ナナル・エーレーン
「おう、目ぇ覚めたかい、黒竜王」
シキは木製の簡素なベッドで上体を起こして、いま、なにが起こっているのかを、回転数の上がらない頭で考えていた。
わかっているのは、背中が痛くて目が覚めたら、見知らぬ部屋で、見知らぬ男が視線の先にいる、ということくらいだ。なぜかその男は十年来の友人と再会したような笑みを浮かべている。
むろん、初対面だ。
まだクラクラする頭とギシギシする身体で、部屋全体を見回した。ベージュの壁紙、タイルの床、小さな暖炉、必要最低限の家具があり、すぐそばに申し訳程度のキッチンが備わっている。
「ええと……」
ここはどこだろう。
まず当然の疑問が浮かんだ。
壁ぎわの扉に目を戻すと、やはりそこには、上着のポケットに手を突っ込んで突っ立つ男がいる。しかも笑顔ときた。
というか、だれだろう、この人。
これも当然の疑問である。
「ああ、いまは昼をまわったとこだよ」
男は、シキがなにを言わんとしているのかを察したふうに、よどみなく言ってのけた。
もちろんそういうことが聞きたいわけじゃない。が、男は正鵠を射たとばかりに、バチンと片目をつむった。
男は柄物のシャツの上に、薄汚れた白衣らしきものを羽織っていた。無精ひげに、ぴょんぴょん跳ね上がった栗毛色の髪。年はキリク先生くらい……といっても年齢は聞いたことがないから、三十代であろうと見当づけた。
身なりを整えればそれなりに男前のような気もするが、本人にそういった意識はないようだ。
「あ、そうそう。シャツはもう着れたもんじゃないから勝手に捨てちゃったよ。スラックスは洗って干してあるから、心配ご無用。まあ、しばらくはその服でも着ててよ」
人差し指で示され、シキはとっさに視線を下げた。いつの間にか、ゴワゴワのセーターとよれたスウェット姿になっている。
いまさらながら、あわてて身を硬くした。
身を潜めろってキリク先生から言われたのに、もう見つかるなんて――。
「そんなに警戒しなくてもいいよ。べつに、軍につき出そうなんて思っちゃいないからさ。それより、具合はどうだい? 少しは寝れたかい?」
男が無精ひげを掻きながら、笑った。
そのせいで緊張が一瞬途切れそうになったとき、ベッドの脇から何かがぬっと顔を出して、シキの肩が飛び跳ねる。
「わあっ」
「あっ、わるいわるい、こいつは居候なんだ。おい、びっくりさせなさんな」
すこし鼻の潰れた犬が、ばう、と控えめに返事をした。首を伸ばして見てみると、全身毛むくじゃらの、巨大な犬がオスワリをしている。シキの体重くらいはありそうだ。
そいつがこれまた大きな鼻をふんふん言わせて、シキのにおいを無遠慮に嗅いでくる。
これではなんだか、露骨にクサいといわれているみたいじゃないか。
「オレはナナル・エーレーン。一応、医者やってんだ。ま、こんなとこほとんどだれも来やしないから、たまに二セクの中心街を往診したりするんだけどね。ほらっ、白衣見りゃ、わかんだろう? シキ君」
ナナルは両腕を広げて、自信ありげにぐっと胸を張った。灰色にくすんだ上着を白衣と呼んでいいものか、じつに疑わしい。しかし、本当に疑問に思うべきはそこではない。
「……どうして僕の名前を?」
ナナルが笑みをいっそう深めた。
「きみはオレのことを知らないだろうが、オレは知ってるのさ」
「エーレーンって、もしかして、シムルの――」
「当たり! シムルはオレの息子だよ。きみのことは息子から聞いてて、けっこう前から知ってたからね」
その息子と違ってナナルは屈託なく笑う。見た目もかなり違えば、性格も真逆のようだ。
「黒竜王の復活が各セクターに知れ渡る前から、手紙をもらって知ってたんだ。クラスメイトの正体が黒竜王だってね」
シムルはいつから気づいていたのだろう。もしかしてあの雪山からだろうか?
「どんなに息子がクソ真面目でも、そんなアホなって思ってたから、相手にしてなかったんだけどね……自分の息子の話を信じないなんて、だめな親父だよなぁ」
気恥ずかしそうに頭をがしがし掻いて、ナナルはベッドのそばに置かれた椅子によっこらせと腰を下ろした。毛むくじゃらの犬も、暖炉の前にのそのそ移動して、その巨体をごろんと横たえた。暖炉の火がぱちんとはぜる。
「けど」
やおら聞こえた低い声で、シキは弾かれたようにナナルのほうを見た。
彼の目がやにわに細まるや、一変して冷徹な光が射す。もはやそこに人懐こさは微塵も感じられない。
ナナルはおもむろに腕を組んで、くちびるを曲げた。
「黒竜王に向かってこんな口の聞き方したんじゃ、どんな刑罰が下されることやら……オレを磔にして串刺しにでもするかい? それとも火で炙るのかい?」
口元はニヤニヤ笑っているのに、シキに向ける視線は冷酷といってもいい。
「僕は、そんな――」
そんなことはしない、と口にしかけて、言葉を飲み込んだ。とたんに胃がぐうっと重たくなって、脳裏に紅蓮の炎が奔った。町を焼いた熱までも、のどの奥にこみ上げてくるようだった。
「じゃあ、オレを切り刻んで食べるのかい?」
まぶたの裏に、オルデンの枯れ枝のような腕や肉の乗った皿が生々しく蘇って、また吐き気がゆるりと目を覚ます。残虐で無慈悲な言葉が、鋭く尖ってシキの胸に突き刺さってきた。
「やっぱり、下等な人間を殺すのは楽しかったかい?」
シキは容赦なく向けられる悪意にとうとう堪えきれず、ナナルをありったけの敵意を込めてにらみ据える。すると――
「おっと。やりすぎかな、ごめん、ごめん!」
いきなり声の調子ががらりと変わった。明るい声が、張りつめた空気をいっぺんにほどく。
「ちょっとした確認で、冗談だよ、冗談! シムルから散々聞かされてるから、そんなことしないってくらい、わかってるよ」
「……冗談?」
「うん、冗談。すまんね、黒竜王。ちょっとからかってみたくて。それにしても、本気で怒るとやっぱり怖いね」
怖いなんて言いながら笑う彼の心理が理解できない。
あっ気にとられて目をぱちくりするシキは、彼の気まぐれに当然、当惑した。
「でも、よかったよ。行き倒れた場所がオレの家の前でさ。ま、実際はオレん家じゃくて、転々と空き家を拝借してるんだけどね。ここは第二セクターの外れなんだけど、去年の大寒波の影響で中心街以外は放置された家が目立ってる。それに――」
一度言葉を切って、ナナルは肩をすくめた。
「あの日、三セクにあったオレの家はなくなっちまったから、ありがたいよ」
「それって僕の、炎で……」
「ま、それはさて置き、ほとんどの住民はさっきオレが脅した比じゃないくらい、黒竜王を死ぬほど恨んでいるし憎んでる。家や家族を焼かれたんだ。憎むなってほうが無理あるさ。ま、オレはべつに家族が死んでもないし、掘っ建て小屋が無くなっただけだから、恨みつらみなんてハナっからないけど。さて、こうやって出会ったのもなにかの縁だ。しばらくここで身体を休めたらいいよ。軍人サンたちがきみを捜してるから」
「もしかして、僕が軍から逃げたってこと、北国の人はみんな知ってるんですか?」
「ああ、投獄されていた黒竜王が牢屋を爆破して脱獄したって触れ回っているからね。今朝も兵士がここに来たし」
さも迷惑そうに、ナナルが息をつく。
「待ってください、僕が地下牢を爆破?」
「そう、軍の情報じゃそうなってる」
ペンドラゴンは僕にそんな真似ができないことを知っている。なら、なぜ間違った情報が流れているのか。
「軍が襲撃されたって、知られたらまずいとか……?」
「へえ、襲撃ねえ。それが本当なら、ご自慢の軍事力もザルだねぇ」
シキがベッドの上で黙考していると、その肩にぽんと手が置かれた。いつの間にかナナルが立ち上がっていた。
「ま、いまは一番睡眠が必要なんだ。難しく考えるのはいったんやめて、ゆっくり休みな」
「……いいんですか? 僕を匿ったりして」
「もちろんいいに決まってる。病人を放っておけるかよ」
まぶしいくらいの笑みを向けられて、目のやり場に困ったシキは、うつむきながらぽつりと礼をいった。暖炉のそばで、あおお、とあくびが聞こえてきた。
「気にしなさんな。オレは医者で、しかもここは診療所だから。一応ね」
ナナルに助けられて、すでに一週間が過ぎていた。
だれかの家とはいえ、暖房の備わるあたたかい暮らしは、ずいぶん快適だった。
「まあ、この犬っころは、そのうち出て行くだろ」
家の中をわがもの顔で闊歩する毛むくじゃらの犬は、当然のようにこの家に居座っていた。それを追い出そうともせず、仮住まいの家主はのんきに笑うだけだ。
その家主はというと、相変わらず薄汚れた白衣を羽織っていたし、無精ひげも一週間ほったらかしで、はじめに会ったときより、ずいぶんみすぼらしくなった気がする。
「シー君は髪の毛、あんまりくせっ毛じゃないんだ?」
夕食を終えてシキが食器を洗っていたときだった。食卓テーブルに頬杖をつくナナルが、興味深げな視線を向けてくる。
「……ナナルさんの髪って、くせっ毛なんですか?」
寝ぐせだと思うが、あえてそう尋ねた。
「いやあ、毎日まいっちゃうよ!」
はははははと楽しそうに笑うから、そういうことにしておこう。
濡れた手をタオルでぬぐいつつ、シキは乾いた笑みでやり過ごした。
「ああ、食器ありがとね。手ぇ冷えちゃっただろ? 風呂に入ってきなよ。火はもうくべてあるから」
「ありがとうございます、でも、先にナナルさんが――」
「だいじょうぶ、オレは三日に一回、シャワー浴びてるから」
なにがだいじょうぶなのか。
しかし自分ではこういうものの、シキには毎日あたたかい風呂をわざわざ用意してくれるのだ。黒竜王だから丁重に扱うというわけでもないらしく、「気にしなさんな、単なる世話焼きオジサンだから」と笑い飛ばされてしまった。
一見してだらしない彼の内面は、実は意外にもキレイ好きで几帳面である。
容姿に関しては極端に無頓着なくせに、家の中はホコリのひとつも許さぬ完璧な状態を保っていた。壁に引っ掛けてある鞄の中には、どれも丹念に磨かれた医療器具――ナナル曰く、それぞれメスやコッヘルという名称があるらしい――が整然と収まっている。
また、自分本位かと思えば、実際はつねに息子の身を案じているし、赤の他人のシキにさえ気を配る細やかさがある。
とても不思議な人物だった。
「シー君にしよう」
ナナルの家で目覚めてあらかた状況説明がおわったその夜に、彼はぽんと手を叩いてそう宣言した。
「なにが、ですか?」
「だから、呼び名だよ、呼び名」
「シー君……?」
ベッドにちょこんと腰掛けるシキの前で、ナナルはにこにこしながら「うん」と首肯する。
「シキクン、だと、空気が抜けたような感じで、呼びづらいから。シキ君の『シ』で、シー君」
理由はわからないが、なぜかとても抵抗感がある。
なぜか全力で否定をしたくなる響きだった。
「……はじめて呼ばれます」
「さすがに呼び捨てにするのもアレだし、黒竜王って呼ぶのはなんだかよそよそしいしさ。なあ、どうだい!」
どうだいと言われても、そもそもシキには決定権がないのではないか。
「どう、いいだろう?」
「いいと思います……」
「そうだと思った!」
顔をほころばせる彼を見ていると、まあ、シー君でも仕方ないか、と思えるから不思議だった。そのときふと好奇心がわいて、シキはキッチンに向かうナナルを呼びとめた。
「あの、ナナルさん。もしかして、シムルもシー君なんですか?」
「おっと、惜しい!」
ふり返ると同時に、人差し指と親指をぴんと伸ばして、拳銃の早打ちみたいなポーズを決める。
「シムルはね、ムッちゃんだよ。そうやって呼ぶと、すんごい怒るんだ」
思わずぶっと吹き出して、つばかなにかが気管に入り込んだ。おおいに咽て、ゲホゲホやるシキの背を、ナナルが笑いながらさする。
「やっと笑ったね、笑うのはいいよ。元気になれるから」
「はい」
ふたりでひとしきり笑ったあと、ナナルがぱちんと両手を打った。
「さて、晩飯にしようか。あんまり食材がないから、たいしたもん作れないけど」
「いえ、僕は食べなくても平気です。それに――」
「いいや、一緒に食べよう。そのほうがいい」
それに、第一セクター以外では食糧事情がよくないことはウルトから聞いている。彼にとっても貴重な食べ物だ。
なのに、ナナルは一笑した。
当然わかっていながら、ナナルは一緒に食べようというのだ。
「いままでだって、そうやってきただろう? それを変えてしまうなんて、ナンセンスだよ」
そうやって一週間、シキは穏やかな日々を送っていた。
暦はシキが知らぬうちに、十月を迎えていた。学校にいたときはまだ六月に入ったばかり――あの日から、四ヶ月が経っている。
「あれから四ヶ月も経ってるのに、軍は第一セクターしか復旧作業してないもんだから、こっちはもう悲惨ってわけだよ」
キッチンで芋と根菜のスープをかき混ぜるナナルが肩をすくめる。
今晩の食事はこのスープとパンと、干し葡萄だ。ちなみに、昨日の夕食もほとんど似たようなメニューである。
シキは食卓テーブルについて、もう四ヶ月なのか、まだ四ヶ月なのかを考えていた。椅子の下には、居候のでか犬――名前を付けるのもおかしい、ということで、ナナルがそう呼んでいる――がからだを伏せておこぼれを待っていた。
「おまちどうさん」
「ありがとうございます」
「ほれ、お前にも」
パンをスープに浸した皿を床に置くや、でか犬が一口で平らげてしまった。アツアツのスープを上手に舐めって、テーブルの上に料理が運ばれる頃にはもう、でか犬は暖炉のそばに移動していた。
食卓では、手も口も動かしっぱなしだ。
魔法学校での生活、授業について、シキが旅した東国での物語、さらにはナナルの奥さん自慢話とムッちゃん自慢話がこれまた長かった。
食事は魔法学校の料理と違って、ずいぶんとさみしく――有り体に言えば、粗末なものだった。だが、ナナルが心を込めて作るスープの温かさや、煮えた芋のほくほくした歯触り、パンの香ばしさが、シキのからだをゆっくりとあたためてゆく。いや、きっと目の前で楽しそうに笑う、ナナル・エーレーンの存在もあってこそなのだろう。
ただし、どうしても受け入れがたいのは、毎晩、夕食のあとだ。
「さっ、ぐいーっといってみよう」
「ナナルさん、もう、ホントに気にしなくてだいじょうぶですから……」
目の前にトンと置かれた細長の小瓶。中には、禍々しく泡立った紫色の液体がたっぷり注がれている。
これを飲み干せというのだ。一体どこから持ってきたのかは、教えてくれない。
「滋養強壮にいいから、へーき、へーき」
なにが平気だというんだ。渋っていると、ナナルは片手でシキの口をこじ開け、有無を言わせずヘドロのような液体を口に流し込んでくる。むせ込む前に、素早くのどをさすられて、それが胃に落ちてきた。
毎回恒例のすさまじい吐き気に、シキはもんどりを打った。
「まあ、一週間つづけたし、ここらへんで勘弁してやるか」
笑いながらそんなことをいうナナルに、このときばかりは本気で極刑に処してやりたい衝動に駆られた――。
シキが食卓テーブルでぐったりしていると、
「もう頭痛とか、めまいはない?」と、ナナルが尋ねてくる。首を縦にふれば、ふわっとした笑顔が降ってきた。
「そりゃ結構」
「……ナナルさんは、どうして僕にここまでしてくれるんですか?」
そうだなぁとつぶやいて、ナナルは窓の外に目をやった。カーテンを引いた窓からは、外の様子は覗えない。それでも、ナナルはぶ厚い雲の向こう側に浮かんでいるはずの、双子の月を眺めるように、宙を仰いでいた。
「あの日、黒竜王は北国を焼き滅ぼすつもりなんじゃないかって、思ったよ。とんでもねぇ悪竜だってな。でも、きみと出会って、ああ、そうじゃないって判ったんだ。そう、ひと言でいえば、安心した。きみがさ、オレの罵声に対して怒ったとき、なんだろうな……よくわかんないけど、すごく、安心したんだよ」
ナナルが窓からシキへと視線を移す。
彼のまなざしは、スープよりも、暖炉の火よりも、湯に浸かるよりも、ずっとずっとあたたかかった。




