただしい数の黒い塊が、うず高い山を築いている。
累々と、それらはそこに斃れていた。
心臓が、ゆっくりと音を刻んでいる。そのたびに疼くような痛みが体の芯を突き抜けていった。
だれもいなかった。
そこには自分だけが立っていて、ふと空を仰げば、双子の満月が目玉のようにぽつん、ぽつんと浮かんでいる。それらは、睨みつけるようにただじっと見下ろすばかり。
たくさんの人の負の感情がそこに詰まっているような気がした。
ここから、いつも同じ会話が始まる。
――泣いて、絶望でもしないのか?
しない。
――意外と、淡白だな。いや、本来はそういう性質なのかもな?
どうだろう。
――仮初めの穏やかな暮らしにほだされて、いっそ忘れてしまおうとでもいうのか?
まさか。
――なら、自分の首でも絞めてみろ、黒竜王。それとも、悲劇の主人公と呼ぶべきか?
悲劇なんて、冗談じゃない。僕は、僕にできることをするって決めたんだ。だからそんなこと、しない。
――決めたのか。
そう。
――みなに恨まれて、憎まれて、孤独であっても?
……そう。でも、
――でも?
孤独じゃないから、平気だ。たくさんのひとから、たくさんの優しさをもらったから。
――ふうん。
僕がしたことを忘れるわけじゃないけど、もう、絶望して立ち止まることは、しない。だから、
――だから?
こうして毎日、夢を見せなくたっていいんだ。ちゃんと、ぜんぶ、覚えているから……。
――……そうか、でも、信じちゃくれないさ。だれも……。
「だいじょうぶ、みんな、信じてる」
だれかの声で、シキは浅い眠りから目覚めた。
毎晩繰り返される自問と自答。
最後はこうして優しげな声が降ってきて、そこで、夢幻の世界は終わりを告げる。
ベッドの上で仰向けになったまま、シキはベージュ色の天井をしばらく眺めた。おもむろに右腕を天井へ向けて掲げれば、中指にはめた指輪が無機質な光を放った。
ここが学校の寮の613号室ではないことと、もう指輪に相棒がいないとこを、こうして毎朝ひっそりと、自分に言い聞かせているのだ。
「けど、だいじょうぶ。想いはちゃんと受け取っている……だからだいじょうぶだ、シキ」
おのれに言い含めるのだ。
すぐそばでごーごー寝息が聞こえた。
ベッドから首を伸ばしてみたら、床の上で毛布に包まるナナルと、そのナナルから奪ったタオルケットを寝床にするデカ犬が、交互に大音声の寝息をたてている。
あの夢で聞いた声は、ナナルの声だった。
すっかり夜がふけた頃、ナナルは決まって黒髪を梳きながら、ああして優しく語りかけてくる。それも、毎夜。――悪夢にうなされる子どもをあやす父親のように。
眠りの浅瀬を歩くシキは彼の優しさをふいにしてしまわぬよう、黙って目を閉じていた。
そうして本当に夢に落ちたとき、ナナルの声が、手を差し伸べるようによみがえるのだ。
ナナル・エーレーンと出会って二週間ほどが過ぎたある日、家の玄関扉が初めて外から叩かれた。殴りつけるような叩き方ゆえ、放っておくと扉ごと家が壊れてしまいそうだ。
ナナルは歯ブラシをくわえたまま、渋い顔でドアノブに手を伸ばす。
往診に出かける日は、朝夕きちんと歯を磨くのが彼なりの流儀らしい。ついでに不精ひげもキレイに剃ってあるから、やはりなかなかの男前だ。
「どなたぁー?」
「エーレーン先生、助けてくれ! おれん家の向かいのヨリェッカさんが足を……! 魔獣に襲われたみてぇで、ちぎれそうになってんだ!」
顔面蒼白の男がナナルに掴みかかった。シキはあわててキッチンの奥に引っ込んで、頭を両手で覆い、息をつめた。
「たのむよ、急いでくれ!」
「わかった、わかったから引っ張りなさんな」
ナナルはすくさまキッチンに翻ると、飲みかけだった紅茶で口をゆすいで、それを飲み込もうか吐き出そうか、ちょっと迷った。
シキが必死にかぶりをふると、ナナルは渋々ぺっとやった。
「シー君、オレたちが出て行ったら、隣の部屋に移って隠れてんだよ、いいね?」
返事を待たずに言い置いて、ナナルは壁のフックに引っかけてあった鞄を引っつかんで家を飛び出した。
残されたシキは愕然としなければならない。
「ナナルさんて、本当に医者だったんだ……」
まもなく、複数の人の声とともに扉が乱暴に開いた。
「しっかり持ってくれ!」
「早く降ろそう、足が取れちまいそうだ!」
「ガリーオさん、そこのベッド、掛け布団ははがしてシーツだけにしてくれ!」
「わ、わかった!」
「エーレーン先生、血がひでえよ……おれ、もう、なんだか気分が……」
怒声が飛び交う合間に、ひとりがその場にひっくり返った。
「失神してるだけだから、そっとしといてやんな。それよりも、みんな急いでくれ!」
おう、と三人の男が青い顔であわただしく動き回る。
シキはもうひとつの小部屋で、ナナルにいわれたとおり、身を潜めていた。扉をほんの少し開けて、またたく間に診療所と化したリビングの様子をあごに力を込めてデカ犬と一緒に見守る。
シキがいつも使うベッドに、やせ細った女性がそっと降ろされた。四十代くらいだろうか、細すぎるせいで実年齢より上に見えているのかもしれない。
鮮血に染まる右太ももに目をやった瞬間、ぎくりと心臓が強張った。思わず目を逸らした。
真っ赤に染まる部分から白いものが飛び出していて、それがなんであるかを脳が理解してしまったのだ。
知れば、もうまともに見ることは叶わない。
「鞄から止血帯を取ってくれ! 青いバンドだ! 少し調べてから……切断する!」
「待ってくれ、それじゃあヨリェッカさんは働けなくなっちまうよ! 旦那も息子も黒竜王に焼き殺されて、ただでさえしんどい思いしてるっつうのに、足が一本なくなっちまったんじゃ、働くこともできねえだろう、死ねって言ってるようなもんじゃねえか!」
「医者のいうことに口出すんじゃねえよ!」
噛みついた男が、ぱくぱくと空気を噛んだ。それから、腹の底からしぼり出すように、
「……あんた、人間の足なんて切れんのかい?」
吐き出した。
「たしかにオレの分野じゃねぇが、一通りのことはできるよ。それに、足を切らないと本当に死んじまうんだ!」
「けど……!」
「生きてりゃ、できることだってあるだろう!」
その言葉を聞いて、シキは無意識に立ち上がっていた。
生きていれば、できることもある――。
そうだ、僕は、僕にできることをしよう。
これからすることは、きっとなにかを狂わすだろう。父との約束をまた破ることになるし、自分本位な考え方だっていうのも、わかっている。フェイメルに気づかせてもらったから。
けど、これ以上だれかの命を奪うのも、失われるのも、いやだ。――だったらやるべきことはひとつだ。
迷う必要はどこにもない。
扉を押し開けて、騒然とするリビングに目を投げた。ゆっくりと進み出る。
その場の全員が、突然現れた黒髪の少年の動きを目で追う。だれもがいきなり珍獣と出くわしたような顔で、唖然と、あるいは呆然としていた。が、われに戻っただれかがぽつりとつぶやいた。
「黒竜王……」
その場にいたナナル以外の男たちが、ざっと身を引いた。
「……シー君?」
緊張と怒りを混ぜた声のするほうへ、シキは首だけを向けた。
「どうして……隠れていろといったはずだ! いま、きみの置かれてる状況がわかんないのか?」
ナナルが怒る理由はわかっていた。それが指示に従わなかった、なんてつまらない理由ではなく、シキのためを想って憤慨しているんだとわかっていて、あえて黙殺した。
医療器具の乗ったワゴンに、尖端が赤々と燃えるメスを視認し、それをつまみあげた。
焼けたメスがどれほどの激痛をもたらすかは想像したくもない。だが、軍の地下牢での尋問に比べれば、さほど怖いとも思わなかった。
口を真一文字に結び、セーターの袖をたくし上げる。一息にメスを皮膚へと突きたてた。
だれもが固唾をのんで、その場に立ち尽くしていた。
メスを引き抜くと、黒い鮮血があふれ、流れ落ち、歯をくいしばったシキは横たわるヨリェッカの脚に腕を差し出した。
ボトボト滴り落ちる黒い血が、ちぎれた筋を繋ぎ合わせ、骨を修復し、細胞組織をよみがえらせてゆく。
シキの傷が塞がるまでの、わずか十秒間たらずの出来事だ。
意識こそまだ戻らなかったけれど、彼女の青白かった顔には血の気が戻っていた。
沈黙を破ったのは、集まった男のうちのひとりだった。
「お、おお、すげえ……これが、黒竜王の力……どんな傷も治すっていう……」
だれもが卑しい光を瞳に浮かべた。
「こ、黒竜王! 俺の女房も凍傷で手を痛めてるんです! 治してください!」
「おれの娘は目が生まれつき悪くて、どうか治してくださいませ!」
「おらんとこの甥っ子は転んでできた傷の痕が残って、まだ消えねえんです、どうぞ治してやってくだせえ!」
親鳥に、われ先にと群がる雛たちのようだ。そんなふうにシキは思った。
黒竜王が憎くてたまらなくとも、彼らはとても賢い。このわずかな時間で利用価値を量ることができ、なおかつ欲望に忠実なのだから。
思わず、皮肉な笑みがこぼれてしまいそうになった。
男たちは一定の距離を保って、シキを玄関口に向かうよう促した。
「シー君、だめだ! 行っちゃ――」
「ナナルさん」
シキは肩越しに、目線ひとつで制した。
ちょっと行ってきます、という出しなの挨拶を微笑に込めて、シキは男たちと共にナナルの家を出た。
犬の遠吠えが、寒空に長く尾をひいた。




